「宝塔」第262号
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 本当の生き方

 人は金の為に動きやすい。 構造改革が叫ばれる昨今、 多くの人が自分には今以上の痛みは無いだろうと思っている。 しかし、 お金を中心にして動かされている世の中では、 目先の改革をしても不況の嵐をさけることは出来ない。 
 金を出せば何でも買える、 美味い料理も食べられる、豪邸にも住むことが出来る、 人もいくらでも使える。こう考えてみれば全く金の世の中である。 金があったら、 金が欲しい、 これは多くの人の願望であります。それ故に、 金を追って動いている人が非常に多いのが今の日本の姿です。 これは金で、 どんな自由も、 わがままも、 幸福も買えると思っているからであります。 本当の構造改革は一人一人の心の改革が伴わなければ世の中は変わらない。 それどころか、 将来の日本の生きる道は閉ざされる。 
 お金が幸福の母であるかどうか、 少し考えれば、 そうでない事実が世の中あまりにも多いことが分かる。お金で幸福を買うことは出来る、 しかし、 その金を積むとき、 その金を得るとき、 そこに間違いがあるなら、 掴(つか)んだ幸福は一時の夢でしかない。 自然から叱られるような取り方をした金は、 決してその人に幸福をもたらすものではない。 
 
 Aさんは、 一代で当時 (戦前) 数百万の財を築き上げた人で、 ○○御殿と人も羨(うらや)む豪邸に住んでおられました。 Aさんには娘が一人おり、 養子をもらわれた。その人は大変やさしい人であったが子宝に恵まれず、 女癖が悪く、 金遣いも荒かったので離縁になった。 続いて二番目の養子を迎えた。 非常に真面目で勉強家であり、 学者らしいところさえあった。 その上、 子宝にも恵まれ前の養子の種が宿らなくて良かった、 立派な人の子が授かって有り難いと家中の者が喜んだ。         
 かねてより、 その養子は世界を一巡してみたいという希望を持っていた。 Aさんと養子とが海外の旅に立ってアメリカに着いたころ、 若夫人は妊娠中であるのに腎臓炎を病んでしまい、 子癇(しかん:妊娠・分娩のときにけいれんを起こし、 失神する) 産のすえ、 母子ともに命を落とすことになってしまった。 父と夫が帰って来た時には若夫人の姿はこの世になく、 養子は悲しんで神経衰弱になり、父はやるせなさのはけ口を酒と女に向けた。 老夫婦は喧嘩のあげく別居され、 一家は散り散りに成ってしまいました。 
 この事実を見て、 世の多くの不幸の因を考えさせられます。金はこの世の宝であり、 この世のつなぎである。 店頭の品物と自分とのつながりはないが、 お金を出せばすぐ自分の物になる、 つながってしまうのである。 人と物をつなぐ役目をするのが金である。 その金も時によっては刃(やいば)となって切ることがある。 自然の許さぬ徳なき金は、 刃となって切る。  Aさんの一番目の養子は数百万の財のうちの数万円を道楽に使った、 その為に縁を切られてしまった。 Aさんと養子を海外旅行へ行かせ、 数千キロ離れた外国に引き離し、 若夫人の死に目にも会えないように切り裂いたのも金である。 金が無かったら遠い外国には行けなかったでありましょう。
 老夫婦は若い時から苦楽を共にして、 人も羨む今日の日を迎えた。 辛苦(しんく)の甲斐あって巨万の富を作った。 金に包まれて二人の老後は穏かに幸福に満ち足りていた筈であった。 それがAさんのやるせなさをまぎらず道楽のせいで別居することとなった。 金がなければAさんも道楽はできなかった筈である。 二人を結ぶべき金が二人を切り離してしまった。 これも金が有り過ぎるが故にAさんの心を狂わしたのである。 金がなければ老いた二人はお互いの不幸を慰め合って老後を仏法に生き、安心を得たかもしれない。 金そのものが幸福の母ではない。 自由自在の徳が添わなければ、 運命を削る刃物となる場合も多々ある。 運命は自然の支配にあり、 大自然は金持ちであるからといって特別に護るのではない。 この世は金の世の中ではない。 仏の世の中である。 幾千万の金をもってしても、 一家の幸福を買う力は無かったのである。 
