「宝塔」第348号
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欲は外

 如来(にょらい)とは福徳併せ持っておられる方と教えられています。菩薩とはその最高の福徳を求めて、自らも悟りの彼(か)の岸(きし)に到らんが為、人々をも悟りの岸に導こうと努めている人達であると言われます。
 徳は人間が真の幸福になる為の根本でありますから、徳を身につけた人は、人生最高の幸福を得た人だと言うことになります。
    一年の計は、米を養い得るにあり
    十年の計は、樹を養い得るにあり
    百年の計は、徳を養い得るにあり
 と古人は言っておられます。

 百年の計によって積み上げていく徳は、自分一代の為だけでなく、後に続く世代の為に残す最高の遺産であります。未来世までも人を幸福にする基ですから、徳の人こそ末法の世には、無くてはならない人なのです。
 その徳を積み上げていく道を説かれたのが仏法なのです。学び取らねばならないことの必要性を深く胸に刻んで精進して頂く事を願っております。
 釈尊の十大弟子(特に優れた弟子)の中に阿那律と言う方がいました。この阿那律(あなりつ)と言う方は、天眼第一と言われた方ですが、修行の初歩の頃は釈尊の説法の時、よく居眠りをしたと伝えられています。
 ある時、師から厳しく戒められました。これを深く恥じた阿那律は、それ以来寝ることを惜しんで修行に励んだ為、その無理が縁にふれて、ついに失明してしまったのです。
 だが肉眼を失った阿那律は、その失明にも負けず、精進に精進を重ねて、ついに心眼を開き、天眼第一の人となられたのです。
 ある日、精舎にいた阿那律は、衣のほころびに気付いて、縫おうとしたが、針に糸が通ってないことがわかったので、誰か針に糸を通して下さいと声をかけた。
 「どなたか徳を願われる方は、私の為に手を貸して下さい」
 「どれどれ私が功徳を積ませて頂こう」と阿那律の持つ針と糸を静かに受け取りになられたのは、お釈迦様だったのです。
 阿那律は驚いて、
 「世尊はすでに生死を越えて、悟りの岸に到っておられます。この上、功徳を積んで幸福の道を求められることはないと存じます」と申し上げた。
 「阿那律よ、それは間違っている、世の人々の中で、私ほど福徳を求めている者はいないのだよ」とお釈迦様は静かに答えられたのです。
 阿那律は慈悲の溢(あふ)れるお釈迦様のお言葉に激しい感動を覚え、仏陀と成られても尚、福徳を求めて精進されるお釈迦様に、阿那律はいよいよ堅い尊敬の念を懐かれたことは勿論(もちろん)ですが、弟子の要請に無心に応じられた、その慈悲に胸が熱くなる思いで一杯です。

 こんな言葉を思い出します。

 一、人に物を施す心のある者は、富貴に生じ
 一、人を敬う心のある者は、高位に生じ
 一、慈悲の心のある者は、生命長く
 一、忍辱の心ある者は、姿形能く
 一、殺生を好む者は、生命短く、病多し
 一、我欲の人は、孤独となり淋しく人生を終わる

 施しの心の強い人・人を敬い慈悲深い人・忍耐の力ある人は、富貴を得・高位に登り・寿命長くして人々に愛される。しかし、殺生を好む無慈悲な人は、病を得やすく、短命であると言われます。
 徳のある人は、生命あるものに対して暖かい心を持って、その幸せを祈り役立って生きる道に励む事が多い。
 自分の為に他の生命や幸福を害し、平然としているような我欲の深い人は、孤独となり自ら淋しい人生を終えていく者が多い。
 この事実を受け取ることを忘れてはならないのです。
 釈迦十城の王子であったお釈迦様はゴータマと言われた。そのゴータマが城を出られて、修行の道に一歩踏み出されたときに言われた。
 「私は太子の位を捨て、王の冠も剣も外し、金の靴も脱ぎ捨てて沙門として、修行者の群れに入って苦しい修行を続けてきた。そうして初め二人の仙人についた。一人目はカーラーマ仙人だった。カーラーマ仙人の教えは六十日ほどで覚えた。次はラーマブッタ仙人だった。だがラーマブッタ仙人の教えに満足することが出来なかった。二人の仙人は、一生苦しい修行を続けて、何もない心の世界に至ったと言う。自分一人離れて、苦しみに耐え、何もない心の世界に達したところで、誰が幸せになるのだろう。私は世の中全体の人々の幸せに役立つ為に、修行を始めたのだ。苦行の末に得られた自分一人の心の世界は自己満足であって、世の中の誰の幸せにも役に立たないではないか」
 このゴータマ、後のお釈迦様が阿那律に「阿那律よ、私は福徳を誰よりも多く求めている」と言われたが、この福徳の福である善は行動に移して始めて分かったと言える、心の成長によって、行動を豊かに徳の器を成就する事は人間に与えられた最大の恵みであると説かれている。
 ところが、人間は迷いが多い、どれほど迷うか、こんな面白い仏説がある。
 旅に出た父と子がロバを引いて歩いていると、すれ違った旅人が言った。
 「二人で引いてなくて一人は乗ればいいのに」
 そこで親が乗った。しばらく行くとまたすれ違った人が言った。
 「何と言う情けの無い親だ、自分が乗って子供を歩かせて」
 と。父と子はさっそく入れ代わって今度は子供が乗って親が歩いていると、
 「何と言う親不孝者だ、親を歩かせて」
 この声を耳にした父と子は考えて一頭のロバに二人で乗っていると、また聞こえて来た。
 「何と言う無慈悲な親子だ、ロバが可哀相だ」
 と。ついにこの親子は二人でロバを背負って歩いたので道行く人々の笑い者になったと言う。
 この仏説にありますように、これほど人は迷いが多いと言うことです。
 この迷いもすべて欲から出ているとお釈迦様は説いておられます。
 欲・・・お釈迦様は「諸苦の諸因貪欲(とんよく)これ本なり」と説いておられます。確かに四十二年間は「欲を出すな、欲は人間一切の苦の本だから」とお説きになられたのですが、最後の法華経八年間に至っては「小欲を捨てて大欲に生きよ」と説いておられます。
 「己のことのみを思う貪欲な小さな欲に生きるのではなく、多くの人々の為を思う慈悲のこもった大欲に生きよと説いておられます。欲に支配される人間の心から欲を取り去ることは難儀な事なので、欲を無くそうとするよりも、その欲を生かす道を説かれたのだと確信するものです。 人間最大の欠点である欲ほど恐ろしいものはないのです。だがこの欠点である欲を生かせば、欲ほど素晴らしいものはないのです。その欲を内に向ける人は行き詰まります、「欲は外に向けよ」と教えられます。
 人間誰しも欲望があります。その相手の欲望を満たせば、その喜びが自分の欲望を満たす力となって帰って来ます、これを徳と言います。
 欲を自分にだけ向ければ、自分一人だけの小さな欲望を満たすだけであって、時には大きな罪を重ねる原因にもなりますが、相手の欲望を満たす場合は、相手が多いほど、その欲望を満たした喜びは徳を増大させて行くことが出来るのです。その徳を養うように慈悲・誠・堪忍の実践に励めと教えられます。欲は外、徳は内へと種蒔こう。
 
                            合 掌 

宝塔第347号(平成21年1月1日発行)