「御生涯」
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『教祖杉山辰子先生−その御生涯とみ教え−』

監修 杉崎法山. 編纂 大乗教教学部. 発行 大乗教総務庁.

(1967年6月28日 第1版第1刷発行. 1999年6月28日 第2版第1刷発行.)

(c)1999-2005 Daijokyo  不許複製.

*インターネット版に関するご注意*


まえがき

 釈尊御一代を通じての御誓願は、 いわゆる 「衆生無辺誓願度」 (安立行菩薩) 「煩悩無数誓願断」 (浄行菩薩) 「法門無尽誓願知」 (無辺行菩薩) 「仏道無上誓願成」 (上行菩薩) の四誓願で、 仏教徒として 「仏の教を学び、 煩悩を断ち切ろう」 「自分の悟ることによって、 多くの人のためになろう」 という、 どんな人々にも共通な願いです。 この根本的な四つの誓願を代表するのが、 上首唱導、 本化の四大菩薩です。 逆にいえば、 この四大菩薩は、 あらゆる仏教徒の根本的な願いの象徴であるとも言えます。

 釈尊が法華経を説かれるに当たり、 迹化の菩薩等の弘法の希望を斥けられて、 久遠の昔から既に教化された本化の菩薩を召し出され、 末法の教化を付嘱されたことは、 経典に明らかなところです。 いいかえると、 五濁末法に正法弘通の使命を持つのは、 本化地涌の四大菩薩以外にはないのです。

 その四大菩薩の一人、 上行菩薩の出現といわれる日蓮聖人は、 像法の終わり、 末法の始めに出られて、 法華経流布に努力されました。 しかし世間では、 上行菩薩である日蓮聖人だけを認めて、 無辺行、 浄行、 安立行の他の三菩薩については、 これを説く人も知る人もありませんでした。 法華経は末法万年の闇を照らす、 釈尊の準備された唯一無二の経典で、 その 「皆是真実」 であることを疑う人はありませんが、 尊い法華経が存在するに拘らず、 実の法華経行者は久しく世に出られませんでした。

 しかし、 ここに天の福音ともいうのでしょうか、 大正三年秋、 名古屋市東区清水町に仏教感化救済会を設立された教祖杉山辰子先生は、 四菩薩中の安立行菩薩として出現されて、 その使命を果たすべく、 末法における正法弘通を誓われたのであります。 当時、 杉山先生の御教説は仏教界破天荒のもので、 法華経方便品の 「十如是」 のうち、 「相・性・体」 の哲理を直ちに人類上に応用され、 また他心通をもって人の心理の状態を洞見されたり、 宿命通によって人の過去を観察されるなど、 今人未発の通力をもって、 あらゆる方面から人々の精神状態の改善をはかられました。

 先生の御教化の方法は、 あくまでも事実的な問題に重きをおかれて、 理論だけに偏らず、 事・理を通じて精神の修養に努力するよう教えられました。 そして過去の罪業も、 その多寡(たか)に応じて、 消滅、 軽減の道を講じられて、 ついには心の垢穢(こうあい)を去る法によって、 人々の迷夢を醒まされました。 その実行の法は、 一々経文に基づかれて、 貧者は福徳者に、 病弱者は健康者に、 苦悩の者は歓喜者に、 人々は夫々その処を得て、 仏子として、 本分を悟られました。 しかも実行によっては天眼を得て、 自己の運命を予知したり、 一家の禍福を予言する通力を得た人も沢山ありました。 また国家的な問題として、 重大事件を未然に予言して当局に建言して、 百発百中、 人々を驚嘆させられた実例は枚挙に遑ありません。 これこそ地徳を持たれる安立行菩薩のお力であって、 杉山先生の実践的御教化と、 体得された神通力によるお働きは他に例を見ません。 経文に照らして、 時代的要求である安立行菩薩の出現であることに一点の疑いもありません。

 その安立行菩薩としての使命を実践された、 教祖杉山辰子先生の御教を受け継ぐ私共が、 今日何よりも他に誇り、 教徒として喜びとするところは、 先生が私共のために、 久遠実成の釈迦牟尼仏を中心とする 「一尊四菩薩」 の御本尊を、 絶対不二の大御本尊としてお定めくださったことです。 この一尊四菩薩 (久遠実成の釈迦牟尼仏と上行、 無辺行、 浄行、 安立行の地涌菩薩) こそ、 日蓮聖人も、

  「本門久成の教主釈尊を造り奉り、 脇士には久成地涌の四大菩薩を造立し奉るべし」

  「今末法に入れば尤も仏の金言の如くんば造るべき時なれば本仏、本脇士造り奉るべき時なり」

 といわれた閻浮堤第一の大本尊なのです。

 教祖杉山先生が御入寂されて三十六年、 まさに時代は末法の様相を呈して、 真に物心両面の救済を願求する声に満ちております。 現代ほど杉山先生の 「地徳の教え」 を要求される時代はありません。 この時に当たって教祖の御遺徳をしのび、 その御一代の御実蹟と御遺教を蒐め、 『教祖杉山辰子先生』 として上梓することになりました。 この一書によって、 杉山先生が身をもって示された御遺教の真髄を、 少しでも世の方々に訴えることが出来ますれば、 この上なき幸せであります。

 皆さま方と共に 「我身宝塔、 宝塔我身、 我身の外に宝塔なし」 の教えを胸に、 行住坐臥 「妙法蓮華経」 を唱題して、 大乗広宣流布に一層の精進を重ねたいと誓うものであります。                                  
                                  合 掌

    昭和四十二年六月吉日

                       大

                    杉 崎 法 山 誠 識 


 

「教祖の御生涯」目  次

 

御誕生

鈴木キセ先生の御教導

早くも天眼通を得らる

知多郡の修行と牧先生

因果の理を説かれる

臥竜山から三河白川に移られる

一念三千を悟られる

白川村を去られる

仏教感化救済会の設立

東西南北の仏性と欠点の矯正

業病の施療

胎内教育でよい子を産む実証

仏道とは日々徳を積む道

不思議な神通力

盲目となりしことあり

世人に覚醒を促す

罹災民の救済に挺身される

農業を通じて青少年を感化

模範とすべき節約の実行

実行に勝る教えはない

療養所の計画と憂国の予言

永遠に生きる偉大な理想

正しき成果、 青蓮華の舎利

 


教祖の御生涯

 

 

斯の人世間に行じて

能く衆生(しゅじょう)の闇を滅し

無量の菩薩(ぼさつ)をして

畢竟(ひっきょう)して一乗(いちじょう)に住(じゅう)せしめん

−神力品(じんりきほん)−

 

 

御  誕  生

 慶応四年、 五、 六月の頃でありました。 美濃・尾張の各地に紙の御札が降りました。 村人は不思議に思い、 いかなる前兆かと語り合いました。 しかし神様の御札が降るということは、 吉兆(きっちょう)であろうと、 御札を祀って祭礼をするところもありました。 それがあちらの村もこちらの村もですから、 村の酒屋さんは古酒も新酒も売り切れたということであります。
 岐阜県笠松(かさまつ)町の八幡(はちまん)神社の隣に、 杉山定七という人がありました。 笠松の五人衆といわれ、 代々名主として名望(めいぼう)のあった家で、 その当時は菜種油搾取(さくしゅ)と織布を業としておられました。 大乗教(だいじょうきょう)教祖杉山辰子(すぎやまたつこ)先生は、 その定七氏と妻そのさんの二女として御誕生遊ばされたのであります。 姉はてるといい、 二女の杉山先生は辰年に生まれられたので、 「たつ」 と名づけられたということです。
 丸々と太った稚児は、 泣かぬ子と呼ばれる程におとなしく、 変った子だ、 よい子だといわれました。 近所隣の児等の喜ぶのをみて、 大層喜ばれたそうで、 わずか五、 六才の少女としては、 余りにも変わってやさしい子でありました。
 先生の御両親は、 胎内教育(たいないきょういく)として、 先生が胎内に宿ると同時に、 一心に神仏の信仰をされたのであります。 その結果、 先生のような貴い、 神か仏のようなお方がお生まれになったのであります。 杉山先生十六才の頃、 杉山家は数十万の財産も不慮(ふりょ)の災難(さいなん)により、 だんだん衰え始めました。 この有り様をごらんになった杉山先生は、 乙女心に何とか挽回(ばんかい)したいものと、 ひそかに小さな胸を痛めておられました。
 明治十六年、 戸田伯爵(はくしゃく)が信仰されていた大垣(おおがき)市の鈴木キセ先生という熱心な法華経(ほけきょう)の行者(ぎょうじゃ)があって、 いかなる煩悶(はんもん)もよく解決されるということをきかれ、 早速大垣市に鈴木キセ先生をお訪ねになられ、 教えを受けられることになったのであります。

 

