「宝塔」第315号
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 執着をはなれて 心を自由にする

 仏様の教えでは、『世の中の人の苦しむもとは、すべて執着(しゅうじゃく)から生まれてくるのであり、人の心から執着の心を取り除くことが大切である』と言っておられます。
 これが仏教の中心となっています。私たちが信仰を求めるのは苦からの救いであります。人生を豊かにするにはどうしても執着しない大きな心を作り上げていくことが必要なのです。例えば、右手で物を掴(つか)めばその右手は他の物を掴むことが出来ません。右手の物を離してこそ別の物を掴むことが出来るのです。それと同じように、一つのことを何時までも心にもてば、心はそのことにとらわれて周りの良いものを見ることは出来ません。
 世の中には、いつも取り越し苦労をする人がいます。まだ何事もないのに「もしこんなことが起きたらどうなるだろう。身体のどこかが痛いとこれは癌ではないだろうか。医者に診てもらって癌と言われたらどうしよう」と毎日くよくよして夜も寝れず、身体が少し痩(や)せてくると、これはきっと癌に違いないと思い込んで、占いや信仰でごまかそうとしても、自分自身の心にあるものを取り除くことが出来ずに悩んでいる人も多いのです。
 一人のおばあさんが、孫のことでお嫁さんとうまくいきませんでした。孫は元気が良過ぎて、家から外へ出るときいつも飛び出し、注意をしても平気で走り出していきます。嫁に少しは子供に注意をするように言っても「私の子供ですから放っておいて下さい」と心配されることが煩(わずら)わしいように言いますので、おばあさんの方も嫁の顔を見ると腹が立ってきます。ある日、子供が家から飛び出したとき自転車にぶつかり、手足に擦(す)り傷と前歯を一本折ってしまったのです。それからは嫁の方がいつも子供に注意をするようになりました。今の若い人は物事にぶつからないと覚えていかないのでしょうか。大したことではなかったから良かったけれど、これが自動車だったらと思うと身の毛もよだち、夜も眠れないとのことでした。
 またこんな人もいます。財布を落とされた方が、主人にも言えず、それを悔やんで夜もゆっくり休めず、だんだん痩せて、挙げ句の果てに病気になり、入院をしてしまいました。
 こうしたことが私たちの周囲には毎日起きています。取り越し苦労をするのも分かりますが、過ぎれば苦しみの種となります。悔やんでもどうしようもないこともたくさんあるのが世の中です。
 こうしたことにとらわれると精神に障害をきたしたとしてノイローゼや鬱(うつ)病、自律神経失調症と言う病名をつけられたりします。このような病気になりやすい人は起きてきたことにとらわれるからです。自己中心に物事を考え過ぎると自分を自分で縛り、自分自身の心の自由を無くすことになります。
 こうしたときには自分以外の人を見ることです。今にも死にそうに苦しんでいる人も多く、手術をしても経過があまり良くなく痛みをこらえてベッドの上で苦しんでいる人、膝の神経痛で夜も眠れなくて苦しんでいる人もいます。
 こうした人のことを思えば、自分の不注意で落とした財布を拾われた人が警察に届けておれば返ってくるかもしれませんが、もし拾った人が自分のものとしてしまった場合、これは犯罪です。いつもその人は心の片隅で罪の意識を感じて苦しんでいるかも知れません。落とされた人が気持ちを切り換えて、縁が有れば戻るだろうし縁が無ければ手元には戻らないと割り切って、これからは気をつけるようにしようと思えば、病気にもならずにすみます。そのお金がなければ明日から食べることが出来ない訳ではなし、心の持ち方で人生は明るくも暗くもなります。人は執着し過ぎるところに苦を生んでしまうのです。