 世の為、 人の為に捧げられたお金が徳となる。 人間を護るものはその徳だけである。 人の運命は仏様が支配している。 金が支配するのではない。 金だけが出来ても運命はよくならないのである。 
 風邪を引いて発熱し頭が重苦しい時、 床についてぐっすり寝ると、 汗がびっしょり出る。 カスとなるものが体外に出たら大抵の熱は下がります。 子供が疫痢(えきり)にかかるその場合も手早く浣腸して、 悪いものを洗い出してしまえば治ることが多い。 元々、 人間の身体は、 排便と排尿と発汗作用によって解毒作用をしている。 その機能が正常に働いておれば、 病気には殆ど罹(かか)らないし、 病気に罹っても、 休んでいるだけで大抵は治ります。
 人間の日常生活を考えてみれば、 人の悩みの多くは、 カスが体内に溜まっている時が多い。 そのカスが体外に出て正味だけになった時が、 仏様の許した極楽であると教えられているのである。 一日ぐらい食事をしないでも辛抱できる。 それが、 たった一度でもトイレに行けなかったら死にまさる苦痛である。 急いでトイレに行ったのに先客があって詰まっている場合がある。 じっと2、3分も待てば先客は必ず出てくることになる。 誰も好んであんな所に一時間も入っている人はあるまい。 しかし、 その2、3分が待ちきれず冷や汗を流すことがある。カスの出口、 カスの出し方、 カスの出し場所の大切さが分かる。
 A家にも相当なカスが溜まっていたのである。 そこで仏は丁度よい養子を組み合わせた。 それを気に入らないとて無理に追い出した。 養子がカスの汲み出し役をつとめていることを知らなかった。 
 金を使うことだけが気に入らなかった。 それで養子を追い出した、腐ったカスを追い出す道を知らなかったのである、 あくまで金こそ幸福の根源と思っていた。 仏の心が読めなかったのである。             
 どれほど美しい家でも、 それが出来上がるまでには多くの木屑(くず)、 カンナ屑等が出来るはずである。 そうした後に正味の美しい家が出来上がる。 又見事な御馳走も、 正味とカスから成り立っている。 その正味だけが残されてカスは外に出てしまう。 そこに苦しみも悩みもない健やかな身体だけが許されるのである。 俺が働いて得た月給だ、 俺が儲けた金だ、 俺の自由だ、 こう思うことはあるだろう。 しかしその中には、 大自然の恩、 国家社会の恩、 先輩や同僚の恩、 親兄弟の恩、 と限りなき助けと恩とが含まれていることを忘れてはならない。
 『俺』 という正味は少しあるだけである。 これを知らない人が多い。 『俺』 が全てであると思っている。 だからカスも正味も一緒に溜めている。 報恩(ほうおん)も務めも忘れて蓄える。 それがやがて大きな悩みの種となることも忘れている場合が多い。人間は食べること、 儲けること、 取り入れることの中にのみ、 幸福があると早合点してはならない。 
 秋口になると、 涼しい風が北の窓から入ってくる。こんな涼しい風を外に出すのは惜しい。 こう思って北の窓だけを開けて、 他の窓を閉めてしまう。 それでは少しも涼しくならない。 風の出口があって始めて入ってくる風の涼しさが生まれる。
 出すことによって初めて得られる喜びにこそ、 人間としての真の幸福があるのです。            
 大自然・国家社会・師・親兄弟・大衆等、 多くの助けに支えられている恩を知って、 少しでも報恩の生活をして、 自らの社会・家庭においての務めを果たし、 徳の器(うつわ)を大きくした後に得られる富であれば、 自らだけでなく自分を取り巻く周囲の人々まで餘慶(よけい)の功徳によって、 幸福をもたらすことが出来る。            
 信仰は人間的な教養を教えているもので、 利益は後から付いてくるものである。

合掌

宝塔第262号(平成13年11月1日発行)