鈴木キセ先生の御教導

 鈴木キセ先生は当時、 岐阜県県会議員鈴木利太氏の母堂(ぼどう)であります。 この方は六神通力(ろくじんづうりき)といって、 天眼通(てんげんつう)・天耳通(てんにつう)・他心通(たしんつう)・宿命通(しゅくみょうつう)・神足通(じんそくつう)・漏尽通(ろじんつう)に秀でておられて、 現在は勿論(もちろん)、 過去の事、 未来の事まで洞見(どうけん)されて、 世の人々から崇拝(すうはい)され、 男子も及ばぬ徳の高い人でありました。 貧困者には食物をあたえ、 廻国(かいこく)巡礼者を宿泊させ、 泊まる者が多くて寝具が不足した時には、 自分の寝具を貸しあたえて、 自分は室の隅に仮寝をして冬夜の寒さを忍び、 又は夏夜の蚊軍襲来に耐えて、 自分の不自由をかまわず、 人に喜びをあたえることを無上の喜びとして、 ああ徳が積めた、 よい種を播(ま)いたと喜ばれたそうであります。 到底凡人では出来ない事で、 仏道の体得者として貴い実行をされたお方であります。
 杉山先生は、 鈴木キセ先生を大垣市の自宅に訪ねられ、 家運挽回(かうんばんかい)の方法を問われたのであります。 その時、 鈴木キセ先生の申されるには、
  「この世は諸行無常(しょぎょうむじょう)・生者必滅(しょうじゃひつめつ)であって、 誰しもこの理を離れることはできません。 お金というものも人間の生活には大切なもので、 これが正しく使われるならば、 実に貴いものであって賤(いや)しむべき理由はありません。 しかし一体人間は、 何のためにこの世に生まれたのでしょうか。 万物の霊長(れいちょう)といわれる人間は、 世のため人のために働いて徳を得なければならない筈です。 徳を積むために生きる、 その生活のために必要なお金、 それは人間が仏となるべきための修行(しゅぎょう)を助けるお金といえるでありましょう。 こうして人間が成仏(じょうぶつ)するならば、 お金も成仏する、 真の宝となるのです。 あなたの家のお金は、 いかなる事に使われているでしょうか。 あなたの家の財産は、 惜しい欲しいで積み上げた財産でしょう。 無くなる時は早いか遅いかのちがいで、 結局なくなるものですよ。 あなたが今から菩提心(ぼだいしん)を起こして修行されるならば、 財産の全部が成仏をします。 お金が成仏する工夫をするのが何より肝要(かんよう)です」
 と懇(ねんご)ろに教えて下さいました。 杉山先生は深くその真理を悟られて、 財産の執着(しゅうじゃく)から離れ、 専心仏道修行に精進(しょうじん)しようという決心をなされたのであります。
 鈴木キセ先生は、 その後濃尾の大震災や日清・日露の両戦役の予言をされました。 また日露戦争のとき、 名高い高千穂艦のマストに鷹がとまった話は、 皆さんもよくご存知のことでありますが、 更に次のような逸話が残っています。
 それは日清・日露の戦役のとき、 捕虜となった敵兵が、 日本軍には赤服の兵士が加わっていて、 その兵士に向かっていかに発砲しても、 少しも退却せず進撃してくるが、 実に不思議である。 その勇敢な兵士に一度会わせてもらいたいといったそうですが、 赤服の兵士は我軍にはおらず、 これは 「臨兵闘者皆陳列在前」 と九字にあるように、 天の童子すなわち諸天善神が我が国を護って下さったのであります。 フランスのジャンヌ・ダークのように、 身分はいやしくとも、 国を思う誠心は誰にも譲らず、 鈴木キセ先生の赤誠が諸天善神(しょてんぜんじん)に通じて、 天の童子を動かしたのであります。
 鈴木キセ先生の徳行(とくぎょう)の顕れとして、 ある日天から美しい御珠が降りてきたことがありました。 鈴木家の門口に遊んでいた子供等が、 あれよあれよと手をさしのべたけれども、 御珠は鈴木キセ先生のご令息利太さんの掌の上に乗ったのであります。 その御珠は今は大垣市三塚町宝光寺に保存されてあります。 この御珠は手をふれると、 ちょうど人体にふれて感ずるほどの温か味があり、 又よく吉凶を知らせ、 良いことのあるときは膨張し、 凶事のある前には収縮するという、 不思議な現象を現す珠であるといわれています。 この御珠を授かったとき天より声があって、 「汝は本化四菩薩(ほんげしぼさつ)の一人たる無辺行菩薩(むへんぎょう)の出現と心得よ」 と聞こえてきたそうですが、 これが天耳通であります。 その御珠が授けられてから、 なお一層人々を善導教化(ぜんどうきょうげ)することに努力され、 世界の平和を祈念されたのであります。
 ある日杉山先生は、 鈴木キセ先生にお尋ねになりました。
  「いかなる修行を積みましたら、 先生のような大神通力(だいじんづうりき)が得られましょうか」
 これに答えて鈴木キセ先生の申されるには、
  「それには慈悲(じひ)・誠(まこと)・堪忍(かんにん)の三つを常に修養し、 他事なく妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)、 妙法蓮華経とお唱えなさい。 そうすればわが身の罪障(ざいしょう)を消滅(しょうめつ)することができるのです。 罪障を消滅すれば、 ちょうど玉を磨いて光を発するように、 わが身の光によって三世(さんぜ)のことがよく分かるようになるのです。 これが神通を得る秘訣(ひけつ)であります。 よく修行して下さい。 そうして、 妙法(みょうほう)を唱えて実行するよう人々を勧誘し、 その人たちの供養(くよう)をして、 善根(ぜんこん)を積んでゆけば、 必ず神通力が得られます。 一生懸命に精進なさい」
 と親切に指導なさいました。 杉山辰子先生はいわれるままに一心に修行をされ、 行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に妙法蓮華経、 妙法蓮華経と唱えて、 法華経の実行に努力されました。

早くも天眼通を得らる

 杉山先生十九才の時、 お寺にお参りへ行かれて、 瞑目(めいもく)合掌しておられると、 沢山の位牌(いはい)が犬の形や馬の形、 さては蛇、 魚等に見えたのでありました。 今までに見たことのない不思議なことで、 夢ではなかろうかと頬を抓(つね)ってみれば、 やはり痛いのです。 夢ではなくて瞑目すると、 このような不思議な姿が見えるのです。 これは即ち早くも天眼通(てんげんつう)を得られたのです。 それ以来は来るべき吉凶も、 過去の出来事もよく洞見(どうけん)されるようになりましたが、 不思議に思われることは、 位牌が動物の形に見えたことで、 早速と鈴木キセ先生にお尋ねいたしますと、 キセ先生は、
 「釈尊(しゃくそん)があるとき阿難尊者(あなんそんじゃ)を召されて 御手の爪の上に土をのせられて、 『阿難よ、大地の土とこの爪の上の土と、 どちらが多いか』
 とお問いになりました。 阿難尊者は、 『それは誰が見ましてもよくわかったことで、 大地の土の数はいかなる算師でも、 到底人間の力でも数うることはできません。 爪の上の土との比ではありません』
 と答えました。 釈尊はお言葉をつづけられて、
 『阿難のいう通りである。 霊魂(れいこん)というものは無数にあるが、 その中で人間に生を享(う)ける者は、 大地の土に比べて爪の上の土のようだ。 地獄(じごく)、 餓鬼(がき)、 畜生(ちくしょう)の三悪道(さんあくどう)に生を享ける者は大地の土の数の如く多く、 人間に生を享ける者は爪上の土ほど少ないものである。 また人界(にんかい)に生を享ける者を大地の土ほどとすれば、 菩提(ぼだい)の心を起こして退転(たいてん)せず、 菩薩仏界(ぼさつぶっかい)に到る者は爪上の土ほど少ないのである』 と仰せられました。 折角(せっかく)人界に生を享けても、 妙法を信ずる力がなかったならば、 あなたが見られる通り、 畜生等に生を享けて、 無数の劫(こう)を苦しみ通さねばなりません」
 と教えて下さいました。 杉山先生は信仰のない生活の哀れを思い、 ますます修行に精進されました。 それ以来世間で評判の盛んであった千里眼(せんりがん)的な透視ができるようになりました。
 しかし鈴木キセ先生から教えられた修養法のみでは、 まだ完全に苦悶を解決することはできませんでした。 自分の苦悶を解決ができぬようでは、 世の中の人々の苦悶を解決することはできない。 これにはキセ先生から教導された教えを基礎にして身心の練磨(れんま)をしようと、 断食(だんじき)や水行をなされたのであります。 そのころ名古屋の本立寺(ほんりゅうじ)という日蓮宗の寺院で百日間の修行をするため、 住職名倉順慶(なくらじゅんけい)師に許しをうけて、 断食の行にとりかかられました。 最初の三日間は徐々に食を減じ、 いよいよ四日目からは水を少々飲まれるだけで、 十日間つづけられましたが、 さらに疲労の色もみえません。 ついに十数日を経ても余り変わりがないので、 住職はこの様子を不思議に思われました。 そこで食事時に膳部を二つ作って、 一方は魚肉類の美味を盛り、 他方は野菜のみをつけて杉山先生にすすめられました。 こうして蔭から様子をうかがってみましたが、 別段変わった事もなかったのであります。
 住職は杉山先生の態度が普通とは変わっているので、 これは俗にいう魔神がついているのに相違ない、 中山法華寺で修行を積まれた前塚町顕性寺(けんしょうじ)の住職に依頼して、 祈祷(きとう)をしたなれば、 不思議を解くことができるであろうと、 ある日杉山先生を誘われて顕性寺に同行されました。 顕性寺の住職は名倉師と打ち合わせがあったものとみえ、 杉山先生には誠に不思議なことがあるからといって、 魔神退散(まじんたいさん)の祈祷をされましたが、 別になんの変わったこともありませんでした。
 その当時、 天耳(てんに)をもって 「我は最上位経王大菩薩(さいじょういきょうおうだいぼさつ)なり、 汝の守護をなす、 今より四カ月後に利益(りやく)を示さん」 という声をきかれました。 丁度明治三十三年十月、 その経王大菩薩のいわれたように、 かつての貸金で断念していたようなのが、 二口も三口もそろって急に返済されてきたりして、 何と考えても不思議なことがありました。
 この現証(げんしょう)を得て、 諸仏善神(しょぶつぜんじん)が心を正しくして妙法を唱える者を、 よく守護して下さることは本当に確かであると、 信念を深くされました。 そしてかの鈴木キセ先生のように、 天の童子を使い、 あるいは国家の安穏(あんのん)を祈るというようなことはできなくても、 一家の平和と難病平癒(なんびょうへいゆ)の法を講ずるならば、 必ず人々に利益をもたらすことができるという希望をもたれたのであります。

知多郡の修行と牧先生

 明治三十四年、 杉山先生は愛知県知多郡の臥竜山(がりゅうざん)に入られることになりました。 杉山家には以前から知多郡阿久比村(あぐいむら)矢高(やたか)にある臥竜山に約一町歩ほどの田と、 五十町歩ほどの山林がありました。 そこに農事小屋を建てて、 母そのさんや甥の七郎さん、 辰造さんらと共に農事に従事されていたのですが、 その小屋に住んで修行をされることになったのであります。 杉山先生が断食をしたり、 水行をされる有様は何となく常人とは変わった風体でありますから、 親類の人からも、 近隣の人からも、 変わった人だ、 変な人だ、 油屋のおばさん (先生のこと) は気違いになったなどと噂をされました。 
 その年の秋もようやく深くなって、 落葉の上も霜で真白になっているある暁方のこと、 大野町から半田に通ずる山道を通行されますと、 水の少ない半田池の水ぎわに、 六十才ばかりの老人が濡れ鼠になって震えている姿を見つけられました。 ともかく農事小屋へ連れていって、 着物をかえてやり、 手当をしてやってその事情を尋ねられました。 この人は余り世間にその名を知られませんでしたが、 明治初年における日本医学界の改革の一人者といわれた牧静衛 (まきしずえ;安国(あんこく)ともいう) その人でありました。 牧先生は長野県の人で、 幼少から医道に志し、 明治初年オランダに渡って、 西洋医術を学ばれたのです。 帰朝された当時は西洋文明を嫌う人々に排斥され、 一方ならぬ艱難をされたそうです。 しかしみずからよくその科学薬の日本人に対する効能、 作用等を研究され、 医道に貢献するところ頗る多かったそうです。 当時、 牧先生は名古屋市外有松町に在住していましたが、 重なる不幸に心も顛倒して、 遂に死を決せられるに到ったということでありました。 杉山先生はそのあさはかな考えをさとされ、 死を思い留まらせて仏道修行をすすめられました。 惜しいことには、 医道においては抜群の腕前をもっておられた牧先生も、 仏道に関しての素養がないのか、 徳の足りぬためか、 一向に仏道を信ずることができませんでした。 しかし杉山先生はその頃難病平癒の方法を考えられていたので、 それとなく医法と精神修養の両面をもって、 完全に病を治すようにと励まされたのであります。 しかし牧先生は、 やはり仏道に縁の遠い方で、 この精神的な治療法を併用することを得ずして、 両三年後に病没せられました。 まことに不幸な方でありました。 

