「宝塔」第344号
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働くだけが人生か

  今だ日本は世界の中でも経済大国として誇っていますが、本当は借金大国でもあるのです。海外から見た日本のイメージは、果してどうでしょうか。その一例をあげてみますと、
 一、「国富みて民貧し」世界一の経済大国でありながら、住宅事情は中進国より劣悪。兎小屋か蜂の巣暮らしであると、政治の貧困を指摘しています。
 二、「国際社会で果たすべき責任への適応が鈍い」と国家的エゴイズム、閉鎖性を難じています。
 三、「知的で勤勉だが、自己中心的である」と今尚、批判は多い。
 そのほか、いろいろありますが、共通している感想は「日本人は蟻のようによく働く」ということでした。よく働くことはいいのですが、「働きすぎ、働くことしか知らない」。それが問題になっているのではないか。
 「朝早くから夜遅く迄働いて、働いて・・・働くだけが人生か・・・」と言っているCMがありました。
 働き疲れながら一日一日が消えていきますと、何か人生の大切なものを忘れているように感じられます。
 高度成長の波に乗って成功したある企業の経営者が、突然ガンで倒れました。病床に臥してから、日夜心に思えてくることは何だったでしょうか。
 「毎日、仕事仕事で忙しく働いて、自分を顧みる心のゆとりを持つことが出来なかった。幸い事業も成功し、資産も出来、名士とも交際し、子も一人前に成った。しかし今、病に罹って、仕事も出来ない。訪れてくる人もない。ひとり病床に臥していると、言いようのない空しさに襲われる。自分の人生とは、いったい何だったのかと、虚しい心の飢えに悩まされる」と告白しています。
 ただ働くだけの生活でしたら、昔の人のいうように、「コマの舞倒れ」です。死に臨んで「何のために働いてきたのか」、「自分の一生は何だったのか」と悔いを残すことになります。
 人生は「生死事大 無常迅速」です。うかうかとしてはおれません。
 「人の寿命は無常なり。出づる息は入る息を待つ事なし。風の前の露、なお譬えにあらず。かしこきも、はかなきも、老いたるも、若きも、定めなき習いなり。さればまず臨終の事を習いて後に他事を習うべしと思いて」と日蓮上人は仰っています。
 人は誰でも、臨終に到ることは定まっています。自分という存在が無くなってしまうならば、今生きている自分とは、いったい何者なのか。この自己を知るということは、人生の第一義ではないでしょうか。

 『自分自身を探す』
 釈尊がベナレスからの帰途、ウルビラの林園で静かに休息されているとき、三十組の男女がこの林園に遊びにきました。彼らは町の裕福な階級の夫婦たちで、幸組という遊び仲間のグループでした。
 その中に一人だけ独身の男がいましたので、遊女を一人雇ってその妻に見たて、みんなで飲み、歌い、踊って春の宴に我を忘れていました。
 そのとき雇われ遊女が悪心をおこして、みんなの隙を伺い、高価な衣装や装身具を盗んで逃げました。気づいた人々は驚いて、女を探し求めているうちに、はからずも樹下に坐っておられる釈尊のお姿を目にとめました。人々は傍らに近づいて、女の行方を尋ねました。
 そのとき釈尊は、
 「あなた方は、何を慌てて、そんなに女を探しているのか。女を探すことと、自分自身を探すことと、どちらが大切だと思うか」と申しました。人々は、
 「それは、自分自身を探すことの方が大切です」
 「それでは、ここにお坐りになるがよい。私が自分自身を探し求める法をお聞かせしよう」
 こうして釈尊のご説法を聴聞することができて、人々は始めて真実の眼を開いて、熱心な仏法の信仰者となることができました。
 死は生命の終わりでしょうか。ある唯物論者は死にそうになったとき、
 「自分という存在が全く消滅してしまうと思ったとき悔しくて悔しくてたまらなかった」
 と無念の執着に苦しんでいます。宗教を信じない彼等は現世の生命しか認めないからです。
 仏教では、生命の永遠不滅を説いています。壮大な宇宙の生命活動は、常に生死を繰り返しています。私どもはその生命活動の流れの中で、因縁によって生まれては死に、死んでは生まれて、生死を繰り返しています。 自分の命は自分で造ったものではなく、この生命活動の現れです。
 即ち、この世の命は、永遠の命の一環です。永遠の命を今生きている自分です。それゆえ自分の人生を悪業に汚すことなく、大切にしなければならないのです。
 私どもの命は、因縁によって造られています。生まれてくるのも、生きていくのも、みな他の力(縁)が加わっています。自分一人の力で生きている人はいません。人は互いに依存しあって生活しているのですから、争いあうことなく、互いに相手を大切にすることが必要であります。

 『自己を愛する道』
 財産も大事、地位も大事でしょうが、一番大事なものは自分自身です。目に入れても痛くないほど愛する子があり、夫があり、妻があっても、一番愛するものは自分自身です。
 「人間にとって、自分より更に愛しいというものはない。それはすべての人がみな同じように思っていることである。それゆえ、自分を愛する人は、他を傷つけてはいけない」
 釈尊はこのように、自分が貴いものであるように、他も貴いものであることを説いています。
 「自己を愛する」とは、どういうことでしょうか。それは人を顧みないエゴイズムや、五欲を満足させることではないはずです。
 私どもはとかく欲望に走り、快楽を求めますが、それが度を越すと苦痛に変わるということも知っています。欲望や快楽にとらわれると、麻薬のようにエスカレートして心身を害します。自分を愛するならば、これらの煩悩に支配されないよう自制していく、自律の心が大切です。思い上がりや放逸(わがまま)は我が身の敵です。
 真に自分を愛するということは、人としての正しい理法に従うことです。自分の真実の本性を知り、自分を美しく、清浄にし、善を行っていくことです。
 善とは互いに助け合っていくことです。相依相関が人間存在の理法です。この縁起の真理を理解しますと、 「自己を愛する人は、実に他を愛する人である」ということが分かります。
 他と対立して争う自己ではありません。他を傷めて利を得る自己ではありません。自分だけの利を求めていますと「他を悩まし、自らも悩まされる」ということになります。自他共に幸せになろうという人は「他を悩まさず、また他に悩まされることもない」のであります。
 人間の持つ心の美しさ・貴さを自分の中に見出して、この心を豊かにしていくところに、自己を愛する道があります。それは自然を愛し、人々を愛し、世界を愛する道と一つであります。
 これを「大乗の心」と言います。人はみな、この大乗の心を本心として持っています。目先の欲に心がとらわれますと、煩悩の罪が現れて、争いや妬(ねた)みや、怒りの悪縁にあって、不幸や災難を招くことになります。私どもは仏法によって心の迷いを払い、自己本来の貴い価値を自覚して、生き甲斐のある人生を送りたいと思います。

                                                    合掌

宝塔第344号(平成20年9月1日発行)