「宝塔」第357号
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弦は緩(ゆる)んでいないか

 世の中には宗教は「困った時の神だのみ」で、その場しのぎのもののように思っている人もいますが、これほど浅はかな考えはありません。宗教は人の一生を通じてその人の幸福を実現していく真理の道を示すものであって、日々の生活の中に生き生きと活用される生活原理であります。
 宗教とは何かという設問に対しては、いろいろな説明が用意されますが、結論としてそれは「生命の拡充(かくじゅう)」であるという定義がされています。
 生命の拡充とは意味の深い内容をもっていますが、簡単に言えば「自分を大きくする」ということでしょう。身体は大きくなりませんが、心はいくらでも大きくなります。
 卑小(ひしょう)で醜い自我の心が、明るくて広く大きい心になっていくところに、人生の価値が充実し、幸福感が得られると思います。
 物の豊かさに目を奪われ、心が貧困になっている今日こそ、正しい宗教の光によって、めいめいの生命を拡充して、真実の幸福を見出すべき時ではないでしょうか。
 大乗仏教は衆生救済の教えです。この世は「火宅の如し」と言われるように、苦しいことや、辛いことが多く不満や不安が絶えません。この人生の苦悩を解決して、明るい喜びの生活を実現していくのが大乗仏法であります。
 仏法は幸福な生き方を説くものですから、私どもの日常生活と離れたものではありません。一時的な修行や、何らかのテクニックを用いるようなものではありません家庭の中で、職場の中で、日々の心遣いや行いの中に、この仏法は生き生きと躍動しているのです。
 その基本精神は何かと言えば「生命の拡充」ということです。仏教ではこれを慈悲の心と言います。人間にとりまして、いちばん尊いのは慈悲の心です。この心が自分も他人も共々に幸福になっていく原動力です。
 世の中には我欲こそ幸福の道と思っている人もいますが、これは顛倒(てんどう)した考えであって、我欲は結局は自他共に不幸に導くものであります。
 慈悲とは、自分を大きくすることです。日常的に言えば親心を持つことです。子供の時には自分のことしか考えませんが、親になれば、子供も自分の中に包容されます。自分が一段と大きくなります。さらに他の人に対しても慈悲の心をもっていけば、もっともっと大きくなります。
 人は目先の欲でいろいろと迷いの心を起こし、多くの過ちを犯しますが、その本性には慈悲の心が存在しています。それは人の生命は、仏の大生命から現れたものだからであります。
 仏の生命は永遠不滅であり、この宇宙に遍満(へんまん)しています。私どものこの卑小な生命も、実は仏から戴いた命であることが自覚できましたならば、これこそ真に「生命の拡充」を得たものであります。そこに、すべての人々の幸福を願う慈悲の心の働きが生まれます。
 仏の心は、すべての人々の幸福を願う慈悲の心です。それ故、仏教を信仰する人は、それぞれの分に応じて、人々の幸福を願う努力を惜しんではならないのです。
 私どもにはとかく怠け心が起きて「今やらなくても、そのうちにやればいい」とか「自分がやらなくても、誰かがやってくれる」とか横着なことを考えやすいのですが、これでは何事も出来ません。
  道元禅師は二十三歳のとき中国に渡り、天童山で修行しましたが、あるとき庭先で典座の老僧が椎茸を日に干しているのを見ました。強い陽射しの下で坊主頭から汗が流れ落ちています。年寄りの身には苦しそうに見えましたので、
 「あなたがおやりにならなくとも、下働きの者をお使  いになったらどうですか」
 と声をかけました。すると老僧は、
 「他にこれ我に非ず」 (他人のやったことは自分のつとめにならない)
 「それはそうですが、しかし、こんなに陽射しが強く  ては大変でしょう」
 「さらにいずれの時をか待たん」(今やらなくては、やる時はない)
 日常の何でもない仕事ですが、この老僧は自分の全力をあげて取り組んでいます。この老僧の言葉は道元に深い感銘を与えたということです。
 考えてみれば、私どもは善きにつけ悪しきにつけ、日々自分の業を行っているのです。この業は他に代わってもらえないものです。かけがえのない自分の大切な業として、私どもはどんな業を行えばよいのでしょうか。
 「すべての人の幸せを願う仏の心」こそ、仏教を信仰するものの行動原理であります。迷いの世界から悟りの世界へ、苦悩の世界から安楽の世界へと、常に人々を善導することに力を尽くすことが肝要であります。
 「他にこれ我に非ず」 仏が法華経に示された本化菩薩(ほんげぼさつ)とは誰か、誰でもないこの身であるという信念をもって、自らの業として努めていくのであります。
 「さらにいずれの時をか待たん」 この世で今、今日一日、今日一日と命のある限り努力させて頂くのであります。
 古来、高僧、先師は法のため不惜身命(ふしゃくしんみょう)の働きをされました。私ども薄徳垢重の凡夫には天上の月を仰ぐ感がしますが、凡夫は凡夫なりに精一杯、自分の真心を尽くしていきたいものであります。
 仏弟子の聞二百億は大富豪の息子で、一度も足を地に着けたことがないほど大事に育てられましたので、足の裏に長い毛が生えたということです。
 そんな彼が一念発起して、周囲の反対を押し切って出家し、釈尊の教団に弟子入りしたのですが、他のお弟子のように修行に耐える体力はありません。
 昼も夜も眠らず、足から血を流して、一生懸命努めましたが、なかなか悟りが得られません。
 疲れ果てた彼は、自分にはそれだけの機根がないと思い、修行はやめてもとの在家にかえり、布施の徳を積むことで満足しようと思うようになりました。
 仏は彼を呼んで言いました。
 「あなたは在家にある時は、よく琴を弾いていたそうですが、琴の音というものは、弦を強く締めると好い音が出ますか」
 「いいえ、弦が強すぎますと、音が堅くなってしまいます」
 「それでは、弦を緩くしますと、好い音が出るでしょうか」
 「いいえ、弦を緩くしますと、音がだれてしまいます琴の弦は強すぎることなく、また緩すぎることがなくてはじめて好い音が出ます」
 「二百億よ、修行もその通りです。精進することは大切ですが、度を越えて苦しみを感ずるほどにするならば後悔の思いにとらわれてしまいます。
 また心が緩むと、懈怠(けだい)におちてしまって、道を失うことになります。
 常に心を平等にもって、琴の好い音を出すような心構えをもって修行していけばよろしいのです」
 仏の教えをうけた彼は、それから焦らず、無理をすることなく、また、怠けることなく、自分の力に応じて努力を続け、ついに立派な悟りを得ることが出来たのであります。
 私どもは法のために努力することを怠ってはならないのです。私どもの心の弦は緩んではいないでしょうか。
 仏が涅槃に臨んでお弟子に残されたお言葉
 「おんみら 一心に務めよ」
 この言葉を常に忘れないようにしたいのもであります。


                            合 掌

宝塔第357号(平成21年10月1日発行)