 

因果の理を説かれる

 杉山先生は薬餌療法と精神療法との両面をもって、 病に泣く者を救済したいという志を抱かれておりました。 そして愛知県中島郡萩原町に加藤某という医師のあることをきかれて、 同人は奥町方面で開業しているとのことで失望されました。 しかし更によき人はないものかと求められた結果、 明治村横野に村上斎(むらかみいつき)医師を訪ねられました。 村上医師は愛知医学校に奉職するかたわら、 眼科の研究をされておりましたが、 度重なる不幸のために五、 六十万の財産も皆無となり、 妻には去られ、 生きる方法さえつかない有り様で、 いっそ死んだ方がいいという悲境におちこんでいました。 次から次へと災難に襲われ、 自殺まで決意した村上医師の身の上を聞かれた杉山先生は、 非常に気の毒に思われ、 経典を引用して因果の道理を説ききかせられたのが次のお話であります。 
  「昔、 印度に頻婆裟羅(びんばしゃら)という王様があった。 国は栄えて何不足もなかったが、 ただ一つ王位を譲るべき太子に恵まれぬことが悲しみであった。 ある時易者をよんで占わせると、 易者の曰く、 
  『王のご領内の山奥に一人の聖者が住んでいるが、 今から十年たつと死に、 生まれ変わって御子とならせ給う。 その御子こそ王位を継承される太子であられる』 
 と言上した。 王は喜びの余り、 今から十年先を待ち切れなくなり、 直ちに家臣に命じてその聖者の生命を奪わしめた。 それから間もなく王妃は懐姙されたが、 それと同時に頻婆裟羅王のお顔には剣難の相が現われた。 易者はこれを占って、 
  『今王妃に宿らせられる御子は、 やがて王を害し奉る太子である』 
 と申し上げた。 因縁因果を知らぬ王は心中大いに憂い、 生まれると同時に太子を刺殺して、 害を未然に除こうと決心された。 これを聞いた王妃は嘆き悲しみ、 王を諌めて申し上げるには、 
  『王は先頃十カ年の寿命を保つべき聖者を害せられ、 その聖者因縁あってわが胎内に宿る。 今又その御子を殺害されようといわれる。 王もし慈悲の心あらば、 わが申す処を聞かせられ給え。 われ月満ちて出産の際、 刃を三尺下において、 その上に生みおとし、 刃にかかれば、 手を下さずとも御子の命は自然に戻る。 もし又刃にかからず、 幸いに御子の寿命があるならば、 願わくはこれを助けたまえ』 
 と嘆願されました。 王は妃の諌めを容れて、 その言の通りにされることになった。 
 いよいよ月みちて誕生のとき、 刃の上に生みおとされた御子は、 わずかに小指を切り落としたのみで、 命に別条なかった。 後に成長して阿闍世(あじゃせ)太子となられた。 しかるに悪因の縁がきれていないために、 太子は堤婆達多(だいばだった)にそそのかされ、 出産当時の事情をきいて、 憤怒に狂い、 父王を七重八重の牢獄に投じて、 食を与えず、 終に餓死に至らしめたのである。 それが因縁因果というものです。 又、 阿逸多(あいった)という人は、 波羅奈(はらな)城に生まれ、 父王と意見が合わないため、 父王を殺し、 又父の愛する阿羅漢を殺し、 それのみならず、 生みの母親までも殺したが、 その後釈尊の教化をうけ、 因果の恐ろしさを悟ってお弟子となられた。 そして智第一の舎利弗よりも、 神通無礙の菩薩よりも、 この阿逸多は最も賞歎されて、 代語師に選ばれたのである。 今法華経随喜功徳品(ずいきくどくほん)の中に阿逸多とあるはこの人で、 この人こそ後の弥勒菩薩である。 
 阿闍世王といい、 阿逸多といい、 いずれも国王と生まれられるには、 過去に十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)を持ち、 善根功徳を積んで王家に生まれられたが、 しかし悪業の因縁の故に種々の災禍に遭われたのである」 
 杉山先生はこの経典を村上医師に聞かせ、 「この因果の二法を悟らずして、 今あなたが現在の苦しみより逃れるために自殺を遂げられても、 決して苦しみはなくなるものではありません。 未来は尚一層の苦しみを受けねばなりません。 およそ変死を遂げる者は”必ず地獄を免れず”と天台の止観にもいわれておりますよ」 とその不心得を懇々と諭されました。 今は恐ろしくて死ぬにも死なれず、 始めて悪夢から覚めたような心持ちに、 村上医師は今更の如く己の迷妄に恥じ入られました。 
 およそ人として国王、 大臣として生まれられるお方でさえ、 罪障のためにはかくも悩まされるのである。 ましてや罪深い者の艱難苦労は当然のことである。 今後は杉山先生のお導きに従って、 一心に仏道修行をなし、 我身の罪障を消滅すると共に、 世をはかなんでいる人々を善導しようと、 村上医師はかたい決心をされたのであります。 
 その後、 村上医師は半田町 (半田市) の日蓮宗金比羅山寛良寺(かんりょうじ)に寄宿して、 経文を調べること半カ年、 その間に文上については余程まで読み知ることができましたが、 これを活用することの難しさを自覚されました。 そして杉山先生の教化により、 深くその徳に敬服していましたが、 まだ何らかの惑いがあって、 ある易者を尋ねました。 易者は、 杉山先生の人相は世に珍しい福相を具えられている、 このお方に随って事をなせば、 成就せぬということはないと申しました。 その福相とは第一、 額の中央が普通の人は低いが、 このお方は平らかで淡紅色をしている。 また鼻は普通よりも大きく、 両頬の肉付き肥満し、 耳の大きい事はまず比類ないでしょうと申しました。 ここに於いて村上医師は、 この福相を具備した慈悲深い杉山先生に、 どこまでも随って進まねばならぬと決心されたのであります。 

 

臥竜山から三河白川に移られる

 教祖杉山先生は村上斎医師と共に、 知多郡阿久比村臥竜山の湧き出る清水に毎日水行をしてはお題目を唱え、 又断食をしたり、 経義についての研究をつづけること九年間でありました。  
 その当時、 杉山先生はある事情の下に、 三千円という大金を借りて、 ひそかに心を痛めておられました。 これを知った村上斎氏は何とかしてその解決を計りたいと考えましたが、 臥竜山にては医院の開業もできず、 たまたま知人の山中周郎氏が瀬戸に居るのを思いつき、 早速相談に行きました。 そしてどこか静かな山村で、 何とか生活の安定を得て、 仏道修行をしたいと相談しますと、 山中氏のいわれるには、 瀬戸の東約四里の三河藤岡村は無医村で、 誰か良い医師はないかという話をきいたが、 そこへ行ったらよろしかろうと、 藤岡村村長にあてた紹介の添書をくれました。 
 時は明治四十三年一月七日、 田の面には氷が張り、 霜柱が立ち、 道も凍てついた朝のこと、 ひとまず臥竜山を後にして三河入りを思いたった杉山先生と村上氏は、 草鞋に脚絆の旅装を整え、 大野町に出て横須賀、 名和(なわ)を経て名古屋に一泊、 翌早朝名古屋を発って瀬戸に着いたのが午後三時頃でした。 早速山中氏を訪ねましたが生憎不在でした。 しかし紹介状もあるし、 又藤岡村には知人もあることゆえ、 どうにかなろうと、 すぐさま藤岡村へ向かわれたのであります。 
 瀬戸を後にして東へ東へと歩き、 赤津を通るときは日は既に山の端近くでしたが、 早く希望の地に着きたい一念で歩きつづけ、 猿投(さなげ)峠にさしかかった頃には、 とうとう日はトップリ暮れてしまいました。 山路のこととて泊まろうにも家はなく、 足にまかせて進んで行くのですが、 路はいよいよ嶮しく、 寒さは身にしみるし、 両側は杉の並木で、 鼻をつままれても分からぬ程の暗さです。 足はだんだん疲れてくる、 五、 六丁歩いては、 
  「もう峠までは何程あるでしょう」 
  「もうじきであります」 
 又五、 六丁行っては、 
  「もう峠までは・・・・・・」 
  「もうじきです」 
 と疲れきって峠を登り、 又下って、 ようやく人家の灯を見つけるまでは大変でした。 渡合(どあい)村の茶店に辿りついた時には、 杉山先生も一歩も歩けなくなり、 わけを話してそこに一晩泊めてもらったのであります。 
 その夜、 村上氏は夢の中で、 きれいな小川にしかけてある魚とりのウゲを持ち上げてあけると、 魚と思ったのが全部銀貨であった、 これ位あれば借金もすぐ返せるなあと思って目が覚めたという。 その話をされると、 杉山先生は、
  「私も夢を見ました。それは猿が芝居をやっている夢で、沢山のお客がいっぱい入っていた夢です。 これはどちらの夢も、 良い結果の来る知らせであります」 
 と喜んで、 朝早くその茶店にお礼をいって出発されました。 それから三里ばかりある中山の村長の宅を訪ねると、 役場の方へ出かけられた後で、 約一里先の飯野の役場まで急いで後を追い、 役場に着いて聞きますと、村長は今、木瀬(きせ)の登記所へ行かれたということでした。 こんなに会えぬのは結果のよくない標準かも知れぬから、 もう名古屋へ帰ろうかと思われ、 もと来た道を戻って五、 六丁も行くと偶然坂井兼次郎さんという知人に会ったのです。 坂井さんは、
  「あなた、どうしてこんな処へこられた。 蔵円寺の和尚もあなたのことをいいだされ、つい此頃も一度手紙を出したいが、 住所が知れぬ、 お前も知らないか、 分からぬなら探してくれといっておられた。 何はともあれ私の宅まで来て下さい。 私は今木瀬の登記所まで行ってきますから、 それまで蔵円寺で待っていて下さい」 
 といわれました。 地獄で仏に会ったような思いで、 それから蔵円寺を訪ねたのが丁度正午頃でありました。 一別以来の話をしている中に、 和尚はこの界隈には医師がない、 この村に足を留めてもらえないかと奨められ、 更にこの村に留まるとすれば、 何か注文はないかと、 いろいろ親切に尋ねられました。 そこですべてを一任して、 この村にお世話になることにしますと、 和尚は区長との相談に一両日かかるかもしれぬから、 その間この寺にいるようにと親身に余るもてなしでありました。 
 事は案外容易にすすみ、 区長は願ってもないことと、 早速蔵円寺の隣にある昔学校に使用していた建物を無料で貸与し、 年に玄米六俵を給するということでした。 そこは白川村の石畳というところです。 更に又、 白川より一里隔たった隣村の柿野の区長長井豊次郎さんから、 こちらへも出張診察して下さい。 玄米六俵の扶持を出すからということで、 早速これも承知しました。 
 こうして村上氏は医院を開き、 患者は日々増え、 人に喜ばれて金は入る、 家は修繕してくれる、 看護婦もおくようにというように、 医薬療法を施す一方、 一々の患者に対して杉山先生は精神療法を施し、 妙法を説ききかせて村人を善導されたのであります。 かくして一カ年後には三千円の借金も返済することができ、 重荷をおろした思いで、 一層仏道修行と衆生の済度に励まれたのであります。

