「宝塔」第340号
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因果を越えて生きる

 先日、私は仕事の途中車を運転していて交通事故直後の現場に出くわしました。
 軽自動車の運転側のドアにバイクが衝突したらしく辺り一面にガラスの破片が飛び散り、地面の上にはバイクを運転していたと思われる女性が口から血を流して座り込んでいました。
 その時思わず、お題目(南無妙法蓮華経)を唱えていましたが、それと同時に見聞触知皆菩提に近づく(見ること・聞くこと・触れること〔感じること〕・知ることすべてが仏の悟りに近づく道であり、それらを通じてこそ道を歩むことが出来る)という一節を思い出し、被害者も加害者も、これが因果と心に受け止め互いに相手だけを責め合うことなく、自らの罪の重さを知って、事故という出来事を心の中に受け入れてほしいと願っておりました。
 私は事故の瞬間を目撃したわけではなく、車とバイクのどちらが被害者で加害者なのか分かりませんが、いずれにせよ単なる偶然が重なり事故が起きたわけではなく事故を起こす、事故に会うといった因果を目に見えぬ世界で結んだからこそ、現実に事故という災難が巡ってきたのです。
 人の目には、どちらか一方が良く、一方が悪いと映りますが、仏の目を通して観れば一方に偏ることなく両者の罪、先日の事故という因果が必ずや理解できるはずです。
 こんな事を書くと「バカをいうな」とお叱りをうけるかもしれませんが、『金は天下の廻りもち(廻り物)』という諺のように、罪を作った相手と償う相手が違っていても帳尻は合うはずです。
 むしろ、それを受け入れない考え方のほうが理屈に合わない場合が多く、不合理で不自然さを私は感じずにはいられません。
 因縁因果は天下の廻りもちと知ったならば、世の中をもっと違った角度から見ることが出来るはずです。
 その為にも、もう少し因縁因果について書くことにしましょう。
 「因」とは、過去に行った事実(業)であり、今日の自分自身は過去の事実をもととし、その上に立っているのです。
 確定した過去があってはじめて今の自分があるわけです。
 「縁」とは、運と同じく回り合わせのことで、今現在を自分自身の責任において行動し、自分で道を切り開くこと、つまり、自分の責任と行動によって自らを運んでいくことです。
 「果」とは、因をもとに縁に触れた結果であり、すべては自分の業によるものでありながら、自分を含めた人間の力の及ばない領域のことで、喜怒哀楽など心的作用を伴った報いの出発点でもあります。
 この因と縁と果を合わせて因緑果(因縁果報)と呼ぶわけですが、それは人間の思惑では左右されず、人間の前に厳然として存在し、私心を挟む余地は全くありません。
 そして、因縁果の支配を受ける世界で生きている私たちは、定められた過去から生じる現在の自分、そして今自分が行おうとしている行為から発生する将来という一定方向への時の推移しか関与することを許されておりません。
 このことにより将来(未来)は今現在の生き方で決まるのであって、いくら推し量ったところで正確に理解できるはずもなく、まして将来を不安に思ったとしてもどうにもならない、それよりも今を見つめて、今に生きることを実践するよりほかないのです。

 有名な禅問答に百丈禅師(ひゃくじょうぜんじ)の不眛因果(ふまいいんが;善悪の因果は聖者とて昧(くら)ませない)という気合いによって、野狐の長年の苦しみを解いたというものがありますが、野狐の苦しみとは過去世において、悟りを得た聖者は因果の支配を受けないとする不落因果(ふらくいんが)の立場をとった為に発生したもので、落因果(らくいんが;因果の支配を聖者も受ける)、不落因果という考え方自体が、もはや人は落因果であり、仏などの聖者は不落因果という異なった二つの状態を作り出し人間と仏の区別をつけ、対立する見方をしていたからです。 
 もっとも、野狐は過去世において仮想(影のようなもの)であると錯覚するような因縁〔論〕より実相〔論〕(ありのままの姿)を中心とする禅(空)の立場に立っていたので、やむを得ないのかもしれません。
 とにかく、このこだわりの心がもとで幾世にも渡り苦しみを味わうこと(これが因縁)になったわけですが、百丈禅師の示した不昧因果は、落・不落の差別をつけず人間と仏の差異を現さずに、因果の支配を私たちが受けていかなければならない事を説いたのです。
 つまり、因果に支配される世界・されない世界というどちらか一方に偏った世界を想像するのではなく、因果の世界に生きながら因果を越える、それは因果を離れることなく、因果によって内面的な生き甲斐を見つけること、因果の現す出来事に対し、生まれて来た価値・生きている価値・そして生きていく価値の大きさを身をもって知ることなのです。
 本当に幸福な生き方とは、人や物といった自分以外に求めるのではなく、自分の内面に五感(視・聴・嗅・味・触の五つの感覚)を通じて入り込むものすべてを受け入れ、包み込むことであり、何ものにも動じない心の豊かさを求めることなのです。

 前述の、

 「見聞触知・皆菩提に近づく」

 この言葉は、その通りのことを示し教えているのであって、外界から与えられる『見聞触知』を太陽の光に例えるなら、光を反射させる鏡ではなく、太陽電池のように、それを受け入れエネルギーとして蓄積する内部変換可能な心を育てることが理想であり、その努力が因果を気にする必要さえないほど満足できる生活を与えてくれる『因』となり、やがて夢のような悟りの境地も手を伸ばせば届く所にまで上りつめることが出来るのです。

 盗人に、とりのこされし窓の月

 名僧、良寛が泥棒に入られた後に、窓辺にさす月の光を詠んだものですが、盗もうとして盗めないもの、盗まれる心配・不安のないもの、そんな世界を表現したかったのだと思います。
 私たちが、日頃から望み求めるものも、そんな世界であったならどんなに幸福でしょう。
 他人に脅かされることのない、運命にも左右されないそんな世界を心の内に築き上げたいものです。
 その為にも、心の底から『不昧因果』と信じきれる強い信心、信仰を持ち、因縁因果の支配を受ける世界の中で、それを越えて生きていく良寛の説き明かしたかった道、すなわち仏の説かれた教えを模索して頂きたいのです。
                                            合掌

宝塔第340号(平成20年5月1日発行)