「宝塔」第349号
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積善余慶(せきぜんよけい)

 世の中は万物生々と言って、物はこれを生かす人に集まると言う。物は人間と同じように生きている。人が徳高い人のもとに集まるように、物もまた少しでもよく生かしてくれる人のところへ集まるものである。
 とくに全ての財を具象した金銭は物質の中で最も敏感な生物である。故に生かして使う人には正比例して自然に集まって来るものであり、貪欲な考えの者には反比例してそれだけ差し引かれているものである。
 こんな事が言われている。「人は金を追いかける。金は徳を追いかける。徳は人を追いかける」。したがって、
 “人に徳が付けば金は自然に集まる”
 人の働きは金銭によって値打ちをつけられるものではない、また働きの時間や分量によって計算されるようなものでもない。働く人の心に喜びがあるか、不満ながら時間をつぶしているだけか、実に千差万別である。
 これをハカリにかけて一々計算したならば、一律の報酬では不公平で一見不合理のようであるが、長い目で見ていると誠実な働きをしないで得た金銭は不意の出費のために消えたり、金があるために苦しんだり不幸を招く場合も多い。だから、“金銭や物質は、その人の働きと心に応じて自然に恵まれたもの”でなければならない。
 だが一方では、欲がなければ金や物には恵まれぬ人もいる。なるほど強欲な人は金も貯めれば物も得るだろうしかし、その金や物だけによって本当に幸福になったであろうか、苦しむことはなかったか、人の恨みによって不幸に陥らなかったか、世の中にはそうした不浄の財によって苦しむ人の実例がとくに現在は多い。
 時の流れにも善悪がある。現代は悪の欲に心を奪われた流れ、それは金欲と言うどろどろした、人の知識も、地位も名誉もすべてを溶かして流してしまう、愚かで悲しい時代の流れである。しかるに人々はその欲に囚われる心が強い為、それが正しい事と、心を振り回されている。人の心はそれほど弱いところがある。
 仏法に“生死解脱(しょうじげだつ)”とある。これは周囲がどのように変化しても心は変化しないと言う意味であって、まこと教えに精進して、よく理解して実行の出来る信仰者は必ず生死解脱の心境に達することが出来ると教えられる。
 人間はこの世に有る限り、絶対に信仰を無視することは出来ない・・・何故ならば人は常に心の安らぎを求めているからである。だがその心の安らぎは金や物のみによって得られるものではない。真の安らぎは教えによって練り上げられた心にあることを知らねばならない。
 だが、この世の人々は情が薄く、親しみ愛することを知らず、つまらぬ事で争い、悪因を作り苦しみの中で、その日その日を過ごしている。身分の高低や、富の多少に関係なく、全ての者が金銭物質に囚われて、心を失い恵まれて有れば有るで苦しみ、無ければ無いで苦しみ、ひたすら欲のために使われて安らかな時がないままに終わりを迎える人が多いことは悲しいことである。
 人間は互いに敬い、慈しみ、労りをもって尽くし合わねばならないものを、僅(わず)かな利害関係で憎しみ争いを起こして尊い人生を無駄に過ごして、ついにはその心が解けないまま後生にまでも怨みとなって悪因縁を残して行くことになるのである。
 善と悪とは各々その報いを異にする因果の道理によって定まっている。しかるに人々は善を成せば徳を得る、施せば福を得る、悪を成せば当然その報いを不幸、災難愚痴や不足の出来事で受けねばならないのだが、悲しいかなその道理を信じないが故に悪の報いを受ければ、只いたずらに泣き悲しむだけであって、教えに縁があって聞いていても行わず、目先の欲に溺れて貪って飽くことを知らない。
 自然の道に逆らい、理に背いておれば、必ず災いを招くように成っているのだから、苦を重ねて行って当然である。だが誰しも不幸には成りたくない、悩み事や苦しみ事はいりませんと願うのならば、悪を遠ざけ善を選び勤めて行かなければならない。
 欲に溺れて行く危険な時代であればあるほど、仏法に縁を頂いて、宜しく心を極め、善を行い、心の汚れを除き、先ず自らが救われる道に励み、他を救う事に役立って生きて行かねばならない。その徳がやがて身について周囲の変化に惑わされることのない、心の安らぎを得ることになるのである。
 中国の言葉に「積善之家、必有余慶 積不善之家、必有余殃」とあるが、これは善行を積んだ家は必ずその余慶の恵みによって後々までも、子孫が栄えるが、悪を積み重ねる家は子孫までも多くの災いを受けると言う。
 この言葉を実証するかの様にアメリカで積善の家庭と積悪の家庭を先祖から六代に至る子孫の運命を調査したものによると、
 ◎積善の家庭の主人・エドワード・神学者
    六代までの子孫=千三百九十四人の中で
     大学総長――三名
     大学教授――六十五名
     牧師・神学者――百名以上
     作家・新聞記者――六十名
     法律家――百名以上
     裁判官――三十名
     高級官僚――八十名
       中に副大統領・上院議員もいた。
 
 ◎積悪の家庭の主人・デューク・無頼漢(怠け者)
             (泥棒・放火・強姦・脅迫など)
   六代までの子孫=千二百人の中で
     幼少で死ぬ――三百名
     極貧・収容所入り――三百名
     少年時から非行――四百五十名
     監獄入り――百三十名
     まともだった者――二十名
 
  賢明な皆さんは善悪の業の報いは自分一代で終わるものではなく、延々として子孫にその影をもたらすものであることがよくお分かりになり、善を行う事が、親としてまた先祖として、いかに大切であるかいまさら私が言うまでもないことである。
  中国に昔“顔”と言う名字の一族がいて、その顔氏に“徴在”と言う娘がいた、その娘に結婚の話があった、相手は叔粱乞(しゅくりょうこつ)と言う青年だった。顔氏は返事をする前に叔家の家庭を調べて、代々善行の家であったので、人物の出現を信じて嫁がせたと伝えられている。確かにそこに生まれたのが世界三大偉人の一人と言われている“孔子”である。
 また足利尊氏は非常に信仰心が厚く、慈悲にあふれていたと言われている。確かに十五代も続いた家、しかも子孫に至るまで信仰心が厚かったのであろう。京都嵐山の名刹天龍寺、またあの金閣寺、銀閣寺も残されている事実を見ても徳を積んだ結果と言えるだろう。
 これらを見ても、人間は恵まれては苦しみ、貧しければ欲して憂う。この様に心の安らぎは経済、物質のみによって得られるものではないことがよく理解出来るのではないだろうか。
 現在の生活は昔に比べれば十分豊かである。これは科学や文化の向上発展のお陰であることに違いはないだろうが、人間は平穏無事な生活が出来るように成っても、求める心は止まらない。この餓鬼の心の改善をしない限り、いかに努力して励んでも不平不満の生活から抜け出すことは出来ないままで終わることになるのだから、生死解脱の心境に成って、与えられている現実を生かして積善の行に励む教えの心に生きる事が唯一の宝であることを知って精進して下さい。
 
                            合 掌

 

宝塔第349号(平成21年2月1日発行)