「宝塔」第261号
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 幸福への道

 法華経の薬草喩品(やくそうゆほん)第五に、

  『我一切を観ずること、 あまねく皆平等にして彼此(かし)、 愛憎の心あることなし』 

 と説かれているが、 人間という動物は感情が豊富であるが為、 どうしても人生を自分でややこしくしているようである。 経済の貧富、 学歴の有無から職業にいたるまで、 色々あるが、 特に職業で人を悪く見たり、 軽蔑することはよろしくない。 まして自分の職業を卑下することなどもってのほかである。何故ならば、 人間は自分一人の力だけでは決して生きて行くことは至難だからである。 
 そういう意味から見て 『人』 と言う字は実によく出来ていて、 深いものを私たちに教えている。 人間は 『もちつもたれつ』 と言うが、 確かにその通りで、 人と言う字を見ても、 もたれている棒と支えている棒によって出来ている。 (図1)
 もたれている棒の方は楽で、 支えている棒の方はさぞ大変だろうと思うが、 実は支えている棒は、 もたれている棒があるお蔭で立っている。 もたれている棒を取れば必ず支えている棒も倒れてしまう。 

(図1)

(図2)

(図3)

 幸福に成って行く人は、 世話に成る人 (もたれている棒) に対しての感謝があり、 世話する人 (支えている棒) は世話をすることに喜びがあるが(図2)、 不幸に成って行く人には必ずといってよいほど、 世話に成りながら不足があり、 世話をしながら愚痴をこぼしているのである(図3)。 
 こんな考え方では決して何をやっても調子よく行くものではない。 世話に成る人は自分に徳も力もないから世話に成るのだから、 お蔭さまと感謝の心を持ち、 世話する方は世話出来ることを徳が積めると喜ぶようにすれば必ず調子よく事が運び、 運命も共に伸びるのである。 

愚痴(ぐち)の心を捨てる

 すべての人間生活において 「こうしてやる」 「ああしてやった」 「使ってやる」 「働いてやる」 という考えでは決して喜びも感謝も生まれて来ない。 
 したがって、 そんなところに和合もなければ、 発展もないのである。 
 第一、 事に対して 「してやった」 「してやる」 という考えの心の奥には、 高慢か親切の押しつけか、 愚痴や不平の何かが潜んでいるのである。 だから 「やる」 という考えで事を行っても、 その労力に対して与えられる徳の報いを得ることは出来ない。 

頂く

 人間は事を行う場合 「頂く」 という気持ちを忘れてはならない。 何々をやらせて頂く、 働いて頂く、 働かせて頂く。 この 「頂く」 心を持って働く人の心には、 感謝と喜びがある。 
 水は高きより低きに流れる自然のならわしのように、 徳もまた、 心低き人のところに集まるものである。 
 昨今、不況により、 リストラの憂き目に合っている人が多い。 そんな人の中には、 「頂く」 という心を忘れていた人もいるのではないだろうか。 
 人間は自分一人の力では生きていけないのだから、  頼る側の場合には感謝の心を決して忘れず、 頼られる側に成ったら絶対に喜びを抱くことである。 

自分を卑下してはならぬ

 一つの国、 会社、 グループ、 家族にしても、 高貴・高官かんの者ばかりや、 指揮を取る者ばかりでは治さまっては行かない。 その下に働くあらゆる人の力と一つになって始めて栄えて行くのである。 
 その為にも人々を貧富、 学歴の有無や職業をもって差別せず、 また自分を卑下して、 僻(ひが)む心を起こさず、 自分に与えられた運命の中で、 与えられた事を喜んで励み生きて行くことである。 
 だが人間はそうしようと思っていても、 それが実行出来なくなる---迷いが起きる。
 その迷いには何から来るかと言えば 「こだわり」=執着(しゅうじゃく)からである。 

我欲を捨てることが大切

 人間は感情の動物であるがために、 その執着するものも多種多様である。 
 だから、 その心を満足させる為には、 他人の迷惑も不幸も顧みず手段を選ばず己の欲望を満足させようとする人種が、 文化国家と言われる日本人の中にも沢山いることは悲しいことである。 
 自己の心を満足させる為には手段を選ばない人間の持っている欲望に対する執着が生み出す 『餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)道の貪(むさぼ)り』 は、決して自己を幸福の世界に住まわせてくれるものではないことを釈尊は説いてお見えになる。 

大愚槃特

 釈尊の教団の中に一人、 大愚槃特(はんどく)と言う自分の名前すら忘れるほどの弟子がいた。 
 この槃特に仏さまは、『塵を払い・垢を除かん』 と教えられた。 
 槃特は長い間かかって、 その句を覚え、 ついにはその意味を知ったのである

塵とは欲だ:欲を捨てないと、 いろいろな厄介な因縁が生じて来て、 人の生活が束縛され、 地獄に落ちる。 

瞋 (しん;いかり) も塵だ:自分だけでなく他人も不幸におとしいれる。 

愚痴(ぐち)も塵だ: これを無くさないと恥知らずの放逸(ほういつ;勝手きままでだらしない) なものになり止まる所を知らない。 

垢とはこだわり、 とらわれ、 執着(しゅうじゃく)である。 

 槃特は、 三毒 (貪欲;とんよく・瞋恚;しんに・愚痴;ぐち) を除くことを心掛け、 わりに早く除くことが出来、 平等に心を動かし愛憎が無くなり心が闊然(かつぜん)と開けたのである。 
 大愚と言われた槃特ですら知る事の出来た三毒の罪を滅し、 こだわりを捨てることによって、 運命を開いて行く。この道理を何故、 現代の人は実践出来ないのだろう。 無理に得たものは逃げる!という言葉の通り自己に与えられた仕事に誠実が無く、ただ欲望を満たす為だけに生きる者は徳を失っていくから働いても働いても幸福になることはない。 
 経文に本化地涌(ほんげじゆ)の大菩薩(ぼさつ)とあるが、 地涌ということは地から涌くと言って、 人間が大地から涌き出て来るのではなくて、 職業はなんであろうと、 貧富の差はあろうとも、 苦の無い人生はないだろうから、 もし自分がその苦にぶつかったとき、 よく耐えて慈悲・誠・堪忍の三徳を実行して、 その体験を生かして多くの悩み苦しむ人々の為に差別なく少しでも役立って生きる人のことである。
 人にすがり、 物に頼って生きる事しか知らないものが少しでも、 他人の事を思い、 役立って生きようとする心が素晴らしい人間を育て幸福を築いて行くのである。                        

合掌

宝塔第261号(平成13年10月1日発行)