「宝塔」第279号
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 心の作用と結果

 仏教は心の問題を取り扱ったものであって、心の問題を捨てて物事を考えてはならないと教えられている。
 昔から“馬子(まご)にも衣装”と言う言葉がある。しかし、取って付けたものはやがてボロが出るものであって、どんなに美しい衣装を身に着けていても、身体が垢まみれで悪臭を放っていたのでは周囲の人は逃げ出してしまうだろう。それは丁度どんなに美しい色を塗った板でも、板が腐っていたのでは、その美しい色もすぐ醜くなるのと同じである。
 人間もまた上辺をどんなに美しく恰好だけ良くても心が曇り濁っていたのではそれが生活に現れて、やがて、運命を狂わせて行くのである。
 人間の苦の一つに病気がある。我々は感情をすぐ顔に現す様に、それが肉体にも現れる。これが病気である。だからその感情を静め、心の置き所を変えることによって病気も良くなることを仏法では教えている。
 これを現代医学では精神身体医学と言って、病気は心の現れであるから、心の持ち方によって良くなると言うことが実証されていることは皆さま周知の通りである。
 これについて、釈尊の十大弟子の一人、迦葉尊者(かしょう・そんじゃ)は、

 “世の医の治する所は癒ゆると言えども再び生ず”
 
 と仰った。どんなによく切れる鎌で草を刈り取っても根が残っている限り再び芽生えて来る様に、病気もまた、病気になった原因を悟って消滅しなければ、治癒をして良くなったと思っても、原因の根の有る限り、感情のもつれによって再び病気が出て来るという意味である。

 “如来の治したまう所は再びおこらず”

 これが抜苦与楽(ばっくよらく)である。
 草の根を抜き取れば、再び、その草が芽生えない様に、病気になった心の乱れの原因を悟って消滅すれば、再び、その病気は生じないと言う意味である。

 いつもは肉付きの良い、がっちりとした体格のご婦人に久しぶりで或る講演会場でお会いした時の事である。この婦人がフラフラしながら私の前に座られるなり涙ぐみながら、救いを求められた。
 最近になって、特にここ一週間は、お茶も思うように喉を通らないので、病院へ行ったところ、バセドー病と診断され、放っておくと首がだんだん大きく成るにしたがって、真綿で首を締めるような状態に成って、目が飛び出す様に成り、命も危ないから、早速手術をするように言われたのだが、主人の働きが悪く生活に事欠き親類も顔を背ける有り様で、重病と判っていながら手術することが出来ないと泣かれた。この婦人に対して、
 「喜びなさい、貧しかったことが良かったのです。貴方がもし経済に恵まれていたら、医者の言葉に従って直ぐ手術をされたでしょう。私は医学を無視する者ではありませんが、手術だけでは罪の根を取り去る事は出来ないと言いたいのです。なぜならば釈尊は抜苦与楽を説いておられるからです。これは苦の根を抜き去って楽を与えると言う意味で、苦の根である病気の原因を知らなかったならば同じ事を繰り返すだけに過ぎないからです。貴方が鎌で草を刈り取ると、その時は美しくても根が残っておれば、また芽が出て同じ事を繰り返すだけで何の変化もありません。釈尊はその苦の根を抜き取ってしまう方法を教えておられるのです。
 貴方は病気と言う結果のみにとらわれているが、一体なぜ働きの悪い主人を持ち、しかも、大病に苦しまねばならないのか、その原因を今静かに考えて見ることです」
 と諭した。
 さてここで、この婦人の過去を見ることにしますと、婦人は過去に一度結婚したのだが、病弱であった主人に絶望して別れたのである。それも主人や仲人さんが何回も頭を下げて謝って来たのだが受け入れようとはしなかったのである。そんな事から、再婚するなら健康な人をと現在のご主人と結婚をした。身体は確かに健康で人の二倍も働くかに見えたのだが、実は理屈ばかりで働く方は余り好まない事が判った時は遅すぎたのである。これも先に夫を捨てた罪が原因を作っていると言えるのである。だから、主人は経済のことも、生活苦もさして苦にしないでおれるのに、奥さんは一人で苦労して来なければならなかった。
 この婦人の商売の商品の仕入れ先が自分の在所であったことも問題であった。婦人は在所へ仕入れに行くたびに、奥の部屋で身体の不自由な母親が聞いていることも考えず、夫の事や生活苦の愚痴をこぼして来たのである。
 この愚痴が、身体の不自由な老いた母親の心を痛め、食もノドを通らぬほど心配をかけていたのである。
 この婦人の母親が亡くなるとき、姉弟の中でこの婦人の事だけ心配し続けて亡くなったと言うことを聞いただけでも、いかに度々の愚痴が罪を重ねていたかを知ることが出来るのである。
 病気の原因は言葉によって親を苦しめたことにあることを説き、先の夫と母に対する懺悔(さんげ)と供養(くよう)を誓って頂いた。自分の生活の結果の原因が何であり、それがどの様な縁によって苦しまねばならないかと言うことに無知であった人が、その原因を知ったことによって、生活に対する考え方、受け取り方、物の見方が変わったのである。長い間、喜びを知らず、懺悔も知らぬがままの愚痴と不足の生活からようやく脱皮することが出来たのである。「信仰の要道は実行にあり」と教えられているが、まさにその通りであって、昔中国の詩人で白楽天(はくらくてん)と言う名で有名な白居易(はくきょい)が杭州の知事をしていた時のことである。鳥窠禅師(ちょうか・ぜんじ)に謁(えっ)して、仏法の大意を問うたことがあった。
 禅師は、
「諸悪莫作(しょあくまくさ)・衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)・自浄其意(じじょうごい)・是諸仏教(ぜしょぶっきょう)」と答えた。

 ○諸悪莫作――もろもろの悪をなすことなく
 ○衆善奉行――もろもろの善をなして
 ○自浄其意――心は常に清らかにせよ
 ○是諸仏教――これが諸仏の教えである

 白楽天はこれを詰(なじ)って、それくらいのことは三歳児でも知っていることだと言ったと言う。ところが禅師は静かに、三歳の小児でも知ってはいようが、八十の老人でも行えぬことだと、戒めたと言う教訓がある。

 私たちは日常生活において見たり聞いたりすることによって、いくら知識を得ても、それを生活に生かす智慧が無かったら何の役にも立たないのである。
 知識を得た者が、智慧を働かせて行動したときに、はじめて幸福という運命の芽生えを見ることが出来るのであって、知識はあっても、それを生かす智慧が無ければ先の白楽天に対しての禅師の説法と同じである。
 幸いにしてこの婦人は、得たところの知識を素直に巧みに生かして懺悔と功徳(くどく)を積む行に精進(しょうじん)されて、病気の原因と夫で苦労する罪の根を取り去った智慧は、見事にバセドー病を手術もしないで、完全に跡形も無く消し去って、健康を取り戻したのである。
 考えて見ると、人生は何が幸いするか分からないもので、この人は貧乏であったが為に、手術をしないで病気を治すことも出来たし、働きを好まなかったご主人も働くようになって、現在では幸福な生活をしておられるところを見かけます。
 仏法は、我々人間の生活に現れる運命的な最悪の事態から、最善の道を開く心の持ち方と、その行動を指導したものである。
 この世の中で、一番醜いものは心である。一番尊いものも心であると教えられる。それほど心は全てのものを生み出す力を持っているのである。

    合掌

宝塔第279号(平成15年4月1日発行)