「宝塔」第298号
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 永遠不変の真理

 法句経(ほっくきょう)に『寝ざれば夜長く、疲れれば道長く、愚かなれば生死(しょうじ)長し。正しき法を求めぬものに人生むなしからん』とあるが、まさにその通りである。
 
寝ついてしまえば夜は結構短いもので、もう朝が来てしまったのかと残念な気さえする時がある。
 
楽しみを持ち、目的を持って歩いておれば、どんなに遠かろうともアッと言う間に着いてしまうものだ。
 
人生にも、目標を持ち自分のなすべき役割を知っておれば、生まれてから死するまでの時間など、それほど長い様には感じられないだろう。又、自分自身の力で生きているのではなく生かされているのだと考えれば、何事にも不満など感じずに喜びに満ちた人生を送れるのではなかろうか。
 
夜が寝れないとか、一日が長いとか、挙げ句には早く死にたいお迎えが早く来んか等、不平不満を言いに来るお年寄りが結構いるようであるが、不満や愚痴(ぐち)を言う前に、何故そうなるのかという事を考えてもらいたいものである。
 
本来、一日とは二十四時間しかなく、その中に夜も含まれているのだから、夜だけを考えると短く思えるのだが、世の中には長いと言う人もおれば短いと言う人もいる。つまり長く感じたり、短く感じたりしているのであるが、長いと感じている人は眠っていないからであって夜が長いと不平を言うより、何故眠れないかを考えるべきである。昼間、一生懸命仕事に精を出しておれば疲れ果てて夜を待たずに眠ってしまうはずである。寝つけなかったり、夜中に目を覚ますのは昼間やるべき事をしていないからではないだろうか。寝れない年寄りの中には一日中何をするわけでもなく、なんとなく過ごしている人が多い。世の中には、七十・八十と言えども生活の為にビルの掃除婦や道路工事に携(たずさ)わっている人もいるのであるから、肉体労働は疲れる等と言って他人まかせにしたり、のんびり暮らすことばかり考えない事である。ある程度体を動かし、頭を働かせれば、お腹も減るし、夜も眠れない等と言う事は決してないであろう。
 
仮に心配事があって眠れないとしても、眠らずに考えて解決する問題ならよいが、夜中まで心配したからといって解決しないものはしないのである。逆に、夜は眠ることに専念した方が、良い結果を生み出すのではなかろうか。
 
道を歩く事にしても、自分の都合の良い時、即ち遊びに行ったり、自分の服や装飾品を買ったりする時は、一日中歩いていても疲れたと言わないのに、仕事となると会社まで歩いて行くのが面倒だとか、お使いに行くのが大変だと不満を言ったり、挙げ句の果てに、会社があんな所にあるからいけないとか、もっと近くにコンビニでもあれば良いのに等、相手にまでケチをつける人がいるが、自分の選んだ仕事・会社であり、住まいである、自分で選んでない場合もあるが、今縁を頂いているのである。こんな不満を言うのは筋違いもはなはだしい。
 
普通、人間にとってこの世は楽しい事より苦しい事の方が多いようである。自分の都合が悪いからと言って、他に逆恨(さかうら)みするのでなく、自分に与えられた仕事場、自分に与えられた使命だと考えて愚痴を零(こぼ)さず、道を一歩一歩踏みしめる様に歩いてもらいたい。すると辺(あた)りの変化を楽しみに変える事が出来るに違いない。
 
人間の一生も同じで、自分が行わなければならない事を見つけれず、なんとなくダラダラした一日一日の積み重ねでは非常に長く感じられる事であろう。学生の試験が良い例で、毎日しっかり勉強して努力を怠らなかった者は、テストに際しても全ての問題を色々な角度から考え、答えを出した後も何度となく見直し作業を行うので時間を短く感じる事はあっても長く感じる事はないはずである。しかし、普段から怠けてばかりいて勉強をしていない者は、当然悩んで答えを考えたところで無意味であり、正解を引き出す予備知識すら蓄えていない者は、時間の長さにうんざりする事であろう。
 
