「宝塔」第333号
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すべてが仏さま

 ○子供さま
 
 子供は夫婦にとっても宝であり、国にとっても宝です。だが世の親はその宝の扱い方を誤っているようです。
 子は親の姿を見て、それを見習っていくのです。そして成長し、大人となっていきます。(子供は素直)
 ところが親は自分の姿を反省せずして、子に親の理想を要求し、それが実現しなければ子を叱ります。それは全く我が儘(わがまま)と言っていいでしょう。子を育てることは、自分(親自身)を育てることです。子の心を見て、自分の心を知る。子の行いを見て、自分の行いを知ることです。我が儘な子であれば、親が我が儘なのであり、人をいじめる子であれば、親が人をいじめているのです。
 この理を知り、常に親自身が自分の心遣いと行いを反省し、子に要求することばかりを考えず、親が行って見せることが大切です。親が変われば子も(縁が熟して)変わって来ます。子供は親の長所、短所を教えて下さる仏さまなのです。我が子でなく、仏さまから与かった子供さまなのです。
 やってみせ いふてきかせて させてみて
 ほめてやらねば 人はできぬぞ 
  (慈雲尊者)

 ○夫さま 妻さま
 
 現在は男女平等で、法律的にも女性の地位が向上し、夫婦共働きも普通のこととなりました。昔のように、夫が妻に対し「俺が喰わせてやっているんだから文句を言うな」と権威を振り回す時代は終わったのです。これは男にとって不利で、女にとっては利であると考えるのは「俺が喰わせて・・・」と同じレベルでの考えであり、進歩はないでしょう。
 男女平等であるということは、夫婦が同じ目の高さで相手を眺めることであり、人間としての苦しみが男女の差なく同等であると考えることです。また、夫婦の愛情優しさは、強み弱みからでるものではなく、感謝の心から出なければ本当ではありません。夫であっても妻であっても、腕に傷を負えば共に痛いのであり、望みが叶えば共に嬉しいものです。
 万物は調和することで美しさを保ちます。夫婦の調和を保つには、互いの我が儘な心を救い、労りの心で相手を思いやる時、自分の心が大きく広がっていることに喜びを感じることが出来ます。心の持ちよう−「視点」を変えると、相手が自分の心を大きく広くして下さる仏さまだと見えてきます。そう考えると、「おまえ」「あんた」ではなく「夫さま」「妻さま」となるはずです。
 「味方が欲しければ、味方を引き立ててやればよい」
 
ラ・ロシコフコーの言葉のように、夫婦仲良くするには相手を引き立てることです。

 ○おじいさま・おばあさま
 
 「年寄り笑うな行く道じゃもの」。日本人の平均寿命は八十を超え、世界でもトップクラスの長寿国になっています。人間として生まれたのであれば老いるのは当たり前です。若者は年寄りを見て、それを嫌う人が多くいます。仮に自分のおじいさんの背を揉(も)む機会を得ても、その白髪頭、首筋の皺、もつれる言葉に、自分のこれから踏んでいかなければならない道であるとは気づかないものです。それだけ老いる者、また死というものに接する心が無くなってきたからなのでしょうか。すべて新しいものが良いという風潮であり、古いものに対する善さが分からなくなってきた時代でもあります。若者はテレビ、インターネットなどから知識を得る場合が多くなりました。下手をすると知識の量では親をはるかに上回っているかも知れません。ところが生きる智慧ということになりますと甚(はなは)だ怪しいものなのです。苦しみを乗り越えて養(つちか)った智慧ほどとうといものはないのですが、若者にとっては、それが保守的な古くさい考えとしか映らないようです。
 安易なことで得た知識だけでは、必ず行き詰まります。そこには体を張ってコツコツと積み重ねてきた生きた智慧が必要であり、これを使うことで世の中をスムーズに渡ることが出来るのです。そしてお年寄りはその智慧の宝庫です。目下の者が少しでも仏さまの説かれる質直意柔軟(しちじきいにゅうなん;誠実で心優しくあること)な心をもって接すれば宝の蔵より無限の宝を得ることが出来ます。しかし汚い者、弱い者と嫌うことがあれば、後にそれが自分の姿となり、嫌われ果てし無く孤独な一生を歩むことになるのです。難しいことは一つもありません。おじいさま・おばあさまと共々に仏さまとしての価値を知ることです。
 お年寄りを大切にすることが幸せの元になるのであります。

 ○ご先祖さま
 
 毎年お盆はやって来ます。七月の所もあれば八月の所もあります。だが現今ではお盆休みだけ強調して、お盆自体の因縁はあまり知られていないようです。
 お盆は「仏説盂蘭盆経」という経典に由来します。内容は、お釈迦さまの高弟に神通第一の目連尊者がいました。ある日、目連尊者は親の恩に報いようと思い、神通力をもって死後の世界を見ると、母が餓鬼道に落ち身は痩せ衰えて飢えに苦しんでいる姿を見つけました(餓鬼道とは、自分の事だけ考える欲の深い人が堕ちる地獄です)。目連尊者の母が餓鬼道に堕ちるなら、それだけの訳がなくてはなりません。そこに目連尊者の知らない母の一面があったのです。
 母は目連尊者に対してこの上なく優しい母でしたが、その優しさを他人に分け与えるということをしませんでした。そればかりかたいそう冷酷な人間だったのです。それもこれもすべて自分を育てるための母の愛情に違いないと目連尊者は母を救いたい一心で食べ物を送るのですが、食べ物が母の口元にいくと、その食物が火となってそれを食べる事ができませんでした。そこで目連尊者は母を餓鬼道から救いたいと、お釈迦さまにその方法を尋ねますと、お釈迦さまは、
 「目連よ、お前の母の罪障はあまりにも重く、お前の力だけでは母を救うことは出来ますまい。お前の出来ることはただ一つ、ただお前自身が多くの人に法を説き実行すること、そして七月十五日の自恣(じし)の日(雨期の九十日間の修行の終わる日)に多くの僧に飲食を供養し、母が苦をのがれ楽を与えられるように回向を頼むことです。清浄になった僧の真心の喜びが母を救うでしょう」
 と説かれました。さっそく教えの通り実行し、母を餓鬼道から救うことが出来、親の恩に報いることが出来たのです。
 私たちの生活は物質的には、なるほど豊かになりました。反面に父母のこと先祖のこと他人のことにかまっておられないという人が増えています。人間は一人では生きて行けません。目連尊者の亡き親に対する報恩の気持ちは大切なものです。私たちは過去からのつながりであり、また未来へのつながりでもあります。先祖から徳も罪もいただき今を生かされているのです。常に父母のお蔭さま、先祖のお蔭さまと報恩の心、ご先祖を尊ぶ心をもって生活することが大切です。
 私たちが触れ合うあらゆる人や物、これはすべてが仏さまと感じることが大切です。確かに、一人で生まれ、一人で死んでいくのが人間でありますが、この世が私たちに大きな力(仏)のごとき智慧を頂く修行場だとすれば、すべてのものが仏となり、私たち自身が護られていると実感できるものです。すべてのものに「さま」をつけて拝んでください。そこに尊い仏の力が見えて来るのであります。
 わたくしは あなたがたを 軽ろんじません
 あなたがたは みなかならず 仏になるべき
 仏性をおもちであるからです   〔常不軽菩薩〕

 合掌

宝塔第333号(平成19年10月1日発行)