 

一念三千を悟られる

 白川村に落ちつかれた杉山先生は、 水行と断食の荒行に専心される日がつづきました。 そして約一年半すぎた頃、 一心にお題目を唱えて水行をしておりますと、 誰もいないのに天のどこからか声がして 「水行も断食も今日限り止めよ。 水行や断食をしてどんな悟りができた。 それよりも棺桶に入って悟れ」 と聞こえてきました。 杉山先生もこれには驚かれましたが、 水行、 断食の効のないことを今更のように悟られて、 諸天の仰せられるように行わればならぬと思われました。 しかし棺桶に入っては人も狂人と思うからと、 押し入れに入って考えることにされました。 
 そうしてつくづくと考えられますのに、 なる程水行は徒にわが身を苦しめるだけで、 まったく魚の真似と同じである。 又断食をすることは、 半年食って半年食わずにいる蛇や蛙の真似である。 しかし彼等は自然にそうさせられていて、 魚は水を出たくとも出られず、 出れば死なねばならぬ。 蛇や蛙は自然に半年の断食をさせられているのだ。 彼等も同じ魂をもっているのに気の毒なことである。 われわれ人間は罪はあるけれども、 その時のみで、 断食も止めたければいつでも止めることができる。 人間は有り難いものである。 地獄というのは彼等のことであろう。 餓鬼というのも彼等のことであろう。 法華経譬喩品(ひゆほん)には、 
  「・・・狗(いぬ)・野干(やかん)となり・・・蟒身(もうしん)を受けん・・・駝(だ)驢(ろ)猪(ちょ)狗(く)是れ其の行処ならん・・・」 
 とある。 人間も一代の業の善悪によって、 悪道のものにも生をうけなければならぬのである。 
 十界というのは一代の行為によって分かれる界段である。 しかし現在自分が人界に生をうけたのは実に有り難い、 どうか一層修養の功徳を積んで悪道を離れ、 又世の人々をも悪道を離れさせるように導いてやらねばならぬ。 これがわれわれ人間の使命ではないかとひそかに悟られ、 この時初めて一念三千の理に徹せられたのであります。 
 当時杉山先生はひたすら人のため村のため、 献身的な努力を尽くされ、 貧に泣く者には白米を与えたり、 着物を与えたりされました。 又ある時には女教員が結婚の邪魔をされて迷惑していたので、 その邪魔をする若者を慰め、 好きな品物を与えて事をしずめたりされました。 そして妙法を唱えることを知らない村人たちには、 妙法を唱えて諸天の擁護をうけられるようにしたいと、 神通力をもって過去の因を教え、 又未来の果を示されたのであります。 
 ある村人が山田に毎年水が不足することを歎き訴えました。 杉山先生は懇々と自然の理を説かれて、
  「水は慈悲心によって出る。 あなたが一心に妙法を唱えて、 人を喜ばせようと考えて、 その行いに気をつけたならば、 必ず水は出るものです」 
 と教えられました。 村人がその教え通りに致しますと、 不思議や水が湧き出て、 米もよく実るようになったのであります。 その功徳に感じ入って弟子となった人も沢山ありました。 
 ある日戸越の山道を通行された時、 ひよ鳥ぐらいの大きさの鳥が悲鳴をあげていたので、 見ると鷹がその鳥を捉えて目をつつき、 まさに引き裂こうとしておりました。 田圃にいた二、 三人の百姓衆も、 いま殺されつつある鳥の悲しい声を聞いて気の毒に思ったことでしょう。 杉山先生は即座に神通力をもってその因縁を洞見されて、 百姓衆に説き聞かせました。
  「この近村に恋愛関係で無理心中をした者があるでしょう。 そのとき殺された女は鷹となり、 いま前世に自分を殺した男を喰い殺しているのです。 恋しさのあまり相手を殺し、 自分も死んで、 未来までも添い遂げようとしてもそれはだめです。 殺せば殺される因を作るのです。 殺された者が今度は殺し、 殺した者が次には殺され、 幾億劫もこれを繰り返すのを悪業の因縁というのです。 人界に生をうけたからには、 今まで知らずに作ってきた大小の因果を消滅するほどの功徳を積まねばなりません。 みなさんも他人事と思いなさるな」 
 と教化されました。 一同は感じ入って、 杉山先生の教えをうけるようになったのです。 かくして病気の者には薬を与えるばかりでなく、 神通力をもってその因果を洞見し、 妙法によって悪因を消滅するよう精神的治療を施されたので、 いよいよ妙法を信じる者ができるようになりました。 

 白川村を去られる

 杉山先生に帰依する村人が多くなるにつれて、 この様子を快しとしなかったのは、 前に世話をしてくれた蔵円寺の住職でありました。 
 あるとき柿野村と白川村との間に紛争が生じましたが、 これについて杉山先生は、 
  「これはよほど徳のある人でなければ、 仲裁しても応じないであろう」 
 といわれましたが、 そのとおり誰が仲裁の労をとっても徒労に終わって、 結局隣村の伊藤氏が治めたのです。 ところがこんなことが端緒となって、 住職と区長が共謀して、 杉山先生を村から追い出そうと企てたのであります。 
 村の鎌弥さんという人がひそかにいわれるには、 
  「こんな騒ぎになるのは、 あなた方が妙法を唱えよと人に勧め、 あなた方が強情であるからだ。 妙法だけお止めになってはどうですか」 
 杉山先生申されるに、 
  「鎌弥さん、 よく聞いて下さい。 この娑婆世界に生をうけたのは、 妙法を弘めるためであるぞと経文には申してあります。 仏教を信ずる者は皆功徳を積まねば、 未来は恐ろしい三悪道に堕ちて、 永劫苦しまねばならぬのです。 私等はそれが恐ろしさに一生懸命妙法を唱えるのです。 人の命は誠に風前の灯火よりも危ういものですから、 あなたも悟って妙法を唱えなさるようになさい」 
 と順々にその理を説かれました。 
 ある朝、 雨戸を開けられると、 梅の木に何万とも数知れぬ蝶がとまっていて、 戸をあける音に驚いて空に舞い上がりました。 明くる日の朝も同じように蝶がいっぱい梅の木にとまっていました。 こんなことが数日つづいたある日のこと、 鶴さんという人が息せききって駆け込んできて、 
  「あなた方を憎む人たちが、 あなた方は 『阿弥陀様の敵だ、 この村においてはならぬ』 といって、 あなた方を 『この村から追い出そう、 出て行かなければ何とかせねばならぬ』 と謀っておりますよ」 
 と告げてくれました。 
 法華経の文句 に”猶多怨嫉”とあり、 その法難の来たことを覚られた杉山先生は、 ついに白川村を去る決心をされました。 夜もほのぼのと明ける頃、 ひそかに北戸越から裏道伝いに、 鶴さんの道案内で白川村を後にされました。 それは大正三年の秋、 紅葉の色も深く、 芒の穂がところどころに招いていた頃でありました。 
 不思議なことに、 住みなれた家の裏の梅の木にいた無数の蝶が、 後になり先になって猿投峠を越え、 赤津に来るまで送ってきたのです。 実に不思議なことで、 杉山先生はこれも諸天の擁護であるかと喜ばれました。 
 かくて名古屋に落ちつかれて、 清水町に別荘風の家を一軒借りて、 愈々妙法を広く一般に宣伝流布して、 教主釈尊の本懐を達成せんものと心に誓い、 めざましい活動を開始されたのであります。 

