「宝塔」第342号
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なんのために生きるか

  日本人は働きすぎだといわれるほど、よく働きます。何のために、そんなに働くのかと聞けば、「食うため」だと答えます。何のために食うのかといえば、「生きるため」ということになります。それでは「何のために生きるのか」ということになりますと、答えは一様ではありません。
 何かの目標を立てて生きている人もいますが、ただ生きているから生きているという人もいます。
 もともと目的をもって生まれてきたという人はないでしょう。自分の命は、自分で造ったものではなく、与えられたものだからです。しかし、人間は生きていく以上生きるということの意味、自分の人生の目標を求めようと思います。
 「何のために生きるか」という自分の人生の目的は、自分で造らねばなりません。生きる目標をもてば、そこに「生き甲斐」を感ずることが出来ます。幸福な人生とは、この生き甲斐を感ずる生活を送ることではないでしょうか。
 人は誰でも、遅かれ早かれ死んで無になることに決定づけられています。今、生きているということは、どういう意味があるのか、自分の存在価値を知ることが大切です。
 「自分なんか、生きていても、しょうがない」と、自分の存在価値を見失ってしまったら、もう人生は絶望です。絶望して自ら命を縮める人もあります。
 しかし、絶望の中から立ち直って、新しい自己を発見していくのが人間の生命力です。むしろ挫折や絶望の中から、却って真実の人生を見出すことがあるのではないでしょうか。
 あるいは財産を失い、あるいは病を得て、あるいは難に会い、あるいは愛するものを失い、辛い経験を通って人生を考え直した人は少なくありません。私なども人生の大きな挫折に会って、始めて過去を反省し、懺悔(さんげ)の門をくぐって、仏の大慈大悲に包まれる真実、幸福の世界に入ることが出来たのです。

 幸福は外から来ない

 人は誰でも幸福な人生を送りたいと願っています。自ら不幸を望む人は有りません。しかし現実はなかなか厳しくて、幸福を実感している人は少ないようです。今、幸福だと喜んでいても、それが続かないで、いつの間にか不満の生活に落ちています。
 それは外から来る幸福を求めているからです。多くの人は財産や地位を得ることを幸福の目標にしています。それで親は家庭をかえりみずに働き、子は勉強々々で頭を悩ましています。その苦労は、果してどれだけ報われるでしょうか。
 仮に多少の財や地位を得ても、自分より上位の生活をしている人を見れば、また不満の心が生じます。その財や地位も、この流動的な世の中では、いつどうなるか分かりません。
 いま欲ボケ日本などと悪評があるように、物質的欲望や官能的欲望が盛んになっていますが、そういう欲望から得られる幸福感は一時的なもので、すぐに消えてしまいます。それで欲望は益々エスカレートして、満足することを知りません。
 最近はアルコール依存症が増えてきたそうですが、飲んでいる時の幸福感はビールの泡のように消えてしまうので、また飲むという悪循環になります。麻薬の快楽はこれ以上に人の心身を蝕んでいきます。財欲の喜びも、これと似たようなものです。
 物質的幸福は外から来るものですから、思うようには得られません。得られても、また失いやすく、厄介で、当てにならないものです。
 世の中、金ですべてが解決できると思ったら、大きな間違いです。金で解決できないことが、いっぱいあります。昔の歌に「世の中は地獄の沙汰も金次第 とはいえ金で行けぬ極楽」とありますように、本当の幸福は外から得られるものではありません。
 お金や物も大切ですが、それに囚われますと、精神に空白が生じます。「腹はふくれても、心は空っぽ」という浅ましい状態です。

 貧欲は破滅を招く

 精神が空っぽになって、欲望のままに動くようになると、人の物まで欲しがるような貪欲(とんよく)心が強くなります。これが争いを生んで、自他共に傷つくことになります。 経典には貪欲を戒めたこんな説話があります。

 昔、ある仙人が雪山で修行を重ねて一大秘術を会得しました。それは満月の夜に呪術をもって、天より黄金を降らせるという秘法でした。
 彼は町をめざして山を降りてきましたが、途中で盗賊の一団に捕まってしまいました。そして今にも殺されそうになりました。仙人は「わしは黄金を降らせる術を心得ている」と申しました。それで命だけは助かりました。
 満月の夜が来ました。盗賊に命じられて、仙人は秘法の呪術を修しました。すると不思議や、天から黄金が降ってきました。盗賊たちは大喜びで祝杯をあげ、賑やかな酒宴が始まりました。
 このとき他の盗賊の一団が不意をついて襲ってきました。たちまち凄惨な殺し合いが始まり、死闘のあげく双方の盗賊たちは互いに傷ついてみんな死んでしまいました。仙人も殺されてしまいました。
 ところが、偶然ここを通りかかった二人の旅人が木陰に隠れて一部始終を見ていました。みな死んでしまったので、二人は出てきて黄金をかき集めました。一夜で大金持ちになりました。二人で山分けすることになり、幸運を祝って、御馳走を集めて祝杯をあげました。
 このとき一人の男は、この大金を全部自分のものにしたいという欲心をおこし、密かに相手の盃に毒を盛りました。一方の男も同じような欲心をおこし、すきをうかがって剣で相手を刺しました。こうして二人もまた死んでしまいました。その光景を月の光は無心で照らしていました。

 幸福は自分の心がつくる

 この世を娑婆(しゃば)と言います。娑婆とは忍土(にんど)と訳します。思うようにならないことが多い処ということです。心が満ち足りて、喜びの生活をしている人は、そう多くはありません。何故かといえば、肝心の心に迷いがあるからです。心に迷いがあるから、外にばかり幸福を求めて得られず、不満の日々を送っているのです。
 幕末のころ長州に野村望東尼という尼僧がいました。国事に奔走する若者たちの面倒を見ていた立派な人です高杉晋作が死の病床にあるとき、彼女は傍らに付き添っていました。臨終近い晋作は紙筆を所望し
 「おもしろきこともなき世をおもしろく」
と書いて望東尼に返しました。そこで彼女が、
 「すみなすものは心なりけり」
と、後を続けました。晋作は「面白いのう」と言って目をつむったそうです。
 とかく住みにくい世の中を、住みよくしていくのは自分の心しかありません。苦しみや悩みの多い人生を明るくしていくのは自分の心です。自分の心が幸福を見つけるほかに、幸福はどこにも転がってはいません。
 仏教は、この幸福を見つける心を養うものです。私共の心は煩悩で濁ってしまっています。心の濁りのために真実のものが見えません。それで迷いの生活をしてますが、その本性には誰でも貴い仏性を持っています。真実を求める心、善を喜ぶ心、清らかさを愛する心、和を貴ぶ心、美しい本性が人間の心の中にはあります。
 万物の霊長と言われる人間の価値は、自分の中に仏の心が生きているということを、自ら知ることです。この信念が成就しますと、自分がいかに尊いかということが実感されます。本当の幸福というものは、この自覚の中から生まれてくるものと思います。
                                            合掌

宝塔第342号(平成20年7月1日発行)