「宝塔」第321号
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 円満なる家庭は栄えて楽しい

 以前、中日新聞に「夫と妻の自立度チェック」というテーマ特集があり、その中に四十五歳になる匿名希望の主婦の投稿がありました。
 「わが父ちゃんに、自立なんてまったくない。
 ○その一
 五十の声を聞いてもいまだ乳離れが出来ていない。 『お母ちゃん! お母ちゃん!』
 ○その二
 子離れもゼロ。長男を県外の大学に入れた年は大変 だったんだから・・・。
 毎日毎日、『電話来たか』『早く帰るように言え』『ご飯食べとるか心配だ。おかずを宅配便で送ってやれ』などなど・・・。
 ○その三
 経済面―そんなことまったく考えたこともない。いまだ独身気分で、商売も家庭もすべて私に任せて頼りっぱなし。妻離れもゼロ。
 ○その四
 老後? オレは長くは生きられんから大丈夫と変な自信があり、老後設計もゼロ。そのくせ、長男は近くの企業に就職させて同居するのだと言う。勝手にしなよ!
 ところで、私の方は生活設計はバッチリなのだ。老後に必要なお金も、たくさん貯めているの。二男が成人するまでは、今の生活でガマン・ガマン。その後、父ちゃんをポイッと捨てるんだ。私の一世一代のカタキウチ! 姑、小姑、ワンマン亭主よ、さらばさらば。息子にはでき得る限りの援助は惜しまず。でも一人っきりになるの。長い間の夢、一人で自由になって、思いっきり羽ばたきたい」
 と、このように書かれていました。
 私どもがこの八苦の娑婆(しゃば)世界に生きる以上、苦しみを無くし、自由に生きることほど難しいことはありません。
 以前のこと、所用のため電車で名古屋へ出掛けました。途中の駅に電車が停まって、黒革のジャンパーを着た六十歳代の男性が私の向かい側の席に座り、発車と同時に話しかけてきました。時間でも聞かれるのかと思ったのですが、そうではなく、自分の生活状態の愚痴話なのです。結局、四十分の間その話を聞くことになりました。
 その方が語るには、
 「俺は昭和四年に名古屋に生まれ、十八の時に商業学校を卒業し、そのまま会社に就職して今年でその会社を定年退職。今は年金生活をしてるんだわ。やっと辛い仕事から開放されて第二の人生を歩んでいるんだが、悩み事が尽きなくて困るわ。家には母ちゃんがいるんだが、俺が退職してから家にいると、『あんた家にゴロゴロ邪魔だから外へ行って』と掃除ついでに俺をゴミ扱いにするんだわ。仕方がないから競艇にでも行って遊んでくるんだが、男を何と思っているんだろうなあ。
 会社へ入って三十五年、体を張って仕事をしてきたのによお。誰が自分のためだけにあんな辛い仕事を続けるか! 一人だったらとっくにやめてるわ。みんな母ちゃんや子供のためだと思って我慢しているのによ。仕事がないと虫ケラ同然だ。本当に男はつらいよ。
 また息子に困っているんだわ。息子は三人おるんだが誰一人結婚しとらん。三十になっても嫁がもらえん。大きな金をかけて大学にも出したのだけれど、何をやっているのか分からん。俺たちは戦争を知っとるんで、息子に少しでも分からせようと思って昔のことを話すと、そんなこと関係ないとぬかす。こんなことじゃどうしようもないわ。もし息子に嫁ができても同居は絶対しない。死んでもしないわ。今時の女に面倒見てもらったらどうなるか分からんからなあ。嫁がやってきたら即、年金だけ頼りに木枯らし紋次郎のようにどこかへ行くよ」
 家庭の中の喜びが大きな喜びとつながっていくのですが、第二の人生を迎えたこの方は前途多難のように感じます。
 恋愛にしろ見合いにしろ、添い合った男女が何十年という長いようで短い年月を暮らしていくのです。同じ一つ屋根のもと、お互いが楽しく有意義に過ごしていく確かな方法はないものでしょうか。それは人類はじまって以来の永遠の課題でもあると思いますが、今この世で会った縁というものを大切に考え、解決の道を真剣に考えなければ、何生(なんしょう)生まれ変わったとしても同じことの繰り返しで、お互い理解し合うことはとても出来ないと思います。
 富士を見るのは遠くが一番。近くによると石ころばかりの富士の一部しか見ることが出来なくなり。幻滅してしまうことにもなりかねません。男女の仲も、距離を置いていた時にはあんなに愛し合っていたのに、お互いの距離がなくなったとたん、あら捜し。
 
 あら捜し 尽きることなく 年をとる (読み人知らず)
 
 死の風はいつやってくるともかぎりません。華厳経(けごんぎょう)の中にこんな言葉があります。
 『妻を最親友となす』
 これは夫への教えですが、逆にすれば妻への教えともなります。
 『夫を最親友となす』
 いくら人付き合いがよく、大勢の人と交わり合っていても、親友と呼べる友を持つことは難しいことです。遊び友達はいくらでもいます。しかし、心から相手の気持ちを理解できるのは、遠く離れた友ではなく、目の前にいる長所短所をわきまえた伴侶(はんりょ)ではないでしょうか。
 肩が凝った時、すぐその痛みを取ることができるのは在所にいる親の手ではありません。車で二十分もかかるマッサージ屋さんの手でもありません。それは夫婦お互い同士の手なのです。一番身近にあるこの四本の手は、二本だけしかない手に比べれば、はるかに多くのことができます。そして一致した心が、寄せ来る苦しみに対し砦(とりで)となれば幸いです。
 ところが、前の二人の話のようでは、とてもこんな考えが浮かんでくるとは思えません。それ以前に何か足りないものがありそうです。
 それは何でしょうか。正しい信仰なのです。
 常に自分本位な考えを持ち、相手のやることなすことが自分の意に沿わないと怒る。まだ欲しいまだ欲しいと不足の毎日。道理に沿った行いをせず、愚痴だらだら。これは地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)の世界そのままなのです。仏教では六道輪廻(ろくどうりんね)といって、こんな世界の繰り返しで、尊い教えに縁を結ぶことがなければ、一生この世界から逃げることはできないと言います。
 そこを離れた世界が仏の世界なのです。もちろん、凡夫である私どもがすぐに仏と等しくなることは不可能ですが、それに近づいて行こうとする心構え、精進が大切です。

 仏心とは大慈悲心なり。
 すべてのものの苦を抜き・楽を与える心

 この仏心に近づいて行こうとする心を作るのが信仰なのです。
 信仰のなかには必ず相手を尊ぶ心が養われます。また夫婦お互いが求め合うのではなく。相手に対して何をしてあげられるかという気持ちを起こさせるのです。
 それは信仰が性格・性質の違った二人に共通の人生観を見出させるからなのでしょう。
 夫婦仲が良く、親子の仲が良く、隣近所の仲も良く、日本が平和に、そして世界平和に励んで行きたいものです。
 愛はお互いを見つめあうことではなく
 ともに同じ方向を見つめることである

                        サンテグジュペリ                   

合掌

宝塔第321号(平成18年10月1日発行)