「宝塔」第292号
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 備えてあれば

 本尊・本尊とは本(もと)が尊いと書くように、本を尊ばねばならないと教えられる。さて本とは何かと考えてみるに「水に源あり、木に根あり」と言う言葉があるように人間にも本が有ることに気付かねばならない。人間としての本を知らずして終わったならば、生きた甲斐はないとまで言われている。人間はどこから来て、何によって生かされているのかを知る必要がある。
 その為に、
 天は人の始めであり
 父母は人の本である
   人苦しみ疲れ果てれば、天を呼ぶ
   苦痛にもだえ窮(きゅう)すれば、父母を呼ぶ
   天道を精進して父母に敬謝の念
   常にあれば
   天・定まりて父母をして護らしむ
 と言う言葉がある。
この言葉を知ったとき、人類は大自然(本仏)によって宿り、親によって生まれ育つ。やがて成長して大衆の中に生きている事が分かってくる。
 
子を宿したくても、宿すことの出来ない人もいれば、宿したくなくても、宿す人もいるように、これは愛情の有無だけではない、天(大自然)のなす業(わざ)である。
 また「人は過去を因として父母を縁として生まれ、各々異なった道を辿(たど)る」と言われているように、両親を本として生まれ育ち、やがて成長して社会人としての生活が始まると、これには大衆のお蔭を忘れてはならない。
 よく「俺は誰の世話にも成っていない。誰の世話にも成りたくない」と力(りき)む人がいるが、大きな間違いである。もしもこのような考えを持っている人がいるならば、即座に改めなければならない。
 我々人間が日々生きる事の出来るのは、先ずは大自然の恵(総てのものは自然の与えたもの)があって、縁あって親子に成った親が身近にあって育成を世話して下さって、いよいよ社会人の仲間入りをして生きていく。その生きる為に必要である家も家具類も衣類から食料等その他のありとあらゆる生活に必要なもの総てが、生涯顔も名前も知らない人達の智恵と努力によって形作られたものを縁あって我が物として所有しているだけのものである。
 さて、この道理が分かったならば、「俺は誰の世話にも成っていない、成りたくもない」と力むことの愚かさが分かって頂けると思う。分かって頂けたならば、それだけに終わらず、自分の力は弱くとも、徳は微少なりとも精一杯に自分の持っているものを出し切って、受けている恩恵に報いて生きる事に励まねばならない。そこから本を尊ぶ心の生活が生まれて来る。
  一、人類の本は自然
  二、出生の本は父母
  三、生活の本は大衆
 この三つの本を常に尊び、報いて生きる道に励む者は護られて、人間の求めている福(ふく)・禄(ろく)・寿(じゅ)の幸福、即ち、和合に恵まれた福を得、経済に恵まれた禄を得、健康に恵まれた寿を得ることが出来るのである。
 さてそこで、この三つの本を尊ぶ道は何か。
 それは布施(ふせ)することである。
 「布施とは人間として終始実践しなければならない徳目(とくもく)であり、恩恵に感謝すると共に報恩の意義と喜びを覚えるのが布施の真髄である」と説かれている。
 即ち、布施の布とは『あまねく広く』の意味であり、施とは『お返しをする』の意味であるから、布施することは、自分が今日生かされている事に対する「お礼のお返し」だから、布施したからといって大きな顔をしたり感謝を要求したり、功徳(くどく)を求めて迷っているのは醜(みにく)いものであり、滑稽(こっけい)なものであると教えられる。
 大衆があっての自分であるから、自分もまた尽くし与えて生きる布施道に励んで生きてこそ、その行為は親への報いとなり、仏に報いる道にも叶う。またその道は子孫へ残す道にもつながるものである。
 さて社会にあっても、家庭にあっても、上に立つ者と下にある者との上下がある。上に立つ者は、与えて慈悲を養い徳を得よ。下にある者は尽くして徳を得よ。さもなくば、上にある者は畜生道(ちくしょうどう)に落ち、下に働く者は餓鬼道(がきどう)に落ちることになる。畜生と餓鬼が集まれば、おのずとそこには修羅道(しゅらどう)が生じて、社会においても、家庭においても、国家においても決して平和繁栄はあり得ない。それどころか、その結果は争いによっての破壊しかない。そんなものは誰も求めていないのだから、各々の心を豊かに育てる為に、また家庭を思う人の為に、守らねばならない戒(いまし)めを示してみよう。

一、家庭においては常に会話して、正しく事を計ってい
  るか。
二、上の者と下の者とが心を合わせ、互いに尊び、決
  
議して事を行っているか。
三、家庭の決まりや約束ごとをみだりに破らず、定めら
  
れた事を守っているか。
四、親に感謝して、目上・年長者を労り、従順(じゅうじゅ
  
ん)であるか
五、夫婦・親子・男女間の礼節(れいせつ)は守られてい
  
るか。
六、仏壇・祭壇を備え、先祖を尊び、世話に成った人に
  
感謝・報恩に生きているか。
七、仏・法・僧を敬い、供養を怠らず、道に励んでいる
  
か。

 七番目に示した仏法僧に付いて述べてみます。
 
聖徳太子も『篤く三宝を敬え』と憲法にまで取り入れておられる。何故ならばお釈迦様は『三宝とは信仰をする者にとって、もっとも尊い三つの宝である』と説いておられるからである。「三宝」とは、
 仏=大自然(仏法ではこれを本仏と言う)はこの世の
   総てのものを存在させ、生かして求めることなく与
   
えている。これが仏である。
 法=万有の法則を意味する。これが教えである。
   宇宙間にあるすべての物体が、互いに引き合う力。
   この宇宙の法則に従って自然は保たれているよう
   に、人類もまた自然の流れを説かれた法に溶け込
   むことの尊さを自覚出来た時、安らぎを得ること
   が出来るのである。
 僧=僧と言うのは坊さんと言うだけでなく。「僧伽(そう
    ぎゃ)」の略で、和合衆(わごうしゅう)=仏道を修
    行する集まりのことであり、同信(どうしん)の仲間
    の人達のことである。
 だから、僧は互いに、
 ○教えあったり
 ○戒めあったり
 ○励ましあったり
 ○助けあったり
して向上の道を歩まねばならない。だから、
 「仏」を心の拠り所として
 「法」を心の拠り所として
 「僧」を心の拠り所として
行けば、仏の教えを誤りなく実践出来るのである。信仰心のある者は、常に「三宝」に帰依(きえ)しなくてはならないと教えられています。
 
結論は、三宝の意味をよく知って、それを敬う道に励むことが、先に述べたところの、三つの本を尊び、感謝の念を報恩の行為にもって行くことに成るのである。
 
昨今の世情を見るとき、私たちは一度立ち止まって、自らの心を見つめ正す時ではないだろうか。
 一人一人の積善(せきぜん)の行が家庭を護り、社会を護る徳の備えに成る道に励んでほしいものである。

 合掌

宝塔第292号(平成16年5月1日発行)