仏教感化救済会の設立

 仏教をもって世の人々を感化し、 心身共に救済したいという目的で、 始めて仏教感化救済会と命名して、 名古屋の一角に教化団体を設立されたのは大正三年の秋でありました。 その当時、 眼病の中でも黒内障、 青内障は治らぬといわれ、 患者に対して該病なる診断を下すことは、 結局不治の宣告をするのと同じであったのです。 病を治すべき医者が、 病は治らぬというのは全く不合理なことである。 難病で治らぬと患者に宣告しつつ、 ただ薬を与えているだけではまことに心苦しいと、 専門の村上氏は医師としての自責の念を感じて、 このことを杉山先生に相談されたのであります。 杉山先生は、 
  「病気の基はご承知のように過去の因果に外ならない。 その源を知らずして、 医薬によってのみ治そうとするのは全く不合理なことで、 治らぬのが当たり前です。 法華経譬喩品には、 
  『若し医道を修して 方(ほう)に順じて病を治(じ)せば 更に他の疾(やまい)を増し 或は復(また)死を致さん 若し自ら病あれば 人の救療(くりょう)することなく 設(たと)ひ良薬を服すとも 而も復増劇せん 若しは他の反逆(ほんぎゃく)し 抄却(しょうこう)し竊盗(せっとう)せん』 とあります。 治らぬのが当たり前、 治るのは不思議といわねばなりません。 
  『是好良薬(ぜこうろうやく) 今留在此(こんるざいし)』 とある法華経の実践によって、 病気は必ず根切に治るものです。 ぜひあなたは試みて下さい。 医師の診断で治らぬと断定されたものを、 更に妙法によって精神療法を併用して下さい、 治りますよ。 まず患者にその原因を知らしめ、 その精神修養についての欠点を反省させて実行せしめ、 妙法に帰依させたならば、 必ず全治せぬということはないのです」 
 これを聞いて村上氏は直ちに実行に移し、 黒内障の患者で不治と断定された者を、 二週間で全治させることができたのであります。 その頃、 笠松町港町の高木せつさんといわれる六十才ぐらいの方が、 旧知の因縁で訪ねてこられました。 高木さんは、  
  「私は若い頃何不自由のない身分でしたが、 明治二十四年の濃尾震災以来よいことがなく、 今日では全く日々の生活にも困る有様です。 どこか奉公致したい故、 お世話して下さらぬか。 それとも小間物店でも開いて小売商でもしたものか、 いずれがよろしいでしょうか」 
 と尋ねられました。 そこで杉山先生は、 
  「私も法を信ずる動機は家運の傾いた時で、 大垣の鈴木キセ先生の教化をうけたのです。 その時に金銭は功徳を積むために使用すれば、 その金が成仏して子を生むが、 その金も不浄なことにのみ使用したならば無くなってしまいます。 どうか妙法を信じてお金を成仏させて下さいと教えられました。 あなたもお金を不浄なことにのみ使われたから、 法が信じられなかったのです。 そのために不幸がつづくのです。 年老いて奉公しても、 また小売店を開いてみても効果はありません。 それよりも、 もういくばくもない命を、 法のために尽くして功徳を積みなさい。 必ず家の都合もよくなります。 毎日五万遍ぐらいお題目を唱えなさい」 
 といわれました。 
 高木せつさんはそれ以来、 日々妙法を唱え、 人を喜ばせることと堪忍の修養に余念もなく、 一生懸命に精進され、 もちろん不善に誘惑されることもなく、 修養をつづけられますと、 家運はだんだんに栄えて行きました。 そして杉山先生の教化をうけようと来会される人々が、 日々にふえてまいりました。 又一宮市の大倉ふじさんは、 京都帝大山本外科で診断の結果、 世に”業病”と嫌忌される病ということになり、 一宮市の山下病院で切断手術することになっていましたが、 たまたま杉山先生のことを伝え聞かれて訪ねてこられました。 杉山先生は、 
  「病は業といって、 前世の悪業のあらわれですよ。 その悪業を打ち消すほどの善根功徳を積めば、 全治せぬ病はありません。 手術をしても、 業を取り去らなかったならば、 他の迷惑を生ずることが必ず起こるのが原則です。 法のために我が身を惜しまず尽くして根治させなさい。 必ず手術せずとも全治請け合いです」 
 といわれましたが、 この話をきかれて大倉ふじさんは大いに喜ばれ、 以来献身的な努力をされたので、 病は全く痕もなく完全に治りました。 そればかりか病気が治って、 商売の都合もよくなり、 数十万の利益を得られました。 この顕著な事実は薬王品(やくおうほん)の文にある 「病消滅し福報を得る」 の実証を得られたのであります。 孔子も 「徳は本、 財は末」 と申されていますが、 実に妙法の功徳の偉大なことは不思議のかぎりで、 全く貴いものは 「徳」 であると、 深くその実証を喜ばれました。 

 

東西南北の仏性と欠点の矯正

 そのうちに清水町の家もだんだん手狭に感ずるようになりましたので、 大正四年秋には、 東区葵町三五番地に移転することになりました。 これより先、 先生の姉てるさんは、 西濃北方村より養子を迎えて、 先生の家におられましたが、 やることなすことすべて失敗され、 蓄財もなくなったので、 やむを得ずその事情を訴えられて、 今後の処置について相談されました。 杉山先生はじっと話をきいておられましたが、 やがて、 
  「まことに気の毒なことです。 すべては過去世からの因果ではありますが、 お互いの魂に徳がないゆえ、 今後の考えはむずかしいのです。 人の性質はその昔、 仏の徳によって成仏した国によって異にするものです。 これを東西南北の四つに区分していえば、 
 ○東は正直一徹であるけれども怒りやすい。 
 ○南は智明瞭であるが、 自己を愛して、 他を顧みる慈悲に乏しい。 
 ○西は義侠的精神の美徳はあっても、 心が一定せず短気である。 
 ○北は温厚忠実であるが、 とかく放任主義の欠点がある。 
 夫婦となるにも、 共同事業をするにも、 東の性質の者と西の性質の者とが一緒になれば、 性質が反対であって、 事業も失敗したり、 蓄財も失ったりするものです。 その欠点を自覚して補って行けばよいのですが、 その修養ができないために、 互いに反省することなく、 欠点も矯正せず、 ついには失敗するのであります。 
 あなた方 (姉夫婦) も主人は東あなたは西ですから、 よく精神修養をしなければ、 回復はむつかしいのです。 一生難儀をしてこの娑婆を去るならば、 未来はまず三悪道は免れません。 苦しんで未来また地獄では困るでしょう。 有徳の者でも未来を考えたならば、 じっとしてはおられない筈なのに、 まして徳の少ない者は菩提心をおこして、 法のために尽くさなければ未来までの楽しみは得られません。 その辺をよく考えて進みなさい」
 と申されました。 
 てるさんは先生の懇切な教化に深く感ぜられ、 ついに御法のために働くことを固く約されたのであります。 その後、 いく度か複雑な問題に直面しながらも、 一心に尽力され、 仏教感化救済会の基盤強化のためにつくした功績は大なるものがありましたが、 惜しいことに昭和五年五月三十日死去されました。 

 

業 病 の 施 療

 そのころ東京市巣鴨の東洋病院は癩病治療専門の病院でありましたが、 経営難のために患者の施療も思うようにいかぬ状態にありました。 このことを桶屋周助さんという人からきかれた杉山先生は、 当時世間から”業病”といわれて差別され、 全治の見込みがないと考えられていた気の毒な癩病患者を、 ぜひ精神療法を用いて全治させたいという希望をもっておられましたので、 ひとまず信者に依頼して、 東洋病院の復活を計ることを申し出られたのであります。 名古屋葵町の本部は姉の杉山てるさんに依頼して、 また東洋病院後援の資金は本部から送ることにして、 杉山先生は村上氏と姪のみつ子さんを連れて上京されました。 本部より飯米を送り、 味噌、 醤油を送り、 約一カ年の努力の結果、 東洋病院もついに復活することができたのであります。 
 ところが会員の中には、 このようなことをしていては、 われわれの全財産を寄付しても不足を生ずるだろう、 家賃を立て替えても先生は払って下さるかどうか分からぬと、 会を離れる者も出てきたのであります。 これも誠に無理からぬことであって、 そのために御法を離れて、 再び無明の闇に迷う人を作るようになっては申し訳ないと、 止むを得ずひとまず東洋病院を去ることになりました。 
 しかしこの時、 東京にもこの妙法の教を広く流布しなければならぬと決意されて、 上野桜木町に家を借りて東京支部を設置されたのであります。 

 

胎内教育でよい子を産む実証

 東京支部へ村上松次郎さんという人が訪ねて来られました。 失敗つづきで名古屋に住むことができず、 上京してこられたのですが、 妻のよしさんは妊娠八カ月で、 医師の診断によれば子宮外妊娠ということでした。 切開手術をして胎児を摘出しなければ生命にさえかかわることで、 しかも旅の空では金もなく、 このままでゆけば幾十日かのうちに夫婦は死別しなければならぬかと思えば、 実に悲しい次第ですと、 涙にくれて訴えられました。 杉山先生は静かにいわれました。 
  「あなたは初耳でしょうが、 妙法の妙の字は蘇るということです。 難産をも安産とすることのできるのは、 この法を信じて実行されることです。 難産で苦しんだり死んだりすることは、 世間にもよくありますが、 そのようになるのは前の世の悪因で、 親の仇敵ともでもいうべき魂が宿ったのですから、 その魂を成仏させるよう追善をして、 仇敵の魂を去らせ、 有徳の魂と入れ替えをすることができると思います」 
 と。 そして、 しばらく合掌しておられましたが、
  「妙法はありがたい、 妙法によって蘇らせることができますよ」 
 といわれました。 村上松次郎さんは半信半疑でしたが、 とにかく実行することにされました。 おそばで聞いておられた村上氏は、 
  「患者を安産させることさえ不思議であるのに、 却ってよい子を安産させて頂けるということは、 実に不思議というほかはありません」 
 といって感歎されたのであります。 杉山先生は、 まず今宿った子供の魂の成仏には功徳を積まねばならないと、 追善のため白米十俵を貧民に施し、 なお 『妙法蓮華経』 八巻の経典二十巻を人々に頒与されました。 
 その功徳があらわれて、 死を決していた村上よしさんは、 玉のような男の子を安産し、 九死に一生を得た喜びの涙を流し、 御恩がえしのためにも、 法のお手伝いをさせて頂きたいと誓われたのであります。 その子供は村上茂といい、 四才の時に天眼を得、 神童と驚嘆されるようになりました。 これが杉山教祖の速成胎内教育、 即ち魂の入れ替えという妙不思議の最初の実証でありました。 

 

仏道とは日々徳を積む道

 かくして杉山先生は、 修行を重ねるとともに、 妙法の偉大な利益の実証と、 功徳の効果の大なることを世に明らかにし、 法華経の真理をなお一層自行化他にわたって体得していかれたのです。 先生は、 
  「この娑婆世界に生を享けた目的は何であろう。 第一現世安穏後生善処であれば私共は幸福であるといえましょう。 しかし後生はともかく、 現世安穏に暮らすことのできないということは、 過去世に悪業の因縁があるからであります。 その悪業の因縁を取り去らなかったならば、 いつまでも幸せを得ることはできません。 勿論後生の善処は覚束ない次第であります。 生老病死等の四苦八苦を逃れたいという衆生の念願をみそなわして、 お釈迦様が一切経をお説きになったのです。 その一切経の集結とも諸仏の智と力の結晶ともいうべき妙法蓮華経八巻二十八品は、 私たちに徳本を植えさせ、 もって過去世の煩悩を断じつくして、 人間に生を享けたる目的を達成せしめる生活の指針であります。 
 法華経が尊いのは、 一切経の中において最高第一の経であり、 煩悩を断ずるところの功徳を積むことを教えられるからであります。 法華経を尊しとして恭敬することは、 最も尊い功徳を積むことであります」 
 とますます自らも修養をし、 多くの人々にも伝えようと、 その後は積極的な活動を開始して、 名古屋本部では毎月七、 十七、 二十七日の三日を講日と定めて、 仏教講話及び人事相談をなし、 貧民には米や衣服等を施すというように、 ひたすら功徳を積むことに全力を尽くされたのであります。 また妙法に帰依してお題目を唱えた者には、 その数によって賞与をあたえて奨励されたので、 帰依する人が日毎に多くなってまいりました。 大正五年、 先生は常に考えてこられた”天刑病”といわれる癩病について、 あの気の毒な癩病患者を全治させる方法はないものかと思われて、 たびたびお弟子の村上氏に相談されました。 村上氏は、 
  「私も病院におりました際、 病菌の研究をしましたが、 癩病について研究してみますと、 体内の毒素、 すなわち病菌を除去する薬品を発見しましたが、 一旦全治したように見えてもまた再発するので如何ともすべき術がないのです」 
 と答えましたので、 この上は精神療法より他に方法はないという結論に達しました。 どんな病気でもその病気の原因は過去世の業であって、 その業という悪因を取り去る精神療法を行ったならば、 必ず効果があるにちがいない。 そこで完全な効果を得るために、 静岡県御殿場の復生病院に出張することになりました。 杉山先生は村上氏と姪のみつ子、 千代子さんを同行され、 御殿場に宿をとって、 まず精神療法に共鳴する人を隔離して治療を施されました。 その結果、 日を経るに従ってその効が見え、 大変効果があがり、 患者の喜びは申すに及ばず、 院長の仏人ドルワルド・レゼリー氏も大いに喜んでくれました。 ところがここに問題が起こりました。 それというのは復生病院の会計員の楠氏が、 
  「本院はキリスト教会の費用をもって経営しているから、 仏教をもって教化することはキリスト教会の本旨にもとるものである。 仏教による精神修養は中止すべきである」 
 と主張して、 強硬に院長に迫り、 きかれない場合は教会本部に申告すると脅迫的態度に出たので、 院長もやむを得ずその言葉に従い、 中止することに決まりました。 せっかく効果をあげながら、 まったく残念なことでありましたが、 患者にはその由を伝えずに立ち去ることにしました。 しかしこれを知った患者は号泣して杉山先生の去られたことを悲しみ、 御殿場の宿舎まで後を追って泣き倒れたということでありました。 名古屋に帰られた先生は、 千種に病舎を建て、 患者を収容してその治療にあたり、 全治した患者も沢山ありました。 その後、 大阪府の堺に支部を設け、 東京支部は芝区三田小山町に移し、 専ら妙法による教化に努力されたのであります。 

