「宝塔」第335号
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比較の人生

 東大仏文科を出て、出版社に勤務したあと立教大学、中央大学においてフランス語を教え、シナリオライターとしても活躍して後、作家生活に入って時代小説の作家として名を成した隆慶一郎が『時代小説の愉しみ』の中での一部にこんなことを書いている。

 「「子供の行動問題に関する研究会」の調査の結果、いじめ事件で検挙歴のある少年・少女は、一般の少年・少女に比べて、家庭への不満が二〜四倍も多いという記事を読んだ。少年が二倍、少女が四倍だという。(いずれも検挙歴のある中学生)
 不満事項は男の子の場合、家の中でなんとなく寂しい、両親がうるさい、母親が家にいないことが多い、であり、女の子の場合、父親が酒ばかり飲んでいる(60%)、家族と気が合わない、家が貧しい、両親がうるさい、父母の仲がうまくいっていない(40%)だ。
 正直に言おう、読み終わって、『何を言ってやがんだ』と思った。『甘ったれるな』と思い、『なんて嫌な餓鬼だろう』と思った。家の中がなんとなく寂しいから、他人をいじめるのか。母親が家にいないのは働いているからだろう。父親が酒ばかり飲んでいるのは、世間が辛いからだし、父と母がうまくいっていないのも、そのしわ寄せだろう。両親がうるさいのは当然であり、時には身から出た錆である。由来、子供は親より敏感であり、人こそしらね、親を理解し、許すものなのである。
 それによって、子は親を越えていくのである。その寛容さが、ここにはひとかけらも見られない。
 この事項の中で、唯一納得できるものは、家が貧しいという一項だけだが、どれほどの貧しさを貧しいと言っているのか知りたいものである。貧しさとは殆ど比較の問題であり、気持ちの持ちようでもあるからだ。清貧という言葉もあるのである。
 この手の調査は大変結構だし、もっと詳細に一般に公表してほしいと思う。だが、この結果から、そういう家庭状況だからいじめっ子ができた、などと思わせないでもらいたい。いじめっ子は明白な悪であり、悪は根源的にはその人間固有のものだ。時代のせいでも家庭状況のせいでもない。それでなくては人間たることの意味がない」。

 確かにうなずけるものがある。これは別稿だが、貧乏についての質問をしたとき、子供たちの中には、マンションの部屋数が少ないから家は貧乏だとか、庭にプールが無いから私の家は貧乏だと言う子供がいた。これを聞いた多くの人が、貧乏の何かを知らぬ餓鬼が何を言うかと憤慨していた。生涯恵まれたままで終われば宜しいが、そうでない場合の生活に落ち込んだとき貧乏を知らない人ほど不幸なことは無い。何故ならば、これらの人は比較の方法が下手ではないかと思うからである。
 例えば、一〇〇パーセントの生活をしていた者が、五〇パーセントの生活に落ちたときでも、比較の上手な人は喜びを見出すだろうが、下手な人はたちまち不幸になってしまう。不幸になったと落ち込む人は益々駄目になっていってしまう。それは恵まれている事にも文句を言っているからである。自分という者を知らない者ほど哀れで不幸な者はいない。
 仏の教えに、一人の王が多くの家臣を集めて、三〇センチの棒を示し「この棒に刃物も手も触れずに短くすることの出来る者はおるか」と問題を出した。
 あまりの難問に答える者もなかったが、しばらくして一人の男が進み出て答えた。「三〇センチの棒のそばに六〇センチの棒を置けば短くなります」。王は膝を叩いて喜んだと言う。これが比較の喜びであると教えられる。難しい言葉を使う人は、これを相対性原理と言うのではなかろうか。何であれ、人間は日々の出来事に対して比較の心をどこに置くかで幸、不幸をつくるのである。
 我々人間は幸だ不幸だとこの世に生かされている間中この言葉に振り回されているようだが、
 「カタカナのトに引く棒の引きようで、上になったり下になったり」
 と言う歌がある様に、トと言う字の下に棒を引けば上という字に成り、上に棒を引くと下という字に成ると言うのだから、心の眼を常に下に置けば必ず現実の生活の中に喜びを見つけ出して生きることが出来る。そこに幸福というものがあると教えている。
   足る事を 知れば此の身の 幸福を
         己がつくりて 己が住みゆく
 こんな歌を作ったことを思い出した。愚作であるが、これがカタカナのトに引く棒の歌であることを知って頂きたい。
 人は皆、あれが悪いこれがいかんと、外に苦労の原因を押しつけようとしたり、不幸の鉾を向けたがるようだが、その考えそのものが間違いであり、心の貧しさを知ってほしいものである。仏は、人に悟りの智慧があり、心豊かであれば、苦界から抜け出し心安らかに生きることが出来ると説かれている。
 私の講演を聞きに来られた老婆は晩年に成られて突然両眼を失明され、感も鈍い為、よく怪我をされた。しかも、両眼失明の為、心の眼まで真っ暗に成ったのか、笑いや喜び事はタブーの家庭になっておられた。
 だが、このお婆さんはよく手を引かれて講演を聞きに来られた。私は心ひそかに、本人自身で失明した原因に気付いて下さることを願っていた。半年も過ぎたころ、自分の子供の頃からの不幸、娘時代の苦労、その全てが親のせいだ、人の為にこうなったと、そこには恨みがあり、憎しみがあって責任を相手に押しつけて来た間違いを知り、その不幸の原因が自分にあったことを悟って下さったのである。
 なかなか自分を振り返ることの出来ない人が多いが、このお婆さんは分かって下さったのである。それからまた半年も経った頃のことである。
 「先生、私は長い間とんでもない間違いをして来ました。両眼を失明した時から世の中で私ほど不幸な者はいない、この不幸な私の気持ちは誰にも分からん。不幸だ不幸だと思い込んで家族にも辛くあたって来ましたが、お話しを聞かせて頂いているうちに、私は大きなものを見つけました。眼の見えない不幸のすぐ近くに耳の聞こえる大きな喜びのあることに気付きました。もし眼が見えていても、耳が聞こえなかったら、本は読めても、お話しは聞けません、相談も出来なかった、耳の聞こえるお蔭で自分の罪を知り、懺悔をすることが出来ました。有り難うございました」
 と喜ばれた。私の講演を月に一回聞くだけでこの悟りである。私は、この人の肉眼はそのままでも心の眼は開いた、失明の因縁が切れたと思いました。
 あの時の喜びを今も忘れてはいません。その後お婆さんは八十五歳の長寿を得られて亡くなられたが、比較の喜びを身をもって教えて下さった事実は私の心に今でもはっきり生きています。
 作家、隆慶一郎氏ではないが「甘ったれるな」である。これは子供だけではなく、大人にも言えることではなかろうか。楽をしたい幸福でありたいと、只いたずらに金や物に執着して、追いかけ振り回されて自分の心を見失っている。しかもそんな人に限って、へんな理屈を言って正当化しようとする。そのうちに私の人生は間違っていたと思い込み、別の人生に走る専業主婦が多く、五十、六十になって離婚する主婦が急増しているという。
 我々はそうであってはならない。仏法は己を知り、相手を知り、相手の為に役立って生きてこそ、はじめてその徳が自分を守る幸福の徳に成ると言われる。
 自分の人生が間違いではなかったと言える人に成るためには、相手にも同じ思いの喜びと、安らぎを与えることではないかと考えるべきである。与えずして得る事は絶対出来ないのが世の中である。お前の人生は間違いではなかったよと、仏様から幸福の徳を頂ける仲間を多く増やして行きたいものである。

 合掌

宝塔第335号(平成19年12月1日発行)