 ある方が隣の方と僅(わず)かなことで争いを起こしていました。常日頃あまり仲の良いほうではなくたまたま頂き物が多くあったので、隣の方にもと持って行かれたのが、少し傷んでいたため、人を馬鹿にしていると突き返されたものですからそれからが大変でした。顔を合わせても横を向いて睨(にら)みながらの毎日でした。風の吹きぐあいでその家の玄関にゴミが集まったのですが隣の奥さんが朝早く家の前にゴミを掃き込んできたと思い、次の朝早くそのゴミを隣の方へ掃き寄せてきたら、それを炊事場の窓から見ていて、市場でその話をしたので大変なことになったのです。
 毎日こんなことで隣の方との憎しみあった生活の苦しみから、初めて人に勧められて信仰を求めて来られたのです。
 「人には四苦八苦(しくはっく)の苦しみがあり、その一つに『怨憎会苦(おんぞうえく)』と言って怨(うら)み憎しみ合う者とは出会いを等しくするものであると説いておられます。そういう人と出会ったときは常に慈悲の心で、どんな人にも仏性(ぶっしょう)があるとありますから、まずこちらから施しをして行くことです。
 相手の方がどのように受け取られても一年でも二年でも続けることです。ゴミについても相手の玄関の前から掃き清めることです。必ず人の心を動かすときが来ますから、努力をしてみなさい。これが仏様の教えですから」
 といろいろとお話をいたしますと、この方は一年二ヵ月の間このことを続けられたのです。やがて先方が頭を下げて会釈をされるようになられ、共に明るい毎日を暮らすようになりました。
 隣同士が助け合うこと話し合うことが出来るほど楽しいものはありません。この方は今では「信仰をしていてよかった。あのままの状態で毎日顔を合わせいがみ合っていたら、互いに病気になり苦しまなければならなかったのに、本当に良かったと思います」と言われるようになりました。
 顔にアザのあるお嬢さんがおられました。小さい時から鏡で顔を見ては、何故こんな顔に生んでくれたと親を責めては恨みながら育ち、年頃になるにつれて外へ出歩くのがまれになり、家に引きこもってアザを鏡で見ては親を恨み、世の中を呪わしく思っていました。自分ほど不幸な者はいない、いっそのこと自殺でもしようとしていたところ親に見つかり、このままではどんなことになるか分からないとお母さんが相談に見えました。お嬢さんと共に来られるようにと言いましたら来てくださいました。
 大したアザでもないのですが、思い詰めた顔が本当に暗く、少し目をつり上げて何も話さず、ただ私の顔を見ているだけでした。
 『一番大切な顔に傷があることは不幸ですね。でも手足の無い人もあれば、目の見えない人などたくさんみえますよ。どんなに考えても不幸と思っても、そのアザは取れません。少し化粧を厚くすればそんなに目立ちません。もっと気持ちを明るく持つように努力してみなさい。
 信仰とは、自分の暗い心に勝つことです。
 あなたも出来てしまったことにとらわれて苦しむより、そ
の姿で生きることの方が大切ですから、もっと大きな心になって、これからのことは仏様にまかせて行くように努力をしてみなさい。良い人が見つかって結婚だって出来るかも知れません。美しい人で結婚をしてから不幸になって泣いている人もたくさんいます。心の豊かな明るい人はどこにいてもみんな幸福に暮らしています』
 とお話しをさせて頂きました。
 このことがあってから娘さんは明るくなってこられ、三年ほどして結婚をされ、いろいろなことがありましたが、今では二人の子供の親として幸福に暮らしています。
 子供さんがお腹に宿った時、「私のように顔にアザでもあったら」と大変心配をし、初めて親の気持ちを考えることに気づいて、自分が生まれてから両親が私の将来を考えてどんなに苦しんだことだろうと、親の心を知ることが出来、心より懺悔(さんげ)をし、もっともっと明るい人間になって親に安心してもらおうと思うようになりました。
 一つのことに執着しているとすべてのことがわからなくなるものです。心を大きく持って生きることです。

        合掌

宝塔第315号(平成18年4月1日発行)