 

不思議な神通力

 杉山先生は、 難病者を治癒させることができるならば、 災難を逃れることもまたできるであろう、 実に神通力によって災難を未然に知り、 これを防ぐならば、 一層人々を救うことができるであろうと、 予言をもって政府当局に建言されたこともありました。 桜木町におられた時のことです。 赤とんぼが何十万と数もできない程、 西北の方から飛んできて東北の方へ飛び去って行ったことがありました。 先生はこのとき神通力によって、 欧州に戦争が起こり、 ついには全世界の戦争となることを予言されました。 
 法華経の中にも 「神通力是の如し」 とあります。 人間として神通力のあるのは当然のことでありましょう。 犬がすわる時は、 その場所を一周して後にすわるものです。 これがもし犬が一周しないですわり、 その下をもぐらが通ると、 犬は身体の自由を失い、 ついには死ぬようなことがありますから、 もぐらの来るのを防ぐためにするのです。 これが犬の神通、 もぐらの神通であります。 むかでが這ってくると、 とかげはむかでの周りを一周します。 不思議なことに、 むかではそのとかげの一周した線の外に出ることができず、 躊躇して首をあげる。 とかげはそれを待って尾でむかでの首を落として食ってしまいます。 これはとかげの神通力といえましょう。 螟(めい)とくは稲や水草に卵を産みますが、 産卵の際高い所に産みつければ大水の出る前兆で、 下の方に卵を産みつけたならば、 水の少ない前兆で旱魃があるといいます。 小鳥は孵化してから親に十八日食わせてもらえば、 自分が孵化させた雛には十八日で餌を与えなくなるものです。 小虫のイラは堅い卵形の巣を作る等みな神通力といってもよいでしょう。 なお雉は蛇に巻かれて羽の力で蛇をずたずたに切って食います。 猫が鼠を捕らえることも、 蛇が蛙を捕らえることも、 もぐらがみみずを捕らえることも、 食を得るためには違いありませんが、 これも自然に具わった神通力といってよいでありましょう。 ですから万物の霊長である人間は当然、 神通力を具えもっているのであります。 しかしながら、 人間は、 この娑婆世界の毒素である貪欲、 瞋恚、 愚癡の三毒のために罪を重ねるが故に、 あたかも眼をもっていても盲目の如く、 耳をもっていても聾の如くになっているのであると、 杉山先生は申されたのであります。 

 

盲目となりしことあり

 将来の災難を予言してこれを世界に知らせることは、 法律では許されておりませんでした。 しかし災難は未然にこれを知ってこそ、 防ぐこともできるのであります。 「転ばぬ先の杖」 というもあるように、 禍いの来ない前に予知して、 これを防がなければ効果はないのであります。 
 杉山先生は、 目前の大災害を掌を見るように知りながら、 黙してこのままに過ごすことは、 にある如く 「知って言わざるは不忠なり」 と思われて、 名士・大官にこれを相談して、 禍いを防ごうと、 各大臣に建言書を送られたこともありました。 丁度その頃でした。 天耳をもって 「汝は五月頃、 盲目となるぞ」 と聞こえたので、 先生は、 「何の因果によって盲目となるのですか」 と思念し、 心をしずめて唱題しておられると、 
  「汝は過去において弓の名手にて、 戦いのとき敵の目を射たのである。 その因により数百劫のあいだ盲目となるべきはずではあるが、 御法の御徳にて現在に軽く受けて消滅するのであるから喜ぶべし」 
 と聞こえたのであります。 また瞑目されますと、 絵にみる義経の姿が現れて、 弓をもって敵を射ている有り様が見えました。 「これは誰でしょう」 と思われると、 「汝だ」 と聞こえてきました。 しかしいかに過去の罪障とはいえ、 軽報とはいっても、 盲目となったならば、 「妙法を信じて行う者が盲目となるのは、 どういうことであるか」 と世の人たちの心も濁ることであろうと心配され、 講演のとき聴衆にむかってそのことを話されました。 
  「この五月、 私は盲目となります。 それは過去に人の目をつぶしたためで、 妙法の功徳力によって現世に軽く受けるのです。 みなさん、 そのとき不思議に思いなさるな。 しかし常にみなさんにお話し申すように、 功徳を積んでその因果をほどけば、 盲目もまた開きます。 これからは一層徳を積むよう努力します」 
 と申されて、 ますます思想善導に心を致されました。 東京に出られて、 お弟子に手を引かれながら名士を訪問して、 妙法を説きひろめて歩かれました。 こうして先生は徳の力をもって全治されたのです。 丁度その頃、 大阪府下堺市大浜公園前に支部を設けられました。 

 

世人に覚醒を促す

 ある日、 杉山先生の思われるよう、 
  「神通力は実に妙不可思議にして、 自由自在なものである。 もしこれを軍人が心得たなれば、 必ず敵兵の寡多や、 どこに塹壕があるということ、 又敵の動静等もよく洞見することができる。 そうなれば実に便利なことである」 
 と考えられて、 陸軍の関係者や名士、 大官に意中をお話しされたこともありました。 
 こうして世人の覚醒を促し、 仏法に帰依して思想の浄化を計らなければ、 知らず識らずの間に諸天の怒りをうけて、 種々の災難が起こるということは、 釈尊の御予言であるから、 お互いに信仰の志を改めて、 どうか仏法を信じていただきたいと、 声を惜しまず叫ばれました。 しかし、 「月に叢雲(むらくも)花に風」 の譬えにもれず、 世人の多くはかえって反感をいだき、 先生の尊い誠意を悟る人は少なかったのであります。 
 しかし時は移って、 杉山先生の予言はみな的中をして、 未曾有の修羅場を展開し、 ニコライエフスクにおいては邦人惨虐の難に、 婦女子まで虐殺され、 聞くだに戦慄を覚ゆる悲惨事が突発いたしました。 また朝鮮の不祥事はまさに起ころうとするとき発覚して、 責任者の自殺等で大事のなかったことは不幸中の幸いでありました。 このような予言は的中して、 その難に遭遇しても、 世人の反省は甚だ遺憾にして、 かえって憎嫉の念をいだいて先生を排斥しようとする者もあり、 迫害をうけようとさえされたこともありました。 そのため名古屋市東区葵町の本部も一時門を閉じて、 泉州堺市大浜公園前の支部にしばらく足を留められたのであります。

 

罹災民の救済に挺身される

 杉山先生は種々の苦難の間にも、 衆生を憐愍される心は片時も止む時がなく、 常に世の人の上に思いをめぐらされました。 天にあらわれた蛇腹の雲は、 常に災難の前兆を示すのであります。 その前兆は”全国に悪性の感冒流行し、 多数の死者を出す”ということでありました。 このことを知って、 その防止をしなければ 「安立行菩薩の再誕」 と諸天からいわれてもその甲斐がないと考えられて、 その防止のために努力されたのであります。 特に最も甚だしいと感じられた関東地方に赴かれて、 その難の最小にとどまることを祈りつつ、 妙法の宣伝に努め、 許可の得られた芝区、 麻布区の全域にわたって、 仏法の肝心たる妙法五字の題目を門戸に貼って、 無難の祈願をされました。 その時は前兆の通りに全国に感冒が流行し、 死亡した者は実に数万に及びました。 

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 <資料>仏教感化救済会が配布した災難防止の御守の心得

 また杉山先生は、 既に大正十年頃から、 近いうちに大震災の起こることを察知されましたが、 この大事を予言して国民一般に知らせることは、 法の禁ずる処であるため、 いかにしてこのことを人々に知らせて、 その被害を最小限にくいとめるべきかを、 非常に苦慮されておりましたが、 いつしか一年、 二年と時が経ってしまったのであります。 かくて時も切迫してきたので、 先生はじっとしておれず、 大正十二年の夏、 いよいよ新聞記者を招いて、 大地震予言のことについて懇談することになったのですが、 ところが婦女通信社の佐藤順造さんを始め、 その他の人びとも口をそろえて、 これを世間に発表することは不可能であることを述べられました。 
 ここにおいて杉山先生も施す術なく、 ついに八月十六日、 五反田支部を引き揚げて名古屋に帰られることになりました。 品川駅頭に東京の空を仰ぎ見て歎息された先生は、 目前に来たらんとするこの大難を未然に知りながら、 これを防ぐことのできないわが身の不徳を悲しまれ、 市民に対して詫びの合掌をされて、 泣く泣く名古屋に帰られたのでありました。 果たせるかな、 大正十二年九月一日午前十一時五十八分、 関東一円は未曾有の大震災に見まわれ、 ついに大東京も横浜も一帯の市街地は劫火の炎に包まれ、 生きながらの焦熱地獄、 大修羅場と化したのであります。 しかしその中で、 先年妙法のお題目を張り廻った芝と麻布の地区に損害の僅少であったことは不幸中の幸いともいうべく、 まったく有り難いことでありました。 死者は十万を超え、 家を失った避難民は続々と他県に逃れ去って行きました。 名古屋駅も中央線を回って、 着の身着のまま火に追われ、 食もとらず避難してくる人々が群をなし、 その憐れさはまことに名状すべからざる光景でありました。 
 杉山先生はただちに仏教感化救済会の救援所を駅頭に設け、 毎日焚出しして、 握り飯や味噌汁等の接待をしました。 かくて十一月の末まで約二カ月にわたる救援活動をつづけました。 一方、 東京市には名古屋港から米その他の食糧品を送り、 芝浦から荷揚げして、 罹災民に配給する等あらん限りの力を尽くされました。 また死者三万以上を出した被服廠(しょう)跡にバラックの建物を造り、 この際に世人の反省を促そうと、 小冊子 『世界の鏡』 を市民に配布して、 妙法信仰の必要を大いに宣伝、 力説されたのであります。 その後、 五反田支部は、 道路改修工事で移転をしなければならぬことになり、 あらたに武蔵小山に石坂源太郎さん所有の地をかりて、 貸家を十一軒程建て、 その中央に礼拝所を建てられました。 その頃から、 会の趣旨に賛成される名士の方もようやく多くなったのであります。 また深川の水災の折には、 衣類や米を持参して自ら救援に当たられ、 貧民のために毎年、 餅を数百個宛施すことを例として続けられました。 

