「宝塔」第360号
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挨拶は人と人とのふれ合いに
         大切なものである

 近頃は挨拶の出来ない人が増えてきたようです。中学生、高校生ともなると反抗心、恥ずかしさも手伝ってなかなか言い難いのかも知れませんが、社会に関わる以上は挨拶は欠かせないものであります。子供の場合はまだ未熟と考えればすむこともあります。しかし、大の大人が出来ないとなれば、これは問題です。
 挨拶が出来ない人が増えてきたということは人間関係が希薄になってきたことを意味すると同時に孤独、寂しさの中で生きていかなければならない人たちがますます増えて行くことをも予測されます。長い人生の中、誰にも出会うことなく生きているという人がこの世にいるでしょうか。いくら私たちが自分の収入で生活し、誰にも関係なく、迷惑をかけず一人で生きていると自信を持って広言したところで、それは嘘を吐いているに過ぎません。
 人は何らかの人たちとの関わりのなかで生かされているのであり、一人で生きているのではないのです。それを自覚する必要があります。実際にそれが理解できれば自然と挨拶も身に付いたものとなると考えられますが、それが出来なくなってきているという状況は動かなくなった機械のうようにどこか歯車に狂いが生じてきたのでしょうか。
 挨拶の出来ない子供が育つということは、学校の責任ではありません。やはり中心となるのは家庭です。家族で心を通じ合わせ、ケジメのある環境(バランスのとれた家庭)には、必ず良い挨拶も生まれるものです。
 人間は不安や恐怖に対しては非常に反応的であり、今自分の置かれた環境で心が安定せず恐いと感じたとするなら、それを改善しようとする人と、そこから逃げ出そうとする人が出てきます。そこで、もしあなたが突然ジャングルに取り残された事を考えてみて下さい。あなたならどうしますか。その場から逃げ出したいと思うかそれともそこに留まるか。ターザンでない限り大部分の人が逃げ出したいという気持ちが湧いてこないでしょうか。それは恐ろしく何が何だか分からない状態であるからです。安心とは心の落着きとも言えます。この状態であれば正しい判断も自然と湧いてきますが、不安の中にあってはどうしても判断も間違ったものになりがちです。
 昔から偉大な宗教家・思想家・科学者などは落ち着きの中にあって素晴らしいヒントを得ています。不安の中に
あっては心が散漫となりそれこそ間違った考え、行動を起こしかねません。
 ジャングルの中というのは現実的ではありませんが、これは私たちの日常の生活を通しても言えることであります。家族からはじまり家から一歩外へ出ると様々な人に出会います。あの人にも会ったこの人にも会ったと言えるのが当たり前でそこには安心を感じさせます。しかし、これが誰も知らない人となると話が違ってきます。前述の通り、人は知らないこと分からないことに不安を覚えますから、もし会う人すべてが知らない人、分からない人となるとそれは恐ろしいものとなるのではないでしょうか。頼る者のいない外国人労働者に似ていると思いますが、その辛さが分かるような気がしてきます。お互いに知り合う(理解し合う)ことがどんなに安心感を与えることか。
 すべての人を知ることは不可能です。しかしそれがこの世を平和な世界に導くものであるとするなら、その理想に向かって進んで行くことは大切なことであると思います。そしてその第一歩が挨拶ではないでしょうか。
 こんな実験をされた方がいます。一日だけその日を挨拶もしない何も話さないという日にしたそうです。
 どんな事になったでしょう。彼に対する印象で一番多かったのは ”今日あなたはおかしい” というものであり具体的に言われた中には ”あなたは怒っているのか、夫婦ゲンカでもしたのか、嫌な人” などと否定的な印象が多く、それに加え返答のない寂しさを感じたそうです。
 彼自身はどうであったかというと、たった一日だけの実験とはいえ人にものの言えない寂しさ、孤独を感じたそうです。毎日何気なく言っている挨拶や言葉が自他共に大きな影響を与えていることが解かります。人間は社会的な動物であると聞きますがまさしくその通りなのでありましょう。
 人と会い、「こんにちは」と言う。これ一つを取ってもこの人は挨拶の出来る人だと感じさせる時、対する者に安心感を与えます。
 多くの人はお化けと聞くと恐がりますが、実際にお化けを見てもそれが挨拶でもするなら、恐いお化けなどいなくなります。却って親しみを感じてくるのではないでしょうか。「こんにちは」一つでも不安を取り除く一つの材料と言えるのです。しかしこれも悪用されては困りますが、一時期マルチ商法と言い、お年寄りを甘い言葉でだます手口の商売がありました。これは因果を知らない邪見な人たちの行いで彼らの言葉には大きな誤りがあり当然の報いとしてその罰を受けました。汚れた心から出た言葉は汚れ、行いもまた汚れたものになっていきます。

☆「もろもろの物事(法)は意が先に立ち、意が最上なものであり、意より成る。人はもし汚れた意で語り、あるいは「汚れた意で」行うならば、それより、かれに苦悩のしたがい来ること、あたかも車輌が索獣の足にしたがうようなものである。」(法句経一)

 挨拶好きのおばあさんがこんな話をされました。
 電車の駅での出来事です。「私は老いぼれですから、電車で遠いところまで乗せてもらえることがうれしくてたまりません。電車から降りる時にはありがとうございますとお礼を言います。恥ずかしい気持ちなどはなく、お礼の言える口があることにも感謝しています。駅員さんは駅員さんで毎日改札口で一生懸命働いている姿を見ると挨拶せずにはおられません。先日私は八時頃の電車に乗る用事が出来まして間に合うように駅に向かいました。ところが途中で遅れて発車時間ギリギリになってしまいました。その時自動販売機は使えませんでしたので慌てて窓口まで走っていきました。すると窓口には人が並んでおりその人たちの後では電車に間に合いそうにもないのです。心臓も鳴り、どうしていいのか分からなくなってしまった時、いつも改札口でお互いニコニコと挨拶を交わす駅員さんが私のことを察して、電車に間に合うように取り計らって下さり、無事にその電車に乗ることが出来ました。あんな喜べたことはありません。小さな私が列に並んでおっては分からなかったと思いますがそれを助けて下さったのですから、あの駅員さんが菩薩様に思えました。本当に有り難いことです」
 きっとこのおばあさんは日頃から欠かさない感謝の心で挨拶をされているお蔭で、小さな体であっても駅員さんに見つけてもらえることができ誰よりも何とかしてあげようという心を起させたのでしょう。駅員さんといっても人間ですから無愛想な人より、ニコニコ笑って感謝してもらえれば嬉しいに決まっているのです。
  前述の法句経には対句があります。
☆「もろもろの物事(法)は意が先に立ち、意が最上なものであり、意より成る。人もしも清らかな意で語り、あるいは行うならば、それより、かれに楽しさのしたがい来ること、あたかも影が形に絶えずつきしたがうようなものである。」(法句経一)

 心を込める挨拶を誰もが疎かにします。しかし、これが私たちの理解を越え大きな働きをしています。一つの挨拶が喜びの元となる、信じられないかも知れませんが人に喜びと安心を与えることは、そのまま自分に喜びと安心を与えることに他ないのです。
 まずあなたから始めて下さい。清らかな意で始まったあなたの挨拶がどんどんと広がり、あなた自身を幸福に導きます。


                            合 掌

宝塔第360号(平成22年1月1日発行)