「宝塔」第277号
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 人生を有意義に生きる

 人は何の為に生まれたのか、又何の為に生きて行くのかと考えて、色々な人に質問した。本も読んだ。
 しかし、さっぱり分からないので『人生は不可解である』と一言残して、華厳(けごん)の滝に飛び込み、この世を去った青年哲学者もある。
 今までに大人の作り出した世界があり、その世界の中で生きて行かなければならない青年たちがいる。
 その青年たちが、新聞やテレビ等で見たり聞いたりすることを頭の中で消化するには、あまりにも悲しい出来事や、でたらめが多いようである。
 ずるい者が、うまく世を渡ってみたり、地位の高い者が汚職をやり、それをうまくごまかしてのさばる。
 仮に、それが世間にばれて明るみに出ても、自分たちの知らない間に、知らない所でうやむやになってしまうという事が多々存在している様である。
 こうした世の中に、ずるい事まで覚えて、何故人は生きて行かねばならぬのかと考え悩むのも当然の事かもしれない。
 しかし、人間は目的無しに生まれて来たのだと考えると、この場合少しは気が楽になるのではないだろうか。  
 生まれる前には、何も考えず、何の力も持たず、何も願わず、何も求めず、この世に出て来たのである。
 全く自分の力も、考えも、計画も無しに生まれて来たのである。
 だから、『生まれた』というよりも、自分以外の力で自分以外の考えによって『生まれさせられた』と考える事も出来るのである。
 では何故、人は生まれさせられたのだろうかと言う疑問が生じる。
 この疑問を踏まえて、全ての人間を観察すると、育つという事実が現れてくる。
 身も心も、年々育ち成長して行く。もし、育たないものがあったとしたら滅びてしまう。
 未だ死なないもの、すなわち、この世にまだ生を受けているものは、目に見えなくても育っているのである。
 知らず知らずのうちに育っているのである。当然、この『育つ』という言葉の中には成長と老化の意味が含まれている。
 つまり、人は育つ為に生まれさせられたと第一に考えその育つ為にはどうすれば良いかを第二に考え、育つ為には相反する二つを見事に組み合わせて調和を保っていかなければならないのである。

        ・昼があれば 夜がくる。
        ・雨の日があれば 晴れの日がある。
        ・月夜があれば 闇夜がある
        ・食ったら 減る。
        ・減ったら 食う。
        ・起きたら 寝る。
        ・寝たら 起きる。

 これを、元気よく明るく繰り返し、調和させる事が、育つ為の日々の条件ではないだろうか。
 「生死一如(しょうじいちにょ)」。幾度も生まれ変わって、今日の姿まで育って来たと仏教では考えられている。
 いわゆる、六道輪廻(ろくどうりんね)という思想である。
 今から二千五百年程前に、釈尊(しゃくそん)が十界(じっかい)を示し、その中の地獄・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・修羅(しゅら)・人間・天上の各界のものは解脱(げだつ)するまで、すなわち悟るまで六道を行ったり来たりするという考え方をしたのである。
 そして、この六道から出る事の出来ないものは、苦しみの中で生活しなければならないとした。
 このことを釈尊は、四苦八苦(しくはっく)に要約し、四諦(したい)の第一である苦諦(くたい)の中に『この世は苦しみである』と示したのである。
 但し、相反する二つのものを考える時、苦しみも又、楽しみや喜びという感情を生み出す為の必要不可欠なものと言えよう。
 このように考えて行くと、全てが相反する二つの対立したものから成り立っており、それを見事に調和させるところに、生まれさせられて育って行く道があると思うのである。
 どんな人間でも、顔は全部正面を向いているはずであり、顔の向いている方向しか見る事は出来ないのである。
 つまり、向こうむきの人間と人間とが、差し向かいになって語り合うから話しが出来るのである。
 どんな偉い人でも、賢い人でも自分の顔を自分で見た人は一人もいないはずだ。
 やっと鏡を見て、そこに映った姿を見て自分の顔を知ることが出来るに過ぎない。
 他人の顔なら何時でも見えるが、自分の顔は死ぬまで見る事が出来ない。
 そこで鏡が必要になるのであり、自分を知る為に反省が必要なのである。
 そして、その反省の鏡として、宗教的教養が必要になってくるのではないだろうか。

   うきつらき 心にそわぬことをみな
          よきに悟りて 喜びを得よ

 と私どもは詠っており、この世の事を全て喜びに変えていく努力をしなくてはならないのである。
 そして、生と死・吸うこと吐くこと・寝ること起きること・食うこと減ること・自分と他人・生かすこと生かされること全ての二つの組み合わせの、どちらの状態の時でも、喜びを得るために努力しなければならないのである。
 つまり、相反する二つの組み合わせの中、自分に喜びを得ようと思ったら、まず他人に喜びを与える事が必要になってくるのである。
 だから、人を生かす、相手を生かす、喜ばす、伸ばす守る、ここに毎日の修行があり、そうなる様に訓練することが課業(かぎょう)かと思うのである。
 また、生かされている私どもは日常不足がちである。不足とは読んで字の如く足が無いことであり、足が無ければ前進することは出来ない。
 私どもは色々な夢、又希望を持っているが、前進する人は不足を言わない人ではないだろうか。
 仏説では、愚痴(ぐち)・不足は特に戒(いまし)められている。
 個々に与えられた仕事に喜びを感じ、毎日を送る事がこの世に生を受けた私どもの勤めではないだろうか。
 『人の喜びを以て我が功徳(くどく)となす』      
 と教えられるが、人の為・世の為に徳を積む事が、生かされている者としての勤めではないかと思うのである。
 冒頭に述べた青年哲学者が、この世を去った理由を我々が知ろうと思った所で、知り尽くす事は不可能であろう。
 しかし、自分が生かされていると考え、自分の目的の為ではなく、仏の目的の為に生きているのだと考えれば死を選ぶ様な事はなかったのではないだろうか。
 確かに、今の世の中は住み易いとは言い難いが、住みにくくした人間を非難したり、悩んでいるだけでは解決にはならない。
 要するに、自分が生きて行くのだから、自分の周りの環境は自分の手によって考えて行く努力をしなくてはならないのである。
 その第一歩として、今までの自分の考え方を再認識する必要がある。
 そして、自分という小さな存在を中心に考えるのではなく、自分と相反する他人という多くの存在を、まず思いやることが大切なのである。
 また、生き甲斐のある人生を送らんとするならば、不足なき日常に切り換え、常に調和を保つよう努力すべきなのである。
 人間は何の為に生まれたのか。それは、魂の修正の為に生まれたのである。前の世に重ねた悪業の罪の消滅の為、徳を身に付ける為、仏の教えの実行をして、仏の魂に近づき、仏に成る為に生まれて来たのである。
                                                                         合掌

宝塔第277号(平成15年2月1日発行)