 

農業を通じて青少年を感化

  「可愛い子には旅をさせよ」 というのあるように、 人間苦労をせぬ人は教化をしても聞けない人が多いのです。 米の大切なことも、 農業をして米を穫ってみなければわかりません。 また農業をすることは大いに修養になることが多いのであります。 杉山先生は青少年を薫育するには、 まず農業をさせることがよいと考えられて、 精神修養を必要とする青年十五六人から二十人位を、 知多郡阿久比村の農場で農業に従事させることにしたのであります。
 山の田は溜池の水を利用し、 水の漏れないように粘土で田の底を作らねばならない。 畦もまた粘土を盛って水の漏らぬようにして、 はじめて稲を植えるのですが、 日照りがつづけば水が減るので、 溜池の水にのみ頼っているわけにはいかない。 井戸を掘って、 その水を昼となく夜となく汲んで補充せねばなりません。 その苦労をしとげて初めて収穫する米は、 本当に大切なものだということがわかるのであります。 どんな仕事でもその心構えによって、 大変よい修養ができますが、 特に農業によって考えてみると、 仏道修行も精神修養もよく了解ができるのであります。 
 私たちの仏性がいかによくても、 修養もせず、 善い種を蒔かなかったならば、 生きてきた甲斐はないのであります。 いかに良い田地でも、 種を蒔かなければ米は穫れず、 麦もとれません。 種を蒔いても耕作を怠れば、 これも駄目です。 私共の修養も又その通りで常に仏法によってわが身を反省し (耕作)、 功徳を積まなければ (施肥)、 幸せを得ることはできません。 畑に種を蒔くのは未来の収穫を思うためであって、 私達が善事を行い、 善い種を蒔かずして、 どうして幸せが来るでしょうか。 
 このように教化しますと、 だんだん心も磨かれて、 積んだ徳によって怠けたい心も罪障消滅して、 不良の心もなくなっていきます。 こうして徳を積んで悪業を消滅していくことは、 農業でいえば耕作すると同じであります。 この農業で修養する青年たちによって作られたお米は、 警察署に依頼して貧民に配ったのであります。 杉山先生は、 
  「耕作する田圃は沢山あるが、 施す米を作るのはこの臥竜山の田圃だけです。 私たちが少しでも施す立場になったということは、 本当にありがたいことです」 
 と、 心の底から喜びをあらわされたのです。 旱魃つづきであった昭和二年の夏に、 大きな井戸を掘ったことがありました。 先生は皆と一緒に一生懸命井戸掘りをされました。 田植えも自分でされました。 また二間四方の大井戸を掘って、 発動機で汲み上げることもされました。 あるいは田圃の床しめや池直し等、 自ら率先して汗を流され、 お米一粒の大切なことを身をもって教えられたのであります。 これらのことを思えば、 どんな仕事でも辛いということはなくなってしまいます。 青少年の精神修養のために、 農業は実によい薬でありました。 

 

模範とすべき節約の実行

 杉山先生は常にこのように申されました。 
  「世の中の人々は、 お金を大切に思っておられるけれども、 その実大切に扱う人は少ないものです。 お金は生かして使わなければなりません。 生かして使うということは、 大切なお金を世のため人のための功徳となるよう、 そして自らの人格を高めるように使うことです。 世の中の人はお金があれば、 よい着物を作り、 すぐに立派な家を建てられますが、 着物や家があっても極楽へは行けません。 
 世の中で一番節約のできるものは衣類であります。 寒さを防ぐ着物に別に贅沢の必要はありません。 衣類は膝が破れればしきせをおき、 お尻が破れれば袖をもっていくというふうに、 縫って縫って縫い目だらけ、 それでも胸のあたりだけは縫い目が出ないようにするのです。 徳を積めば、 どんな着物を着ていても、 人の目からよい着物に見えます。 徳のない人は、 よい物を着ても悪く見られます」 
 といって笑われたこともありました。 
 先生は、 たまたま人からおくられた羽織や帯の新しいものがあっても、 困った人をみれば、 東京でも大阪でも旅先もかまわず直ちに施してしまわれ、 お弟子の一人が、 そんなにしなくてもよいではありませんかと、 たびたび申し上げた程でありました。 しかし功徳ということを考え、 今日徳を積んで喜んで暮らせたら、 それが一番の幸せであります。 先生の教訓をうけた人々は、 決して衣類の良い悪いということは申さぬようになりました。 どんなに困っておられる方でも、 この心がけであらゆるものの用を足し、 縫って縫って縫い目だらけにして、 徳を積むように心がけられたら、 困るということはなくなるであろうと思います。 
 杉山先生はそれでいて、 人を喜ばすことであれば、 明日の小遣い銭がなくなってもかまわず、 全力を尽くされたのであります。 功徳にあこがれる心の発露とはいいながら、 そのお慈悲の深さには感涙の外はなかったのであります。 

 

実行に勝る教えはない

 大正十四年五月、 兵庫県豊岡町城崎地方に大地震があり、 死者数千に及びました。 杉山先生はこれが救援のため、 ただちに衣類数十梱に、 餅をついて送り、 自らも現地へ赴いて親しく罹災民を慰問されました。 その帰途、 京都に立ち寄られ、 公会堂に名士を招待して、 妙法の活用についての講演をされました。 また大阪に出て南久太郎町の浪華小学校において、 毎月一回市内の小学校長を招待して、 教育者の修養の大切なことや、 仏道の奥義についての座談会を続けられました。 こうした先生の努力によって、 関西地方には多数の信者ができたのであります。 
 名古屋においても、 小学校長に神通力を得てもらいたいというので、 市内の校長三十名程をお招きして、 妙法の真理や神通力の講話をなさいました。 そして時折 「神通会」 という会を開かれたのであります。 名古屋市外猪高村藤森 (現在名東区) には杉山先生の土地がありましたので、 ここに公堂を設けて地方の人の薫育に資したいというので、 五十余坪の二階建ての家を建てることになりました。 青年部の者が主となって、 大工から左官の仕事、 畳を入れるまで、 みな素人ばかりで建てあげたのであります。 先生は真っ先に立って柱の穴掘りから壁塗り、 さては塀づくりまで、 身を惜しまずに働かれました。 
 ちょうどその頃、 大阪の中山栄太郎さんと玉井康雄さんとが訪ねてこられ、 手拭きをかぶって壁塗りをしているその女の人に、 
  「会長さんがこちらへ来てみえるそうですが、 どこにみえますでしょう」 
 と尋ねますと、 
  「ヘイ私が会長ですが」 
 といわれ、 どうにも合点がいかずおかしいと思っていますと、 
  「一寸あちらで待っていて下さい」 
 といわれて暫く待っていますと、 着物をかえられた先生が、 
  「私が会長です。 遠い処をようこそ訪ねて下さった」 
 といわれるお姿は、 先に壁を塗っておられた方にちがいないので、 中山さんも玉井さんも恐縮をして互いに顔を見合わせ、 
  「なるほど、 先生は実行実行とおっしゃるが、 ご自分から実地に行われてみなさんに示されるお方だ」 
 と、 百日の説法よりただ一つの事実に感じ入り、 それより深く先生に敬服するようになりました。 
 その後駿豆(すんず)地方に震災 (昭和五年十一月) が起きた時、 杉山先生は、 また衣類十数梱に菓子等をもって慰問に行かれ、 沼津で下車、 函南(かんなみ)、 韮山(にらやま)等で倒壊した学校や民家等を見て、 天災の恐ろしさを再認識されました。 各役場を訪問、 さらに学校の校庭にて生徒に慰問の言葉を述べて、 お菓子を配布しました。 その帰途、 静岡上石町の遠藤さん方に泊まられ、 付近の人々や有力者を招待し、 天災の恐るべきことや、 これを未然に予知して防止する正しい仏道についての座談会を催して、 親しく講話をされました。 さらに両替町富士屋、 あるいは教育会館においても講演をされたのであります。 

 

