「宝塔」第286号
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 気の弱い子

 こんな心配をしている母親がいます。
 「うちの子、どうも弱気でいけません。もっと自信を持つと良いのですが、何時もぐずぐずしていて、何を考えているのか見当がつきません。」
 こういう子は内気な性質ですから、あまり自己表現をしません。けれども物事を軽率に判断するようなことはしません。よく考えます。あれこれと考えていますからぐずぐずしているように見えます。
 親の方は、それが何となく頼りないように思えて、「もっと活発にしなさい」とか「てきぱきしなさい」と叱りたくなるのですが、こういう子はあまり責めると、いっそう消極的に成ってしまいます。
 何でもハキハキと活発な子は、頼もしそうに見えますが、その反面、その場の見境なしにズバズバと思ったことを言ったり、親に平気で口答えもします。考えもせずにパッと行動して、後で悔やんだりします。
 人にはそれぞれ持ち前の性質があり、その性質には必ず長所・短所の裏表を持っています。
 例えば、人付き合いの良い人は、とかくその場その時で一貫性がありません。積極的によく働く人は、とかく反省の心に欠け、開けっ放しの人は、却って怒りっぽいところがあります。
 また、あまり思慮深くなると、非社交的になるという欠点が生じます。物事に敏感な人は、とかく心配性になり、干渉も過ぎれば、劣等感に陥りやすくなるということもあります。
 性質の欠点ばかり見て、これを直そうとしますと「角を矯(た)めて牛を殺す」ことにもなりかねません。
 要はその性質が極端に成ったり、他に迷惑をかけることにならないよう注意することです。
 最も大切なことは、心の根本、ものの考え方が中道という大乗の教えに則していれば、どんな性質でも、それが良い方向に働き、必ず良い結果を導きます。
 教えが無いと、とかく性質の欠点が過剰に働いて、不慮の悪運を招くことにもなりかねないのです。

ものをいわない子

 「うちの子は素直な良い子だったのに、中学の上級になるに連れて、ものを言わなく成りました。むっとしていて何が不平なのか、困ってしまいます」
 こんなことを苦にしている母親もいます。
 何もかも親に面倒をみてもらっていた子も、成長して自分自身で歩いて行く時が来たのです。学校のこと、自分の将来のこと、すべて自分で考え、自分で決めて行かねばなりません。そこには未知への漠然とした不安があり、それは言葉で表現しにくいものです。つい無口になりがちであります。
 また、この年代は思春期に入って、身体も変化し、異性への関心が強くなり、感情的には動揺の激しい時期です。自分の心持ちを正しく伝えようとすると、ベラベラとしゃべれないのです。もし言葉が先に飛びだすようなおしゃべりであったら、むしろその軽率さを心配しなければなりません。
 親子の対話のないことを問題にする人もいますが、家族会議などと改まった形式は感情を硬くして、効果は乏しいものです。親子の対話は、日常的なさりげない対話が大切です。子の返答が得られなくても、親は子に対する日常的な心遣いを常に表現していけばよいのです。
 この年代になると、子の眼は大人の世界へ向けられ、大人の持つ、嘘・ずるさ・欲の醜さ・夫婦喧嘩等、悪い面を鋭く見ていきます。何よりも親は、子に恥ずかしくない家庭生活をもつことが大切です。
 もし、子の無口が病的で、親に対する嫌悪や、軽蔑的な態度が感じられるのであれば、親は深く反省する必要があります。自分自身が嫌悪の心をもって、ものも言いたくないという態度をとってきたことを改めて反省し懺悔(さんげ)しなければなりません。

怒らずに叱る

 食事の作法とか、行儀とか、日常的なしつけについては、親は自分でやって見せることによって、子に教えていくのであります。
 しかし、子が「嘘をつく」とか「人に迷惑をかける」とか「年下の子をいじめる」あるいは「汚い言葉遣いをする」というようなことであれば、子の人格形成にかかわってきますから、これを正さなければなりません。この場合、子をしかる叱り方が大切です。大抵の親は『叱る』よりも『怒る』ほうが多いのです。
 子がお金を落とした時、その不注意を叱るよりも、落としたお金が惜しくて、あたまから怒鳴る親がいます。お金の方が子供より大切だという感じが、子の心を歪めていきます。
 「叱る」と「怒る」とでは、大きな違いがあります。「怒る」というのは、いいも悪いもなく、自分の悪感情で相手を責めています。「叱る」というのは、行為の過ちを正すという理性の作用をもって、子を善導していくことです。
 フランスの小話にありますが、子が盗みをしたとき、親は何も注意しなかった。子がまた盗みをした。親は、やはり叱らなかった。子は盗みを重ねて、ついに獄に入れられた。子は親に向かって「きさまのお蔭でこうなった」と親を怨んだというのです。
 人を騙すとか、盗むとか、暴力をふるうなどというようなことに対しては、幼子のときから抑制力を鍛えるように親は教育すべきです
 この場合、大切なことは親自身が自己反省を忘れないことです。嘘を言う子を叱るとき、勉強しない子を叱るとき、親は自分自身はどうであったかという反省と、祈りの心、即ち宗教的心情を忘れてはならないのです。

          子を叱る 自分を叱る

 あるご信者さんがこんな体験の話をしてくださいました。

 「十数年前のことですが、ある日、妻が心配そうな顔をして私に、
 『財布の中の千円札が一枚足りなくなっていますが』
 と言いました。財布はよく戸棚の上に置いていたのです。
 『おとうさんが出したのですか』
 『いいや、知らないよ』 
 『やっぱり・・・』と不安気な様子です。
 妻は、子供が黙って抜き取ったのではないかという思いたくない結論に悩んでいるのです。もし、そういう悪い癖があるなら、今のうちに直しておかなくてはなりません。
 小学生の我が子は素直なおとなしい子で、そんなことをするとは夢にも思いませんでした。
 『おとうさんから、よく叱ってやって下さい』と妻に言われて、私はあの子が何故お金を黙って抜き取ったのかと、苦汁を呑む思いで考えました。
 そのとき、仏様の教えがスッと頭に浮かびました。
 自分が丁度いまの我が子と同じ年頃、母が棚に置き忘れていた一円札を黙って使ってしまったことがあることを思い出したのです。
 『そうか、あの子が悪いのではなかった。私の過去の悪因が現れたのだ』
 と悟れた時、私は懺悔の心と同時にホッと安らいだ気持ちになりました。
 子供は正直に『ぼくが取った』と謝りました。
 前から欲しい本があって、親に言い出せないで、ふと財布に手をつけたのです。それ以来、子供は二度とこういう過ちを起こすことはありませんでした。」

 と語ってくれました。
 親に宗教的反省があって、真に子を叱ることが出来るのです。信仰は家庭の中に生きています。家庭は、子の生涯の人格形成を成す大切な所であります

                           合掌

宝塔第286号(平成15年11月1日発行)