「宝塔」第371号
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人の生きる三世間

 世の中でいちばん貴いものは何でしょうか。それは自分です。いちばん愛しいものは何でしょうか。それは自分です。私どもは自己という一つの世界をもって生活しています。それは自分で作り上げる、掛け替えのないものです。これを「五蘊世間(ごうんせけん)」といいます。
 仏曰く、「心は巧みな絵師のごとく種々の五蘊(ごうん)を作る」。
 無智の人は、貪欲(とんよく)や愚痴(ぐち)によってこの五蘊を汚し、或いは憎しみや怒りによって傷つけ、妄想(もうぞう)、邪見(じゃけん)によって暗黒化しています。
 自分の中には、光と喜びの世界、愛と安らぎの世界を生み出す力が具わっているのですが、これを発動させる道を知らぬ人が多いのです。

 仏曰く、「心に従わず、心の主となれ。迷いて地獄に行くも、悟りて極楽に行くも、みなこの心の仕業である」。
 私共が「心の主」となって、喜びに満ちた安楽の世界を作るために、仏は妙法を説き示されたのであります。「人間とは社会的存在である」と言われるように、私共は無辺の人々とのつながりの中で生活しています。これを「衆生世間(しゅじょうせけん)」と言います。
 知っている人、知らない人、種々雑多の人々と共に生きています。好きな人もあり、嫌いな人もあり、プラスになる人もあり、マイナスになる人もあります。とかく私共は我見(がけん)の利害、好き嫌いに捕らわれて、人を差別していることが多いのです。
 自分は自分、他人は他人で、同じものでないことは分かりきったことですが、自分も他人も共通の命をもっていることを覚らねばなりません。同じ大地の上に、共通の空気を吸って生きているのです。
 人々は皆、それぞれの仕事をしながら、互いに助け合って、共存共生の生活をしています。それは、自分を認めるように他人を認め、自分を愛するように他人を愛する道であります。
 ひとを悩ませたり、苦しめたりしない、ひとを憎んだり、怨んだり、害したりしない。
 常に、真心をもって人に接していくのが「衆生世間」の道であります。
 教祖曰く、「おのが身を思うがごとく いつわらぬ誠をつくせ ことのよろずに」。
 我身が貴いように、相手もまた貴いのです。軽蔑の心や、敵対の心をもって接するのは、正しい道ではありません。常に平等の心、思いやりの心をもって接することを忘れてはなりません。
 自分の住んでいる世の中を明るく、楽しいものにしたいということは、誰しも望むところでしょう。勿論、種々雑多の人々の集まりですから、理想通りにはいきませんが、せめて自分の生活範囲は、楽しいものにしていきたいものです。
 人はみな因縁によって集まると言います。自分が誠を守っていけば、誠のある人と良き縁ができるでしょう。
 こころ驕慢(きょうまん)の人には、諂曲(てんごく)の人が寄ってきます。貪欲(とんよく)多き人には、餓鬼心の人が寄ってきます。愚痴(ぐち)多き人には不平不満の人が寄ってきます。
 仏の教えを喜び行う人には、信仰心のふかい人が寄ってきます。互いに善知識となって、希望に満ちた明るい「衆生世間」をつくることができます。
 
 大自然の生命活動は、無量無辺の生命を創造いたしました。
 原始宇宙のエネルギーは、ほとんど光であるといわれます。その光の海の中から天体が発生し、数十億年を経て、生物が発生しました。
 空気、気温、水、食物等、自然の環境が調って、生物は存在することができています。
 人間は、草木や動物と同じように、自然によって作りあげられ、草木や動物と共々に生存をつづけています。この生存の場を「国土世間(こくどせけん)」と言います。
 今、この生存の場に危険な兆候が現れています。目先の快楽を追求してやまぬ人間の浅知恵が、心なき科学文明を発達させ、その排泄する毒素が、海を汚し、大地を汚し、空をよごしています。
 人類は自ら生存の場を破壊するほど愚かではないと信じますが、今日、私共はもっと自然の恩恵に感謝し、美しい「国土世間」を守っていきたいものであります。
 私共の人生は、「五蘊」と「衆生」と「国土」との三つの世間の上に成り立っています。故に
  ○私共が生存させてもらっている此の国土を傷つけたり損なうことのないよう、大切に守りましょう。
  ○私共が寄り集まって暮らしているこの世の中を、不  正や、憎悪や、争いで濁すことのないよう、思いやりの心を大切にしましょう。
  ○邪見を抱いて貪欲・瞋恚(しんい)の罪を造り、自分の生命を汚辱(おじょく)することのないよう、仏の教えを大切に守りましょう。

三つの法

 今も「万事金の世の中」という考え方がはびこって、倫理を大切にする心が失われています。倫理は人の守るべき道で、人体で言えば血管のようなものです。
 倫理を軽侮する社会は、人と人との交流に障害が生じて、あたかも血管が梗塞(こうそく)弱化したような症状をおこすことになります。即ち「不倫は亡国の兆し」と言われています。 世の中が守るべき道のことを「世法」と言います。
 世の中を暗くしたり、住みにくくしたりすることのないように、あるいは争い合いや、傷つけ合うことのないように、少しでも住みよい世の中にするために、お互いが自発的に守るべき法が世法であります。
 それは昔の人の言葉で言えば、「おてんとうさまに恥ずかしくない行い」であり、「旅は道連れ 世はなさけ」という心構えであります。
 身近なところでは「おはようございます」「こんにちは」の挨拶、食事の時の「頂きます」「ごちそうさま」の礼から始まり、「我も人、彼も人」という平等観に立って、互いに助け合い、他に迷惑をかけたり、害を与えたりしないように心掛けます。
 この世間法を破り、悪事をはたらく者には、他律的な「国法」が設けられています。国法は、時の体制に応じて作られますから、時代によって変わっていきます。
 なかには法の裏をくぐる悪智に長けた者もおります。或いは法に触れなければ、何をやってもよいという、自らの良心を裏切る者もいます。「免れて恥なし」と言いますが、昔の日本人は自ら「恥を知る」ことを大切に考えました。今は厚顔無恥(こうがんむち)の人が多いようです。
 楠正成の旗印に「非理法権天(ひりほうけんてん)」という五字がしるされています。
 道理に合わないことは、世の中に通用しません。無理をすれば破綻(はたん)が来ます。
 いくら道理にかなったことでも、法律に抵触すれば通用しません。悪法がいかに人々を苦しめたかは、歴史で見るとおりです。
 また、いくら国法で定めても、独裁者や権力者には通用しません。彼らは平気で法を曲げてしまいます。
 しかし、法を破り、曲げることは出来ても、その行為は消し去ることは出来ません。自らの悪を内心恥じることもあるでしょう。世間の眼は、その行為を憎むでしょう。そして、その業の報いは必ず現れてきます。
 例えば法の網をくぐり、世間の眼をごまかすことは出来ても、因果の法を免れることは出来ません。即ち、人みな平等に受けているのが「仏法」であります。
 人は本来、悪を嫌い、善を喜ぶものであります。即ち善因善果、悪因悪果の法は、何人と言えども等しくこれを受けているのであります。このことをよく覚って、悪を離れて善因を行ずるように、常に仏の教えを喜び、学んでいかれるようお勧めするものであります。

                            合 掌

宝塔第371号(平成22年12月1日発行)