「宝塔」第319号
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 死を知って生を知る

 「年年歳歳花相似たり歳歳年年人同じからず」
 
 これは唐詩の中にある有名な一節です。去年と同じように花は美しく咲いたけれども、共に花見をした人は今年はもうこの世にいない。
 身近な人がこの世から消え去っていきますと、やるせない寂しさに心が悩みます。「ああ、あの人も亡くなったか」と悲しんでいるうちに、こんどは自分の番がやってきます。他人事ではありません。
 「生あるものは必ず滅す」
 誰も否定することのできない真理です。「この世に生まれてきたものは、いつか寿命が尽きて死んでいく。」 そんなことは分かりきったこと。誰でも知っていることです。けれども自分が「いつ死ぬか」ということは、誰にも分かりません。そこに迷いがあります。「いつまでも生きている気の顔ばかり」という川柳がある通りです。
 同年輩の人が死にますと「彼も死んだか」と心に動揺を受けます。しかし、すぐまた、「なあに、おれはまだまだ死なないぞ」と自分に言い聞かせてしまいます。けれども確実に死は足元まで来ているのです。
 いま年齢が若いから、いま健康だからといって油断は出来ません。「老少不定」の理ありで、いつ死ぬかわからないのです。
 働き盛りの人が俄(にわか)に病を得て、死亡することもよくあります。朝元気良く出掛けていった人が、途中で交通事故に合い、不帰の人となってしまうこともよくあります。地震・火事・風水害・思いがけない災難にあって命を失う人もいます。ある人が、「人間は生の上に死があるのではない。死の上に生があるのだ」と申しましたが、まことに、この明日をも知れぬ無常の中で私どもの生は営まれているのです。
 経典の中に「黒白二鼠(こくびゃくにそ)の喩(たと)え」という有名なお話があります。
 一人の旅人が広野を歩いていきますと、突然恐ろしい狂象が現れて迫ってきました。旅人は驚いて一目散に逃げました。幸い古井戸があり、その中に一筋のふじ蔓(つる)が垂れ下がっていました。
 天の助けと彼はふじ蔓につたわって井戸の中へ隠れました。狂象は牙をむいて井戸の中をのぞき込みますが、中まで入ってこれません。
 一安心して下の方を見ますと、恐ろしいことに、その井戸の底には大蛇が大きな口をあけて、旅人の落ちて来るのを待ち受けていました。
 上へも登れず、下へも降りられず。絶体絶命、命の綱はふじ蔓一本です。ところが、そのふじ蔓の根元のところでガリガリという音がしています。
 よく見ると、横穴から一匹の白鼠が顔を出して、ふじ蔓をかじっています。白鼠が穴に引っ込むと、入れ代わりに黒鼠が顔を出してかじっています。
 「もう駄目だ。助からない」と天を仰いで嘆息していると、ポタリポタリと甘い蜜が五滴も口の中に入ってきました。ふじ蔓の根元に蜜蜂の巣があって、そこから甘い蜂蜜が垂れてきたのです。旅人はその蜜の甘さに、しばし恐怖を忘れてしまっていました。

 この旅人とは、人生の旅をしている私共のことです。狂象とは時間の流れ、無常のことです。
 私共は毎日時間に追われて暮らしています。人生の時間は限られているのです。
 井戸の底の大蛇は死の影、私共を待ち構えているのです。一本のふじ蔓とは命の根、即ち自分の寿命です。
 その寿命の根をかじっている白と黒の鼠は、昼と夜のことです。昼がきて、夜がきて、私共の命は一日一日と縮まっていきます。
 五滴の蜂蜜とは五欲のことです。食欲、色欲、睡眠欲名誉欲、財欲、つまり目の前の官能的な欲望です。
 人生の無常を感じながらも、金銭や財物、性欲や名誉地位の欲望に迷って、さまざまな罪業を造るばかりで、一生を空しく終わってしまうのです。〔この比喩を聞いたロシアの文豪トルストイは、深い宗教的感銘を受けて、懺悔の生活に入ったと伝えられています〕
 「三界(さんがい)は安きことなし。なお火宅(かたく)の如し。衆苦充満(しゅくじゅうまん)して甚だ怖畏(ふい)すべし。常に生老病死(しょうろうびょうし)の憂患(うげん)あり、是の如きらの火熾然(しねん)としてやまず」
 とは、仏の戒告です。
 世の中も、自分も無常であり、無常であるが故に、常に不安が絶えません。この根本的な不安を解決しないと真の幸福は得られません。
 若さも美しさも、あっという間に衰えてしまいます。今最高に幸せと誇ってみても長続きはしません。それ故人は幸せの中で、なお不安を覚えるのです。
 財産も地位も権力も、この不安を無くす力はありません。むしろ、不安を大きくするばかりです。仏法に従って安心を得るしか、この不安から本当に逃れる道はないのです。
 「人間は死んだら、どうなるだろうか」
 誰でも一度は考えてみることです。これは証明のしようがありませんが、遠い昔から、いろいろと考えられてきました。
 ギリシャでは紀元前六世紀のころ、死者の霊魂は再び人間や動物の体内に宿ると信じられています。同時代の有名なピタゴラスは、路上で小犬を殴っている男に向かって、「その犬を殴るな。その犬には私の友人の魂が宿っている。鳴き声でわかる」と言ったという話が伝わっています。
 インドでも古代宗教では、人は死してまた地上に生まれてくるという輪廻(りんね)説がとなえられています。我が国でも、生まれ変わってくるということが昔から信じられています。
 仏教では生命の世界を十界(じっかい)に分けて、仏界(ぶっかい)・菩薩界(ぼさつかい)・縁覚界(えんがくかい)・声聞界(しょうもんかい)を四聖道(ししょうどう)と言います。これは清浄な魂の世界です。迷いと苦の世界を六道(ろくどう)と言います。天上界(てんじょうかい)・人間界(にんげんかい)は良いほうで、その下に修羅界(しゅらかい)・畜生界(ちくしょうかい)・餓鬼界(がきかい)・地獄界(じごくかい)という悪い世界があります。
 現世において悪事を行い、罪業を造ったものは、悪道の世界に堕ちると言われています。
 今世人間であっても、次の世にまた人間に生まれるとは定まっていません。畜生界に生を受ける人もいます。
 万物の霊長といわれる人間に生まれながら畜生にも似た行いをした人は、来世は畜生界に生を受けることになります。
 生命の変化は業によって決まります。人間の姿形をしていても、その心が狐狸(こり)や豺狼(さいろう;やまいぬとおおかみ)の如き人はすでに畜生界の人です。畜生の業をもって畜生の生をうけます。
 「人身に生をうけることは難しい。それは大地の土に比べて、爪上(そうじょう)の土ほどしかない」
 と経典には示されています。それほど人間として生まれてきたことは尊いこと、有り難いことです。それなのに浅ましい畜生や餓鬼の心をもち、あるいは恐ろしい地獄の業を犯すなどは、実に情けないことです。
 欲にとらわれて、目先の快楽ばかり追求していますととかく畜生や餓鬼の業に陥ります。求めた快楽はすぐ消えて、あとに苦悩が残るだけです。それでは人間に生まれた価値がありません。
 私どもは死を知ることによって、生命の尊さを実感することができるのです。普段気づかない自分の心の中の仏性という尊い魂に目覚めることが出来るのです。そのとき人生は一変して素晴らしいものになり、生きることの喜び、勇気、充実感に満たされるのです。

合 掌

宝塔第319号(平成18年8月1日発行)