「宝塔」第269号
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 心のサジ加減

 昨今、グルメ指向も少し下火に成ってきたようですが、徳川家康公が、ある時、家来(けらい)を大勢殿中(でんちゅう)に集めて尋ねた。
 「お前たちはこの世の中で、何が一番美味しいと思うか」
 と。
 家来たちは思い思いに自分の好む物を並べたが、家康の本意(ほんい)に叶う物は無かったので、すぐ近くにいたお梶の方に言葉をかけた。利発なお梶の方は即座に「塩だと思います」と答えた。家康は言葉を続けて言った、「不味い物は何か」と。お梶の方は、すかさず「塩だと思います」と答えたので、家康は我が意を得たりと、膝を叩いて喜んだという。
 世の中は自分の心の中にある、住みにくい世の中を造るのも心、住みよい世の中を造るのも心である。丁度、塩は味噌や漬物を作るための調味料として、欠かすことの出来ない必需品であり、その製品の善し悪しは塩のサジ加減によってなされるように。
 政治の善悪、景気の動向が、人間の運命を定めるもの
ではなく、世の中はすべて自分の心のサジ加減にある。そのサジ加減が各自の幸不幸を成していくことを教えたものである。

    凡智の計算機

 人生は、計算機のようなものである。
 怒っては、罪の掛け算をする人がある。
 愚痴を言っては、徳を減らす引き算をする。
 欲張って、苦労のたし算をしている者もいる。
 これらは、すべて間違った計算であって
 何時までいっても、正解を得ることは出来ない。
 この間違いに気付いた人は、いち早く
 御破算をして出直す事が必要である。

 人生は、あわてることもなければ、苦しむことも、悲しむこともないのである。
 それは丁度、我々が日常生活に使っている計算機と同
じである。
 つまり、計算機のボタンを押して、百万・一千万入れたとする。それが、百円・十円に成っても驚かない。間違っている計算なら一億円でも御破算して、改めて押し直していけば正しい答えが出る。
 このように、人生もまた、心の計算機の間違いに気付いたら、懺悔という御破算をして出直せば、必ず、幸福という正解を得ることが出来るものである。

    陣痛

  子供が生まれ出る時の陣痛は、母体を苦しめること が目的ではなくて、生まれ出る喜びのしらせである。
  同じように、生活の辛苦(しんく)もまた、新しい幸福が生まれ出ようとする前ぶれであって、恐れたり悲観したりするものではない。
  苦しみは罰ではなくて、運命の母体から幸福を生み 出す陣痛にすぎないからである。
  生まれ来る幸福へ、期待と希望を持って徳育に 努力すべきである。

 或る婦人にはすでに二人の子供があった。その二人を
出産する時、あまりにも難産であったため、三人目が欲しいのだが、安産にするにはどのような心遣いをすれば良いか教えてほしいと相談があった。
 子供によって苦しむ問題はすべてその親に原因がある
のだから、親の方から先ず生活を改めていかねばならな
い。
 各人によってその原因は種々雑多であろうが、この婦人と夫に対して勧めたことは、雪が降れば陸の孤島となるような山中で貧しく生活している老夫婦を呼んで共に生活することです。この夫婦は自分たちの生活ばかりを考えてきた愚かさを懺悔して、さっそく老父母を迎え入れて共に暮らすようになった。
 勿論(もちろん)のこと、お産はすこぶる安産であったことは言うまでもなく、この夫婦にとっては、その行為が人間的な成長を与えた、いわゆる徳を育てたのである。
 この夫婦の場合、その行為が子供を産む難産を、幸福
を生み出す安産へと育てて行ったのである。この行動を起こす時の夫婦には、経済的な不安も、生活に対する悲
観的な迷いも何一つなかったのである。
 案ずるより産むが易しとはこのことである。

   重り

 人間の生活は、丁度、川上に向かって努力しながら 泳ぎ続けている姿である。
 それを眺めて見ると、努力しながら楽しんでいる者もあれば、苦しんでいる者もあり、また、押し流されたり溺れて行く者もいる。
 この苦しんでいる者、押し流されている者、溺れて行く者は、己の作った欲や怒り、不平不満等の重りをより多く身に付けている者である。
 仏法には、その重りを取り去れば楽に目的地へ泳ぎ着くことが出来ると教えておられるのである。

 ある講演会が終わった時のことである。私の前へ一人のご婦人がお見えになり、
 「先生ちょっとお尋ねしますが、先程の講演の中で、人生というものは、丸裸になって、フンドシを締めて川上に向かって泳ぎ続けることによって、目的を達する事が出来る、そこに真の幸福があると言われましたが、先生私は女です。女の私が丸裸になってフンドシを締めて、川上に向かって泳ぎ続けなければ幸福になれないのですか」
 と言われた。
 このいきり立っている奥さんは、フンドシが頭に来てその意味の説明を全く聞いていなかったのである。
 わたしは改めて、
 「奥さん、裸になるとは、執着を離れることで。フンドシを締めてとは、教えを身に付けて即ち、よく実行して、または身を引き締めてという意味で、川上に向かって泳ぎ続けよということは、精進、或いは努力を怠らない。ということですよ」
 と説明したのでよく理解して下さった。
 しかし、このように人間はついうっかり勘違いして、人間として生きる本当の目的を見失って、色々な罪の重りに堪えかねて、不幸の中に落ちて行くのではないだろうか。シッカリとウッカリは、オテラとドテラほど違うと誰かが言ったように、ウッカリ勘違いして罪の重りを身に付けないように心がけて目的地に達したいものである。

  自分の役割

  人は誰でもパンツを使用している。これほど簡単なもので、大きな働きをするものはない。常に陰に居ながら、大切な役割を勤めている。求めることもなく、気張ることもなく、表立とうとするでもなく、自分の勤めに忠実である。これが陰にいるからといって、いつも汚れて(愚痴)いたり、破れて(怒り)いては捨てられる。

 陰ででも忠実に働け、愚かと言われようと、不徳な者
と馬鹿にされようと、いいではないか。そんなことに執
着して、人にはそれぞれ生きる為の役割があることを忘
れていることの方が哀れである。

 曰く、人はただ身の程を知りて
          生きるべし・・・と

合掌

宝塔第269号(平成14年6月1日発行)