「宝塔」第330号
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 未来を知りたければ 今までの行為を見よ

 人の運命とはわからないものです。
 「明日ありと思う心のあだ桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」とは親鸞上人の七歳の時の歌と伝えられていますが、まさに、明日何が起こるか誰にも分かりません。
 十数年前のことですが。知人が交通事故に遭い病院へ入院をいたしました。
 友人の運転する乗用車の助手席に乗っている時の出来事で、不運にも助手席めがけて車がぶつかってきたそうです。運転していた友人は幸いにもかすり傷ひとつなく無事であったのに対して、助手席の彼女は全身を強く打ち、一ヵ月近く入院をしていました。
 運が悪いと言ってしまえばそれまでですが、何が災いするか分からない、本当に先の見えない毎日を送っている事を忘れてはならないと痛感しました。そんな彼女のお見舞いにと、病室を訪れた時の事、彼女がしてくれた話を、私は今でも覚えています。
 その病院の入院患者のほとんどが、七・八十歳を過ぎている事。しかも、その大半の患者の病気が完治しているという事。そして、退院しない理由は帰る場所が無い迎えてくれる人がいないという事。
 彼女の話を聞きながら、「外来で病院へ行くと、どの病院も年寄りが多く待ち時間が長い」という当時よく耳にした話を思い出しました。しかし反面、「病気で入院するのは若い人より、お年寄りの方が多くて当然だ。又、病気が治っているかどうかは医師が判断するもので、素人に分かるはずがない」とも思えてきました。
 そのうちに話題が変わり、それまでの話を忘れかけて彼女の部屋を後にしたその直後、待合室での看護婦さんと患者らしい人との話し声が耳に飛び込んで来たのです。
 「おばあちゃん、息子さんもお嫁さんも、まだ面会に来てくれないの。もう、かなりになるのにね」
 「あんなやつら来るはずないよ。それに、家にいるよりここにいた方が幸せだよ」
 その時、やっぱり本当だったのかと私自身寂しい気がしたと同時に、彼女が話した言葉をもう一度思い返していました。
 「いつまで経っても入院患者の顔ぶれが変わらないのは、この病院が無理矢理退院させないのをいい事に、老人ホームに入れては世間体が悪いので、退院出来る親をそのまま入院させているからだ。
 しかも、酷い身内になると正月やお盆でさえ親の顔を見に来ない人もいるらしい。実際に、本当に引き取りたくても引き取れない事情のある身内も多いのが今のご時世ではあるが、寂しいことである」
 昨今は、三ケ月を過ぎると転院するか、一度退院して再入院の手続きをして再検査をしなければ入院できない場合が多いが、これは病院経営上しかたのない場合もある。
 いずれにしても、一年に一度も見舞ってもらえない親は、どんな気持ちで毎日暮らしているのか、考えただけで可哀相になります。
 現代の姥捨山(うばすてやま)と呼ぶにふさわしい話ではないですか。この病院といい、老人介護施設も同じだと思います。子供が無いのなら仕方ありませんが、実子がありながら、この有り様は、入れられた者はたまったものではありません。
 今ある自分は、いったい誰から生まれて来たのか、誰によって大きくしてもらったのかを考えたことはないのでしょうか。
 しかも、子供の親に対する接し方を身をもって自分の子供に教えているようなものではないですか。
 子供は親のすることを見ていないようで見ているようです。親が歳を取ったら病院や老人介護施設に入れるものだと知らず知らずのうちに子供の脳裏に刻み込んでいるのと同じです。もっとも、そうなって苦しみ悲しい思いをしたいのなら仕方ありませんが・・・。
 ですから、自分の身になって親の事を考えてほしいのです。本来、親とは貴いものです。いつでも子供の事を考え良かれと思って、行ったり言ったりしてくれるのだと信じなければなりません。

 我が国には、昔から姥捨山の話が伝わっています。働く力の無い老いた母を背負って姥捨山へ捨てに行く息子は、時々妙な音がする事に気付いた。耳を澄まして山道を登ると、枝を手で折る音であることがわかった。
 「さては、母親が山に捨てられた後で自分がそっと山から降りてくる為に、所々の枝を折って目印を付けているに違いない」と思い。どんどん山深く踏み入り、何とか目的地に着き母を地面に降ろした。そして、
 「ここで、お別れします」
 と母に告げた息子に対して、
 「いままで、山を登る道中ずっと私は枝を折って来た。お前が帰り道を間違えては大変だと思い、目印代わりに折ったのだよ。どうか、それを頼りに山を降りて行きなさい」
 と母は息子に言葉をかけた。
 それを聞いた息子は、自分が捨てられることを承知の上で、なおも私に慈悲の心遣いをしてくれるとは、何とバカな事を私はしようとしていたのだと、母の心に胸を打たれ考えを改め親不孝を詫びて、再び母をおぶって家に戻り、それからというもの誰にも出来ないような孝養を尽くしたという。
 この話の中の母の心は本当ではないでしょうか。自分のお腹を痛めて産んだ子供のことを思わない親がどこにいるでしょう。
 親子の情とは目に見えない他人には分からないものです。それ程深く温かいものだと私は信じています。
 だからこそ、病院や老人医療施設ではない本当の家で皆仲良く暮らしてほしいのです。しかも、人間には死があります。いつかは必ず顔が見れなくなります。見たいと思っても見れなくなる時が来るのです。なにも、あわてる必要はありません。仏様から与えられた寿命がある限り、出来るだけ仲良く暮らして行く、幸せになるよう努力をする。これが大切だと思います。
 親の恩を知って、その恩に報いる心を失ったら、その人の人生は人の道から外れた、人として生まれて来るだけの価値の無いものと言わざるを得ないでしょう。
 春の夜の夢の如し(『平家物語』)とはよく言ったもので私たちが毎日見ている、或いは体験していることは再び出会う事の出来ない、記憶にしか残らない、何ら実体の無いものなのです。
 にもかかわらず、腹を立てたり悲しんだりしている私たちはつくづく滑稽(こっけい)だと思います。ましてや、嫁が姑がという愚痴話の元は、本当に些細(ささい)な事ばかりに感じられるのは私だけでしょうか。
 ともかく、他人に何かを強要する前に自分の心を変えるように努めなければならない事を知ることが、人と人との間に生きる人間のすべきことなのです。
 明日は我が身、明日の事は分かりません。しかし、仏様は未来を知りたければ今までの行為を見よとお説き下さいました。つまり、明日交通事故に遭わずにすむ、将来、病院や施設に入らずにすむ心遣いや行いを今日することが大切なのです。
 
 今日あるを親のお蔭と感謝して
 今日だけは怒らず焦らずたゆまず

 
 報恩の生活に精進していきたいものです。

合掌

宝塔第330号(平成19年7月1日発行)