「宝塔」第355号
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異体同心なれば万事を成す

 世の中が平和な時は有り難い。何が有り難いかと言えば、世間が平穏無事な時は人の心の中も落ち着いているからである。
 つまらない譬えですが、先日買い物に行き、両手がふさがるほどの荷物を持って横断歩道を渡っていたところ信号が急に点滅し始め、慌てて駆け出しました。
 すると、それまで納まっていた荷物が右に左に飛び跳ねて、大変持ちにくくなる。これは、どうにも仕方のないことです。
 走れば走るほど、動揺がひどくなればなる程勝手な動き方をして離れ離れになろうとする。
 世の中の事も、全くその通りです。
 世間が穏やかであれば、人の心も落ち着きますが、ひとたび動揺すると、人と人との心が離れ離れになっていきます。世間の刺激が強くなればなる程、世間が忙しくなればなる程、人の心は偏り勝手に右へそれたり左へそれたりと、理屈やその時の感情に走って冷静な判断が出来なくなってしまいます。
 誠に困ったことですが、人と人が背中合わせになり、心と心が離れ離れなってしまうのです。
 世の中には、家族の心が離れ離れで毎日苦しんでいる人も少なくありません。
 父親の言い分も正しい。母親の言っていることも十分わかる。息子の考え方も間違っていない。娘の気持ちも理解できる。
 この四人の家族は全員善人なのです。決して、訳の分からないことを言っているのではありません。
 しかし、その家族が集まって話し合いをすると一致をみない。それどころか、言い争いをして最後には喧嘩になってしまう。
 一人づつ調べていけば、それぞれに分別を持ち正しいことを言っている。それが、いっしょになるとかみあわない。何故なのでしょう。
 別に一人として悪気はないけれども、それぞれに自分の世界を持っている。自分の都合がある。だから、自然に任せておけば離れ離れになるのは当たり前です。家族といっても、朝から晩まで何時も一つの所で一つの事に従事しているわけではありません。それぞれに仕事があり、役目があって成り立っているのです。互いに平穏なときは相手を認め、理解しようと努力できます。しかし慌ただしい日々になると話が違ってしまうのです。
 相手の事ばかり優先出来なくなる。自分を第一に置いて人の事は二の次、三の次となっていく。だから、話を合わせようにも合わない。善人であっても、所詮自分の事を中心に考えるわがままな人間となってしまうのです。
 そこで、どうしても自分を捨てるという気持ちを持たねばなりません。
 一人一人が、そうなるよう努力しなければいけないのです。
 そして行き当たるのが信仰です。信仰心なくしては、まとまる話もまとまらないのです。
 父は父で、母は母で、息子は息子で、娘は娘で、それぞれの立場に執着してはいけません。固執してはならないのです。
 時には自分を捨て、周りとの調和を保つように心掛けなければなりません。
 その心のもとを作ってくれるのが信仰です。信仰は、自分を中心に置くことを嫌います。常に仏様を中心にして、その周りに自分や家族や知人があるのです。
 どんな時でも、中心にあるのは仏様、どんな事が起ころうとすべて仏様のお導きなのです。
 こう考えれば、決して無理なことはない。自分から合わせていく気持ちさえ持っていれば、困ることもなければ、まとまらない話でさえ、まとまってしまいます。
 亭主は話が分からない、妻が悪い、子供が言うことを聞かない、そんな不平はなくなります。
 みんなが協力し、協調し合えば、何も問題はありません。ところが、誰もが自分を中心に置きたがる。父は父で、父親としての威厳を保つことばかりを考える。母は母で、自分一人が四苦八苦しているような顔をする。子供は子供で、付き合いや考えがある。
 何度も言いますが、これでは駄目です。自分の役割は役割としてきちんと果たして、その上で相手に合わせていくことです。そうすれば、必ず接点が見つかります。
 これは本当に重要なことです。
 なにも、家族に限ったことではありません。会社でも隣近所の付き合いでも、そして学校でも同じことです。
 相手に合わせる心さえあれば対立は生じません。この世は、持ちつ持たれつ、時には従え、時には従う、これが原則です。それを双方とも常に相手を従えようとするから問題が生じる。
 人相の話をするつもりはありませんが、福耳といって耳の大きい人は成功すると言われています。その代表的な人が釈尊です。大きいというか、長いというか、確かに釈尊は成功者の一人でしょう。
 この釈尊は、他人の意見をよく聞き、人の心を察する力に長けていたからこそ、耳が大きくなったのかもしれません。これに対して我々の耳は小さい。それは、自分の耳に心地よいものだけを聞いて、耳の痛い話は聞こえないふりをしてしまうからではないでしょうか。
 常に自分が正しいと思っていれば、他人の言葉に耳を貸さず、自己主義ばかりで終わってしまいます。
 気がつけば、自分の周りは何も聞いてくれない者ばかり。何とか協調しようとしても後の祭りで、どうにもならない。
 そんな事にならないよう常日頃から家族の言うこと、知人の話に耳を傾け、そして良きを取り、悪しきを捨てる練習をしなければいけません。しかも、自分の意見とて欠点はあるものと考え、冷静に自分を評価するよう心掛けるのです。
 その為には、まず他人の話を聞くところからはじめなければなりません。
 日蓮聖人が、

 異体同心なれば万事を成し
 同体異心なれば諸事叶うことなし

 と言う言葉を残されました。
 異なった方面で、それぞれの役目を持っていても、心を同じにするよう努力すれば、どんな難題が訪れようとも必ず、それを乗り越える力が与えられるはずです。
 それとは逆に、毎日いっしょに同じような仕事をしていても、心がバラバラでは、ろくな結果は出るはずがありません。

 今、世間は忙しく、慌ただしく動いています。人の心に余裕がないのです。とくに自分を中心に置いた主張をしたがっています。心と心がぶつかって、ピョンピョン飛び跳ね、いつ外へ出ていくか分かりません。
 こんな時こそ、信仰が大切となり、仏様を中心にした心を必要としています。
 人と人との和をつくるには、人を中心にしては成り立ちません。
 なぜなら、完全ではないからです。その時々によってしっかりしている時もあれば、ぐらぐら中心点を出てしまいそうな時もあるのです。
 だからこそ、絶対に動くことのない仏様を真ん中に置いて、周りを人が囲みつつ、耳を傾け合う姿が大切なのです。
                            合 掌

宝塔第355号(平成21年8月1日発行)