「宝塔」第370号
ホーム 上へ 交通のご案内 お問い合わせ先 大乗教の沿革 杉山辰子教祖 教祖聖地臥龍山 総本山散策 大乗教インド別院 Buddhist Temple 書籍のご案内 百周年記念事業 大乗教青年部 国際ボランティア会 iモード リンク 2014年行事案内 被災地支援

 

 

励みこそ不死の路 放逸は死の路なり 

 様々に戯(たわむ)れ 色を追い 酒をたしなみ 伎楽(ぎがく)を愛好し悪い人に親しみ 近づくなら 彼は怠惰になる
 
 楽なこと、楽しいこと、それらを人は望み求める、けれども、その道は堕落につながり、人を駄目にしてしまいます。努力・精進してこそ、人間として生まれてきた価値があるのです。
 しかし、それを分ろうとせず、苦の無い世界を追い、楽すること得することが幸いであるかのように、本来の立場を認めず、わきまえず、虚無的な毎日を送り、欲に流されることが、流行の先端であって今時の生き方だと考え違いをしている人が増殖しているように思えてなりません。
 新聞・テレビ・雑誌などで、最近の世の中の出来事を見てみると、その度に仏様の残された「末法の世の中」という言葉を思い出し、今より末を案じ、いぶかしく思えてくるのは、私ばかりではないはずです。
 「増殖」などという言葉を使ったのも、それは、もはや人間とは呼び難い、欲望ばかりの知恵なき生き物としか私の目に映らず、その蔓延するスピードも考慮に入れたからです。
 確かに、日本人は人真似が上手で好きな人種かもしれません。昼食のために、レストランへ行けば、ほとんど同じメニューの団体客が一つや二つありますし、喫茶店へ入れば、テーブル中コーヒーだらけなどという事も珍しくありません。
 又、買い物にデパートへ行けば行ったで、近くに居るお客から、「あなたが買うなら、私も一緒に買っておくわ」という声が聞こえてくるのも事実です。
 しかし、一度の食事や飲み物、或いは買い物ぐらいならともかく、生き方や考え方、しかも一生を左右する行動となれば話は別です。しかも、善なる良き行動ならば見習う価値もありましょうが、悪意に満ちた悪しき行動や親が見たり知ったら、嘆き悲しむ行動となれば、まったくの別ものであります。物事も簡単に考え過ぎていたり、軽く甘く見過ぎているのではないでしょうか。
 私は常々、苦があるからこそ、苦を乗り越えて行かなければならないからこそ、人間に生れて良かったと思っております。

 若し、天上に生まれ、及び人間に在れば、貧窮困苦(びんぐこんく)、愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(おんぞうえく)、是の如き等の種々(しゅじゅ)の諸苦(しょく)あり(法華経)

 人間界に生を受けた我々はもちろんのこと、たとえ、天上界(仏様の教えの中では、生きとし生けるものを十の世界に区別し、上から順に、仏界・菩薩(ぼさつ)界・縁覚(えんがく)界・声聞(しょうもん)界・天上(てんじょう)界・人間界・修羅(しゅら)界・畜生(ちくしょう)界・餓鬼(がき)界・地獄界としており、天上界は人間界より一つ上の世界ではあるが、天上界より地獄界は六道と言って、迷いの世界とされ、欲を離れることなく苦悩に付きまとわれ、決して安穏な生活が待ち受けているわけではなく、いつ何時地獄、餓鬼、畜生の三悪道に落ちるか解らないのであり、四聖と言われる声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界へと向けて、精進せねばならない世界のこと)に居る者も、多くの苦しみを味わいながら生きており、だからこそ、仏に成る為の精進が必要であり、努力した結果、訪れる苦しみの消滅と共に、自らの手によって苦しみを消滅していく喜びが実感できるのではないでしょうか。
 つまり、苦の無い世界が嬉しいのではなく、苦を消滅する自分の姿勢及び、その結果として得られる苦を消滅した自己の存在自体が満足感や嬉しいという感情をもたらすのです。
 喜びとは、決して欲望を満たすことではありません。又、苦しみから逃げることでもなければ、逃げ回ったところで逃げられることは出来ません。
 それは、自分自身から発せられる全エネルギーを、余すことなく、自分自身に与えられた現実(仏様の教えでは、過去世からの因果応報、自ら招いた過去の業、行いによる必然的な結果の到来)に対して、ぶつけることです。
 ぶつけるといっても、対決・対立するわけではありません。今、目の前にある現実も自分自身がつくり上げた自己の一部分であると受け入れることが重要です。
 例えば、自分の身体の一部、片手でも片足でも内臓でもよいのですが、病気に冒されていたとして、そんな苦しみは受けたくないから、そんな事は自分に関係ないから切り離して捨ててくれと、簡単に言ってのけられるでしょうか。もし、自分の身体の一部が苦しみのもとであったなら、その苦しみから逃げれば、それで済むというものではないでしょう。
 自分と他人、人間と物(衣・食・住・金など)といった区別をつけるからこそ、理解しにくくなるのですが、すべては目に見えぬ糸に結ばれており、どんな苦しみであっても自分の手や足と同様に、簡単に切れない逃げてはいけないものなのです。
 仮に、逃げて逃げ切れるものならば、確かに逃げる事も有効でしょう。しかし、それは絶対に有り得ません。それどころか、むしろ大きな苦しみへと増幅し、自らをより以上に悩ます基となり、ますます自分を不幸へと導いてしまいます。
 だからこそ、苦から逃げるのではなく、立ち向かう勇気を持ってほしいのですが、立ち向かうどころか世の中の流れは、むしろ逆で逃げるが勝ちといった方向へと向かっているようで、安楽な時間を持つことばかりが頭の中を支配しているように思えます。
 
 放逸(ほういつ)は死への路である
 
 お経に、無責任で、勝手気ままな生き方は死、すなわち破滅に通じる一本道であると説かれています。どうか、そんな生き方をしないでほしいと、事あるごとに私は念じております。
 いかなる生き方にも結果はやがて出ることでしょう。そして、もう一度やり直したいと思っても、時すでに遅く、その場から一刻とて後戻りすることはありません。だからこそ、やり直したいと思う前に、やり直してほしいのです。 
 苦しみから逃げていては何も解決しません。自分の勝手気ままな生活からは破滅が生まれるだけです。楽なこと、楽しいことを望んでばかりいては、自分を駄目にしてしまいます。だから、努力して精進して、自分の生まれてきた本当の価値を見出してほしいのです。

                            合 掌

宝塔第370号(平成22年11月1日発行)