「宝塔」第317号
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 今ある喜びをみつけよ

 世の中には、自分にないものを望んでみたり、与えられないものを欲したりして、願いが叶わないことを不足に思い愚痴を言い、また、幸福や幸運は外から与えられるものであると考える人が少なくありません。
 
確かに、自然や社会から多くのものを与えられ、助けられ、それらによって生かされていることも否定できない事実です。
 しかし、自然や社会も私たち自身の働きかけによってはじめて動き出すのであって、何もせずに甘い汁を吸おうと思っても、それは叶わぬ夢なのです。
 しかも、必要以上に与えられていながら、喜べる環境であるにもかかわらず、満足できないで愚痴をこぼす人が大半ではないでしょうか。
 こうなると、問題は「すでに身の回りにある与えられているもの」の豊かさに気付いているかどうかという点で変わってきます。
 どんな人でも、世界中のすべてを手に入れることは不可能であり、豊かさを追求し続けても、おのずと限界があります。つまり、満足とは手に入れることの出来ないものを手に入れることではなく、手の中にあるものを失わないうちに、その得難い価値を知ること、見い出すことなのです。けっして、すでに与えられている幸福を見ずに、まだ手に入らないものをやたらに欲しがることではありません。満足を他に求めているうちは、他から与えられると思っているうちは絶対に得られません。自分の中に求め、自分の中から探し出して、はじめて満足できるのです。
 幸・不幸も同様に、自分の心の持ち方一つで変化をし、他から求めるのではなく、発見するところに重きを置くことが必要なのです。自分の身の回りを、そして自分自身をよく見てみると気が付いていないだけで、他人の羨(うらや)むような幸せが沢山ある場合が多いのです。
 ドストエフスキーが、
  人間は 自分で
  幸福があることを知らないから
  不幸なのである
 という言葉を残していますが、よく見ると『幸福がある』となっています。普通は「幸福である」と記すのに、この言葉の中では「で」が『が』になっているのです。つまり、幸福とは全体的なものばかりでなく、部分的な解釈もできることを強調しているのです。
 前にも述べたように、どんな人でも世界中のすべてを手に入れることはできません。そして、幸福が自分を取り巻くすべてに及ぶ全体的な満足でなければならないとしたら、そのうち一つでも欠けたら幸福でないとしたら、この世の中には一人として幸福な者はいないことになってしまいます。
 結局、幸福を部分的に見れば、あれも与えられているこれも与えられていると思えば、世界中の人々がすべて幸福になれます。しかし、幸福を全体的に捕らえると、どんな人であっても、これがない、あれが欲しいということになって不満の出る毎日になるのです。
 外国に伝わる古い民話に、幸福を見つけ出すことのすばらしさを教えてくれるものがあります。
 ある日曜日の朝 一人の男性が、村の教会の出入口の前で友達に、
 「もうすぐ、教会の中から多くの女性が出てくる。その中で一番美しい女性に私はキスをする」
 と言いだしたのです。すると、友達は、
 「そんなことは出来ないよ。バカなことをするな」
 と言ったのですが、本人は、絶対にキスをするといって聞きません。そこで、言い争いになり「それじゃあ、賭けてみようじゃないか」ということになり賭が決まりました。
 しばらくして、教会から女性たちは出てきました。約束をした男性は、女性たちの方へ向かって歩いていきました。
 「いったい、誰とキスをするのか」と友達が心配そうに見ていると、この男性は自分の奥さんをつかまえてキスをしたのでした。
 賭をした友達は「こんなのインチキだ」と思いました。なぜなら、彼の奥さんは、お世辞にも美人だとは言えなかったからです。
 しかし、その後で男性は言いました。「私の妻が美人でないことぐらい知ってるよ。しかし私にとっては、やっぱり妻が世界で一番きれいなんだ。だからキスをしたのさ」。
 この話は、自分自身の幸せ、自分に与えられたものの中で素直に喜ぶ事の大切さを教えているのではないでしょうか。
 私たちに与えられた最大の平等とは『心』です。誰もが持っている心、その心の持ち方しだいで豊かな人生になったり、あるいは貧しい一生を送ることになったりするのです。そして、不思議かもしれませんが、心の貧しい人で健康や物質に恵まれ豊かになったためしがないのです。
 その逆に、幸福を見つけ出すように努めている心の豊かな人は、自然にあらゆる方面に恵まれていくのです。
 自然とは、本当に計り知ることの出来ない深くて広いものを感じさせてくれます。
 インドの民話にこんな話があります。
 九十九頭の牛を持つ金持ちが、あと一頭の牛があれば切りのいい百頭になると考え、わざとボロの服を着て貧乏人になりすまし、遠くに住んでいる幼なじみの家を訪ねます。幼なじみは一頭の牛を持って、細々と暮らしています。
 「おまえはいいなあ・・・。ちゃんと牛を持っている。我が家は貧しい。何もないのだ。妻や子は飢えに泣いている。幼なじみのよしみで助けてくれ。お恵みをくれないか・・・」
 金持ちは懇願しました。もちろん嘘です。貧しい男は言います。
 「きみとぼくは幼なじみなのに、きみがそんなに困っているなんて知らなかった。友人として恥ずかしい。ぼくならこの一頭の牛がなくても、妻と一生懸命働けばなんとかなる。だから、この一頭の牛をきみに差し上げよう。連れて帰って、お子さんにミルクでも飲ませてあげてくれ」
 彼は牛を布施しました。金持ちは「有り難う・・」と言いながら(心の中で舌を出しつつ)牛を引いて帰りました。
 その晩、金持ちは、「よかった。これで切りのいい百頭になった」と、喜んで寝ました。貧しい男も、友達に布施ができたので喜んで寝ました。さて、どちらの喜びが本物でしょうか?
 貧しい男の喜びのほうが本物です。金持ちの喜びはどうでしょうか。きっと一晩だけの喜びです。なぜなら、彼は翌日、きっとこう考えます―”ようやく百頭になったぞ。さあ、この次は、百五十頭を目標に頑張ろう”。そう思ったとたん、彼の持っている百頭の牛が、マイナス五十頭になってしまうのです。
 今あることの喜びを見いだした牛を一頭持った貧しいと思われる男の心は裕福です。だから施しが出来たのです。百頭の牛を持った男が、後五十頭足らないと思ったら、マイナス五十頭ですから施しは出来ません。
 今の日本人のほとんどが、貧しい心の持ち主になっているのではないでしょうか。
 自分が今あることで裕福だと思えば裕福なのです。逆に今あることが不足で貧乏だと思えば貧乏なのです。
 自分の心の持ち方一つで幸福は見つけることができるのです。

合 掌

宝塔第317号(平成18年6月1日発行)