つまり、人生にも自分の目標を掲げ、それに向かって努力する事が無駄な時間を作らず、充実した満足の出来る生涯とする方法ではなかろうか。
 
では、人間が一生をかけて求めなければならない目標とは何であろうか。それが仏教で言うダルマ(永遠不変な真理)である。
 
つまり、欲を離れ悟りの境地に近づく事を求めなければならないのだが、頭で理解したり口で言う程、簡単に実行出来るものではない。
 
お金や地位や名誉に執着(しゅうじゃく)し、それらを得る為に毎日必死になっているのが現実ではなかろうか。確かにお金や地位や名誉も生きていく為には必要ではあるが、それを最終目標にしていたならば、死んで行かねばならぬ自分を考えた時、そこには何一つ自分に役立つものがない事に気づくはずである。それは、死んで行く人が、あの世へお金を持って行けるわけがなく、地位や名誉も同様にこの世に置いて行かなければならないからである。
 
そして、生きている間もそんなものに捕(と)らわれているから、苦しみが生じてくるのである。諸行無常(しょぎょうむじょう)であってこの世は移り変わっており、財産や地位や名誉も明日まで存在している保障はないのである。だからこそ、永遠に価値が変化しないダルマを求め、その為に善行を積んで行かなければならないのである。
 
鎌倉時代の名僧である道元(どうげん)禅師が中国に渡って修行をしている時に、一人の老僧に出会い、その時のエピソードが今なお伝えられている。
 
それは天童山で修行していた道元が、ある日、昼食を済ませてから廊下を歩いていると、一人の老僧が炎天下で何かをしていた。道元は、何をしているのかと思い、近くまで行ってみると、椎茸(しいたけ)を干していたのであった。道元が老僧に年齢を聞くと六十八歳だと答えた。道元は内心「こんな老僧が椎茸など干さなくてもよいではないか。しかも、よりによってこんな暑い時に干す必要があるのだろうか」と思い、
 
「そんな仕事は、あなたがしなくても若い者がいるのだから、彼らにやらせたら如何なものかと私は思うのですが」と同情して言葉をかけると、
 
「他(た)はこれ吾(われ)にあらず」と答えたのである。
 
他人が行ったのでは、自分が行った事にはならないから自分でしているのだと言うのである。
 
確かに、その通りであるが、まだ納得が出来ず、
 
「あなたの言われる通りですが、なにもこんな暑い日のしかも一番気温の高い炎天下でやらなくてもよいのではないですか」と再び聞いてみると、
 
「椎茸を干すのは太陽の出ている時が一番よいのだ。今日の様な日にやらずして、いつ干す時があるだろうか」
 
と老僧に言われ、道元は返す言葉もなかったという。
 
つまり、自分に出来る範囲の自分に与えられた仕事を愚痴を言うことなく、最善を尽くして実行する事が大切なのである。
 
自分の置かれている環境や立場が、そんな簡単に変えられるわけがないのだから、自分の心を相手に合わせて一生懸命努力するしかないのである。すると自然に喜べたり、満足のいく一日を送る事が出来るはずである。
 
人間は、お金を得たり有名になる為に生まれてきたのではないと、私は信じたいし信じている。
 
なぜならば、そんなもので幸福になれるはずがないからである。
 
要するに、幸福になる為にはお金や名誉を求める心とは逆に、それらの執着から離れる事が肝心で、そんな心持ちになれた時、初めて本当の幸福が見えてくるのではないだろうか。
 
人生をむなしくするのも有意義にするのも個人個人の考え方・行動で総て決まってしまうのである。
 
永遠に変わらぬ真理を求め、意義ある人生を送りたいものである。

                              合掌

宝塔第298号(平成16年11月1日発行)