療養所の計画と憂国の予言

 世の中に一番気の毒な人は天刑病でありましょう。 一度この病にかかれば、 家を出て、 世の人々から嫌われて業をさらさねばなりません。 治療する方法もなく、 生きながらにして地獄の苦しみをなめ、 死ぬにも死なれず、 生きるには余りにも悲惨というほかはありません。 この業病の苦しみから人々を救いたいというのは、 杉山先生の長い間の悲願でありました。 物質的には薬餌療法によって血液を浄化することはでき、 このような手当をすれば表面的にはよいのですが、 内面的には何等かの欠陥のあることは争われぬことで、 東洋病院、 村山療養所、 復生病院、 讃岐療養所等各地において研究をされましたが、 結果は精神的な治療が第一であります。 病気という字義からみても、 気の病ということが病気であります。 先生は、 「病の原因を知らずして、 どうして病気が治るであろうか」 と申されました。 法華経の中にその原因が示してあるとおり、 
  「是の経典を受持せん者を見て、 其の過患を出さん。 若しは実にもあれ、 若しは不実にもあれ、 此の人は白癩の病を得ん」 
 とありますから、 天刑病は善行を妨げた因によって、 果と現れたいわゆる天の刑罰であります。 この病を治すには、 かような悪業の因果たることをよく自覚して、 仏法を信じ、 さらに世の人々を救うように心がけて徳を積むならば、 必ず効を奏するという自信をもたれて、 名古屋市千種区葵本部の畑の真ん中に病室を建て、 治療に当たられたのでありますが、 成績は極めて良好で、 退院できた人も数人あったのであります。 しかし業のなせる悲しさは、 日を経るにしたがって凡智に走り仏法を信じる心がうすくなるのみか、 前世のように法を譏り、 思うように修養ができない患者が多いのでありました。 
 そこで患者の心を喜ばせるようにするには、 もっと娯楽の機関を設備し、 理想的にしたいと考えられて、 六十余坪の建物を造ることを計画されました。 しかしもとより豊富な資金のあるはずがなく、 先生は自ら材木の買い入れに、 堀川端の材木屋に行って、 安い朽ちたような木を求めて製材し、 ずいぶん苦心をされました。 寒い冬の日でもコンクリート打ちをしたり、 壁塗りをしたりして、 その仕事の完成するのを喜びとされていました。 
 ある雪の日に相変わらず壁塗りをしておられましたが、 雪はどんどん激しく降りだしてきました。 先生の手の指にはひびがきれて絆創膏がまいてありました。 両側が窓になっている室を、 一方は先生、 一方はお弟子が塗っておりましたが、 お弟子の方は頭に雪が一面にかかっているのに、 先生の方にはどうしたものか、 少しも雪が降りこまないのです。 徳の力は雪をもよけてその身を守るものかと一同感歎したのであります。 また軒下のコンクリート打ちをしておられた時にも、 杉山先生のおられる所だけは雨がよけて降ったのか、 少しも地面が濡れなかったのであります。 このように先生自ら先に立って仕事をされますので、 お弟子もお手伝いもみなひとしく感化され、 喜んで徳を積まさせて頂けたのでした。 しかしまだ時期が至らなかったものか、 療養所の完成を見ることができませんでした。 
 ちょうど昭和二年頃でしたが、 九州福岡の人で田中元治さんという方が本部を訪ねてこられました。 田中さんは、 
  「私は福岡県生(いき)の松原療養所の関係者であります。 本日は県会議員青木新五郎さんの名代で参りました。 実は私共の療養所では病気が治らず運営に行き詰まっております。 貴会でその治療法について余程進歩した方法をもっておられる由をききましたが、 何とかお力をお借りできないでしょうか」 
 と相談されました。 話によると、 青木新五郎さんがさる高官の紹介により杉山先生を知られ、 療養所の立て直しと妙法広宣流布のため、 土地の提供を申し出られているとのことでした。 千種の療養所は名古屋市内でもあり、 不適当な点もあるので、 青木さん達と協力して、 真の療養所にしたいと考えられて、 いよいよ九州福岡に赴くことになり、 生の松原療養所の三十六名の癩患者に治療をすることになりました。 それと同時に福岡支部の建物建設をも考えられたのであります。 
 まず悪因の深い人びとに対する消滅については、 徳を積まねばならないと、 福岡市やその周辺の学校等において、 高山将軍、 小原将軍、 木田将軍等をお招きして教化講演をしたり、 福岡市本岳寺において人事相談をしたりして、 大いに教化に努力されました。 これが福岡地方の教化活動の始めとなりました。 ある日、 高山、 小原、 木田の三将軍が東亜の状勢を語り合っておられました時、 先生は、 
  「私の心眼に映ずる処によって考えますならば、 なかなか油断はなりません。 今に何か起こるかもしれません。 お互いに心を引き締めて覚悟をしましょう」 
 といわれました。 果たせる哉、 間もなく満州事変が勃発して、 やがて日本は世界を相手にしなければならぬような重大時局に直面することになったのであります。
 杉山先生は信者一同と心を合わせて、神仏の心に叶う修養実践の誓いをもって国威発揚の祈願をされ、 戦地へは祈願の曼陀羅二旒(りゅう)と御守数千体を送り、 その他慰問袋や恤兵(じゅっぺい)金献納等と銃後の守りをかためるよう、 全信者を督励されました。
 戦病死者の追悼法要を営まれた時には、陸海軍大臣、 金谷参謀総長を始め師団長、 知事等から花輪をおくられ、 士気を鼓舞すること大なるものがありました。 その他有意義なる催しを本部、 支部においてしばしば開催されたのであります。 

 

永遠に生きる偉大な理想

 昭和六年九月頃から、 日清・日露戦役における護国の英霊を供養する大仏像を建立して、 愛国思想の高揚と世人の教化育成に資したいという希望を抱かれ、 名古屋市内鍋屋上野町に教化施設と社会事業施設を経営したいというので、 陸軍大臣、 大蔵大臣に払い下げ申請をするべく計画を進められておりました。 昭和七年六月初旬、 いよいよその具体化を目指して上京されました。 大蔵参与上塚氏に面会、 又荒木陸軍大臣にも面会懇談されて、 六月十日鈴木銀次郎氏と共に名古屋に帰られました。 
 六月十七日の講演日には、 少し体の具合が悪いようなご様子でした。 その日の講演は 「出づる息入る息待たぬ世の中に君はのどかに眺めつるかな」 という古歌をもととされて、 人生のはかなきことを説かれて、 
  「人と生まれて何事もなすことなく、 金銭の奴隷となって、 また世のためにならずに死ぬことは、 酔生夢死といって何等生き甲斐のないものです。 受け難き人身を受けたことは、 誠に有り難いことでありますが、 今日のように妙法を説の如く修養できる時代は、 本当に百千万劫にもないのです。 明日は死んでも後悔ないというまでに徳を積んで下さい。 死んで持って行けるものは積んだ徳のみで、 家も金も土地も持っては行かれませんよ。 人に嫌われ、 人に迷惑をかけ、 そのうえ妙法を流布することを妨げたりするならば、 たいへん大きな罪業を負って行くのです。 よく気をつけて徳を持って行くように修養して下さい。 必ず現在もなくてはならぬ貴い人となり、 未来もまた極楽に行かれます」 
 と、 わが子に教えるように、 ねんごろな講演をなさいました。 その夜はなんとなくご容体も悪いように見うけられました。 
 六月二十三日夜、 祖父江つな、 田辺ふゆ、 近藤てる、 竹川たきさん等のお弟子の人たちが、 お傍で看護されましたが、 先生はご病気の中にも、 枕もとに坐っている人々に対し、 終日教化されて、 特に若い男の弟子には迷わず進むよう、 お互いに助け合って、 栗のいがのように内輪から破れぬようにと、 毛利元就が弓矢をもって我が子を諭した故事をひいて教訓されました。 また祖父江つなさんには、 
  「野中の一本杉が風に当たるように、 私という風防がなくなったら、 柳の枝のように揺れづめですよ」 
 といわれ、 田辺ふゆさんには、 
  「私が親不孝の譏りをうけなかったのは、 ひとえにあなたが私の母を日夜大切にして下さったおかげです」 
 とお礼をいわれるなど、 それぞれのお弟子に一々教示をたれて、 昼も夜も倦むことなくつづけられました。 
 六月二十八日の朝になりますと、 先生は 「みなさん、 喜んでください」 といわれました。 弟子たち一同は、 先生が今この世を去られようかと思われるときに、 何を喜べといわれるのかと、 不審に思いながら枕辺に集まりますと、 先生は、 
  「あなた方も長い間えらかった。 たいへん徳が積めました。 私は先ほど無上道へ参りましたが、 私が来たことを菩薩方がたいへん喜んで、 大層ご馳走をいただきました。 一人の菩薩がみなさんも大変功徳が積めましたといわれました。 私もそんなに徳が積めたのかと、 大層嬉しく思いました。 そこでふっと目を開きました。 今後はこの妙法もだんだん流布して、 この国も浄土となり、 この会もますます大きく大きく発展します。 だから喜んで下さい」 
 といわれました。 午後二時、 ご容体が静かすぎるので、 いよいよ縁涅槃の時が近づいたものと、 各方面に通知が出され、 一時間後には各地から続々と集まってこられました。 時は昭和七年六月二十八日午後四時、 折しもおおう薄雲に日輪もかくれたように、 教祖杉山辰子先生のお顔も手も真白になりました。 入る息は休み、 出でてまた息は絶えて眠るがごとく、 ついに妙法流布の日を待たれずに、その使命を弟子たちに譲られて、無上道に帰って行かれたのであります。
 杉山先生の現身(うつそみ)は去られましたが、 六十五年のご生涯は仏陀釈尊の経文にあるように、 如来の所遣安立行菩薩としての大活躍であり、 そのすぐれたる教化力は永遠に社会を益し、 思想を善導し、 正覚を得させ、 無量の人々に仏道を成就させ得る基となりましょう。 世の中に仏教を研究し、 経を読誦する人はありましょうが、 これを実の如く日常生活に応用して実行に移し、 成果を得るように教えて下さったことは実に偉大な功績であります。 こうして人々に利益を与えられ、 妙法広宣流布の基を築かれた杉山先生ご生涯のご活動は、 永遠に世を薫化して、 決して朽ちることはないのであります。 

 

正しき成果、 青蓮華の舎利

 昭和七年七月二日、 杉山辰子先生の御葬儀は盛大に行われました。 第三師団司令部よりの花環は人目を惹きました。 県、 市を始め会葬者は続々と集まってこられました。 夜来の雨はますます車軸を流すように降り、 混雑を極める中に、 いとも厳粛に行われたのであります。 村上斎氏は会葬者一同に、 
  「明日のお骨拾いのときは、 大きな容器を持参して下さい。 なぜかといえば、 生前の行蹟は未来の因となって延長し、 またその屍にはそれぞれの現証があらわれるものでありますが、 杉山先生のご遺体は色が真白で美しく、 体重も軽くなられたことなど、 正しく仏の体と同じになられたところから、 必ずお骨にも不思議が現れるでありましょう。 昔、法華経を飜訳した鳩摩羅什(くまらじゅう)三蔵は、 生前人に教えたことの正しいために、 その舌は焼けず青蓮華となったとあります。 それゆえにきっと何か変わったことがあるでしょう」 
 と告げられました。 
 翌七月三日午前八時、 お骨拾いにいってみますと、 果たせるかな、 一同ただ驚嘆するのみでありました。 八事火葬場の事務員小林定男氏、 川端重太郎氏も、 こんなお骨は見たことがありませんと驚いて申しました。 全体は美しく焼けて、 頭はそのままに残り、 腹部には直径一尺余、 青き蓮華の華のようになっていました。 どうしてこんな美しいものができたのかと、 一同不思議に思いながら、 写真に撮り、 箱に納めて帰りました。 ともかく生前の徳行は必ず骨にあらわれて、 未来の幸、 即ち極楽の境に到ることを証するものであります。 この現証は今までに珍しいことでありますが、 釈尊の教説に誤りのないことの大きな証拠であります。 
 後の世の人々もこの様を見て、 なお一層仏の教を守って修養をし、 徳の人となるようにすれば、 仏道を成就して無上道へ生まれることができるのは疑いないのであります。 いよいよお互いが真面目に実行し、 多くの人々にも仏道の尊いことを教え導いて行かねばなりません。 それは教祖杉山辰子先生の御遺志を継ぐことであり、 如来の所遣たる使命を果たすことでもあり、 必ず人生最高の幸福を得て、 臨終にもうれしく無上道に帰ることができるのであります。 先生も無上道で喜んでお迎えして下さることでありましょう。           

合掌