「宝塔」第358号
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真の幸福とは

 人は生きている限り、欲望から離れることは出来ません。しかし、この欲望が過大になりますと、いろいろな弊害が現われ、苦しみが生じます。現代は物質的欲望が過大になって、資源の浪費や、環境の破壊が進み、人類の未来に暗影を投げかけています。
 万国地質会議では「エネルギー・資源を浪費する欧米型の生活様式がその元凶であり、西欧の植民地支配による収奪が第三世界に貧困と飢餓をもたらした」という非難の声があがっています。
 近代科学を軸とする物質文明は、快楽や便利さを増進させましたが、それはますます人の欲望をエスカレートさせ、貪欲と浪費におぼれて、自然界を侵略する傲慢(ごうまん)さをほしいままにしてきました。
 今日改めて、この愚かな貪欲と傲慢に対して、謙虚に反省すべき時が来ているのではないでしょうか。
 旧約聖書に説かれている「バベルの塔」は、人間が自らの知能に慢心して、天まで届く高い塔を造り上げようとしましたが、これが天の怒りにふれて、塔は崩壊し、人々は心の通い合いを失い四散したということであります。
 今日の西欧文明は、この愚を繰り返しているのではないでしょうか。目に見える物の世界を中心として、人間の精神文化を軽視し、経済万能の考え方に支配されています。
 西欧文明の哲学では、「対立物の闘争」が進歩と発展を生むとしています。人は心の通い合いを失い、競争を生きる目標とします。それは争いから争いへと発展し、ついには戦争にまで至るものであります。「進歩」を旗印とする文明の結果はこれであります。
 進歩自体は必ずしも人間の幸福を実現するものとはいえません。競争よりも調和の生活、人と人とが心の通い合う世の中、愛と平安のある人生こそ、人々が求めているものではないでしょうか。
 日本も欧米文化の支配下に入り、経済第一主義の道を進んだ結果、自然環境の破壊だけでなく、大切な人間の精神を空白化してきました。その表れとして倫理感の喪失があります。不信・不倫の悪徳が横行して、人心を傷つけていることは悲しむべきことです。
 釈尊は今日あるを予言して「末法濁悪世(まっぽうじょくあくせ)」と説いています。世が末になると、仏の正法を信仰する者が少なくなり,いかがわしい浅薄な信仰が流行するようになります。人の心が濁って正しい智慧が失われ、邪見をいだくようになります。これを「見濁(けんじょく)」と申します。
 また人々の欲望が強くなって貪りを喜び、自我に執着して他を思いやることなく、瞋恚・愚痴の念多く、嫉(ねた)み怨(うら)み、驕慢(きょうまん)の心を抱いて争いを好むようになります。これを「煩悩濁(ぼんのうじょく)」といいます。
 これらの悪徳に犯されて、人々の生命は自浄能力が弱って濁っていきます。この「命濁(みょうじょく)」は生命の弱体化を招くことになります。
 人体には、外部から細菌や毒性が侵入したとき、直ちにこれを捕まえて浄化する、いわゆる免疫力をもっています。この生命のもつ自然治癒力が弱くなって、病気への抵抗力が失われます。
 私ども一人一人の生命は孤立してあるのではなく、大生命という大海の上に動く一つ一つの波のようなものであります。この私どもを生かしている根元の大生命を見失っているところに、生命の濁悪と弱体化が生じているのであります。
 あらゆる生きとし生けるものを生かしている大生命を自覚することによって、人は自分の生命を浄化して、強く正しい生命力を得ることができるのであります。
 人には三つの生誕があると言われています。第一の生誕は、母の胎内からこの世に生れ出ることです。第二の生誕は、自我の意識の発生です。「我とは何か」「人生とは何か」生きる主体の自意識に目覚めることです。
 第三の生誕とは「信仰に目覚める」ことであります。これは自分の本質を知ることです。自分の生命の根源を覚えることであります。
 人生にとって最も大切なことは第三の生誕です。自分の生命の根源である永遠の大生命、即ち永遠の本仏を知るということです。
 久遠の本仏とは、久遠実成釈迦牟尼仏(くおんじつじょうしゃかむにぶつ)であります。生きとし生けるものの生命の根源であります。
 法華経は、この真実を明らかにした経典であります。 「今此の三界は、皆是れ我が有なり
    其の中の衆生は 悉く是れ吾が子なり」 
 即ち一切衆生は皆、本仏の大生命から現れた一つ一つの命であります。
 このことは即ち「人間は本来、仏の子である」ということであります。
 この自覚に到達したとき、新しい自分が生まれます。第三の生誕であります。信仰に目覚めるとは、この真実への開眼であります。
 「妙法」をよみがえりの教えと申しますが、この第三の生誕によって、無明煩悩の世界から、智慧と慈悲に輝く世界へ生まれ変わるのであります。
 第三の生誕を成就するためには、まず成さねばならぬことがあります。それは懺悔の法門をくぐることであります。
 懺悔とは何かと申しますと、まず自らが「病者の自覚」をもつことです。清浄無垢な仏の命を戴いているにもかかわらず、誤って無明煩悩の病に犯され、貴い命を濁らせてきたことを覚らねばなりません。
 即ち日々、貪欲(とんよく)・瞋恚(しんい)・愚痴(ぐち)という三毒の病に犯された生活を繰り返し、これを良しとしてきたのであります。
 貪欲は餓鬼の業、瞋恚は地獄の業、愚痴は畜生の業と仏は教えられていますが、これを覚ることなく、「惑・業・苦」の輪廻を繰り返しているのであります。
 また私どもは、自分が生きて行くためには、どれほどか多くの恩恵を受けているのですが、これを覚ることなく一向に感謝の心を発しません。
 父母の恩恵、衆生の恩恵、大自然の恩恵、大いなる仏の慈悲の力によって、私どもは生かされているのですがこの有難さに感動する心を失っています。
 さらに謙虚に考えてみますと、自分の生存を守っていくために、どれほどか他を痛め、傷つけているかということに思いを至らさねばなりません。
 まず第一に私どもは親に心配の掛け通しです。どれほどか親の心を痛めさせてきたことでしょう。
 また、人に迷惑を掛けたり、損害を与えたり、あるい人の心を傷つけたり、あるいは知らず知らずに人に悲しみや苦しみを与えていることもあります。
 さらにまた私どもは、自分の生命を養う為に、多くの生き物を犠牲にしていることも忘れてはならないのであります。
 心が傲慢の病に犯されていますと、自分が生きるためにつくらざるを得ない数々の罪の意識すら感じることなく自分を生かして下さる無量の恩恵に対する報恩の念も生ずることはありません。
 無智ゆえにつくりし罪業、三毒の悪業を、仏さまの前で「質直意柔軟(しちじきいにゅうなん)」の心をもって懺悔しなければなりません。この懺悔によって濁った生命が浄化されます。
 仏はそのために法華経をお説きになり、この経は一切衆生の病を癒す「是好良薬(ぜこうろうやく)」なりと、末代の私どもに遣わされました。
 私どもはこの「是好良薬の妙法」を戴くことによって生命を浄化し心身ともに健全のとなり、自己の本分に生きる人生を送ることができるのであります。
 真の幸福はここにあると信ずるものであります。


                            合 掌

宝塔第358号(平成21年11月1日発行)