「宝塔」第280号
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 頼りになるもの

 人間生活には色々な事が起きてきますが、起きるすべての問題点は人と人との関係にあります。罪を作るのも、徳を積むこともそうであります。
 経典には、人間はどうすれば安らかな日々を送ることが出来るか、また苦しみを受けねばならない原因は何かが説かれています。
 例えば、汚れた物を美しくするには、汚れた水や汚れた布で拭いても綺麗にはならない。汚れた物を美しくするには、綺麗な水と布で拭き取ることによって美しくなると説かれています。
 これはあまりにも分かりきった話ですが、このように政治も教育もすべてが国民の安らぎと幸せの為にあるものですから、自ら清く治めて、後に人の汚れを取り去ること。これが釈尊の教えであります。
 自分が行いもしないで、人には行いをさせようとしても駄目です。
 自分が朝から晩まで怒っていて、人にはお前あまり怒るなよと言っても駄目だと言う意味です。
 
 宗教は人間の根本にある心を改革して一人一人が安心して生きる安楽土をつくる為のものでなければなりません。だが世の中には苦しみとか、悩み事とか、争い事といったような種々の事が起きて来ます。これらはすべて欲望の間違いから来ると言われています。
 人はみな自分の欲望(我欲)を満足させようとして思うようにならないと不平を言ったり、愚痴をこぼすからいけないと言われています。
 
   ○怒るから、病気がおこる
   ○怒るから、事故がおこる
   ○怒るから、経済の行き詰まりがくる
   ○怒らなければ、何もおこりません
 
 悪縁にふれると悪果を招き、悪縁にふれなければ悪果は招きません。
 
 日本という国は昔から嫁と姑の仲が上手くいかないようです。上手くいっているように見える家庭でも、内に入って見ると、何かと上手くいかない事が多い様です。仲のよい嫁姑でも何かちょっとした縁にふれて片方が怒ると一方も怒りだす。これは日常生活によくあることです。
 ある奥さんのお話ですが、ご主人が一週間海外旅行をする事になり、奥さんは毎日、飛行機事故が無いように、浮気をしないように、泥棒に会わないようにと一生懸命に仏前にお願いをして拝んでいたら無事旅行を終え帰って来てくれたので、先ずは安心と喜んでおりますと、主人が「今度は本当に良かった、素晴らしかったのでお前に土産を買って来た」と言って、ダイヤの指輪を手渡されて、妻として嬉しいことなので喜んで礼を言って主人を誉めておりました。
 しばらくすると息子の嫁を呼んで「お前にも買って来たぞ」と小さな包みを手渡しました。
 お嫁さんは喜んで早速、包みを開けて見ますと、オパールの指輪だったので最高に喜ばれました。
 しかし、それを見て大きなショックを受けたのは奥さんでした。それと言うのも、この奥さんは十数年も前からオパールの指輪が死ぬまでにはどうしても一つは欲しいと思っておられたのです。
 ですから、その指輪を私に買って来ないで、嫁に買って来てやったと思うと腹が立って、どうにもこうにも気持ちが治まりません。そうなるとダイヤの指輪までが憎らしく成って来ました。
 一方お嫁さんの方は、喜んで自分の親にも知らせ、友達にも話し、勤務先でも喜んで話しているようでした。奥さんは、そのことを見たり聞いたりする度に、自分の指輪が益々不足に思えて、主人の顔を見る度に、愚痴を言って責めたてたのです。
 一方、主人は、
 「お前は仏の教えを聞いていながら何を言うんだ、ダイヤの指輪はお前に好いと思ったから買って来たんだ、オパールは嫁に好いと思って買って来たんじゃないか、あれでも安物ではないぞ。
 お前は教えを聞いておりながら分かっていない、買って来た俺の心を受け取って喜んだらどうだ。そんなに愚痴を言うもんじゃないぞ」
 と言いました。
 確かに主人の言う通りだと思ったのですが、どうにも腹が立って我慢が出来なくて、「教えと指輪は違うわ・・・」と言ってしまいました。
 来る日も来る日も面白くなくて愚痴ばかり言いながら仕事をしていたある日、はずみでガツンと指輪を何かに打ちつけたので、歪んでしまいました。益々腹が立って「これ見なさい。お父さん。オパールなら大切にするけど、オパールでないから歪んじゃった」とまたまた愚痴を言って、二日目に気付いたらダイヤの石が無かったのです。喜びも知らず、愚痴ばかり言って罪を作っていたため、ダイヤが無くなったかと思うと、それが惜しくて惜しくて夜も眠れないほど惜しくて、法座にお参りして法話を聞いていてもさっぱり耳に入りません。「私は何と愚痴の多い、出来の悪い女なのかと思うと、自分ながら愛想が尽きました」と奥さん自らが話されました。
 そこで私は奥さんに、
 「これからは何事もよきに悟って、喜ぶように励みなさい。人間の受ける不幸も災難も病気もすべて愚痴不足の末に来るものです。あなたの病気もその例外では有りませんよ」
 と話させて頂きました。
 こんな事があって後の事ですが、この方が喜んでお見えになりまして、
 「あれからと言うものは、自分を振り返り何という情けの無い人間だろうと、喜ぶことのを知らなかった愚かさを懺悔(さんげ)して、これからは何でも喜んで受け取る人間になろうと思いながら、今までに一度も掃除したことのない車庫を掃除しておりますと、掃き集めた砂の中にピカッと光る物があったので、硝子のかけらかと思ってよく見ると、それが指輪のダイヤだったのです。車庫などへは行ったことも無く、そんなところから出るなんて妙なものですね」
 と喜ばれました。そして、一時は心臓の鼓動が止まる病気の再発もあったのですが愚痴不足の生活が徳を減らしたのだと悟り、喜びと感謝の生活をするようになり、健康で心配の無い生活を送っておられるそうです。
 人生はちょっとしたことに罪を作ったり、或いは悟ったりしながら一生を終わって行くのであります。
 結論はその一生の間に、どれほどの徳を積んだか、人を救ったか。または、人に喜びを与えて来たか。少なくとも、自分の行為が善の方に向いていたかということが問題であります。
 釈尊は、「憎しみは憎しみをもって治めることは出来ない。血は血をもって清めることは出来ない」とお説きになられておりますように、人が徳を積む場合にも、人を救う為にも、先ず自分から行いを修めて、しかる後、人の心の問題を正し、苦悩から救い出すことが出来るのです。これが本当の人間としての生き方です。
 人間は日常生活の行為を良くして行けば、良くしただけ徳が必ず自分に戻って来るものです。その徳が自分を何よりも強力に護ってくれるのです。いわゆる頼りになるものなのです。
 しかし、人間はとかく金に頼り、地位や名誉に頼り、権力に頼る気持ちが非常に強いのです。
 ところが現実は、最後に頼れるものは、金でも地位や名誉でも、また権力でもありません。
 自分の徳が一切のものを自分の幸福のために生かして行く力であることを自覚しなければなりません。
 どんなことでも正しく理解出来る能力(仏智)を養うことを仏法は教えています。これからは仏智を働かせて、対人関係を良くして、明るい家庭を作り出して下さい。

    合掌

宝塔第280号(平成15年5月1日発行)