「宝塔」第372号
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本性は善か悪か

 日々のニュースの中に、犯罪の事件がよくあります。悪徳商法に詐欺や恐喝、贈収賄、あるいは強盗、殺人など、どうしてこんな悪いことをするのかと、暗然たる思いに打たれることがあると思います。
 ホッブスは「人間は、人間にとって狼である」と言っています。被害を受けた者からみれば、人間は狼のごとき存在でしょう。いや、人間は猛獣以上に恐ろしいものでありましょう。
 古来、中国の諺に「苛政(かせい)は虎(とら)よりも猛(たけ)し」とあります。
 孔子が泰山(たいざん)の辺りを通ると、墓場で激しく泣いている女がいました。訳を聞くと、女は、
 「前に舅が虎に殺され、次に夫も殺されました。今度は息子がまた虎に命をとられてしまいました」
 と言うと、孔子が、
 「それほど虎の害があるのに、なぜ他の地方へ引っ越さないのか」
 と尋ねました。女は、
 「それでも、この地方では苛酷な税金は取られませんので」
 と答えたとのこと。
 孔子は弟子たちに言いました。
 「苛酷な政治は虎よりも恐ろしい」と。
 
 しかし、人間は善いことをする人も少なくありません。ボランティア活動に従って、弱者、病人、老人などを助ける人、開発途上国の窮乏(きゅうぼう)を救うために働く人、各分野で社会に貢献している人も多々あります。
 十数年前の冬、アメリカで航空機事故で乗客たちが河に転落し、救助艇に救われようとした男性が、背後に溺れかかっている女性を見るや、その女性を先に救わせ、そのため自分は力尽きて水中に没し去ったという報道を読んだことがあります。
 我が身を捨てて人の命を救う尊い行為は、人間の持つ善の本性の現れとして、深く感動いたしました。「人間は、人間にとって神である」とフォイエルバッハは言っています。
 人間の本性は善でしょうか。悪でしょうか。これは数千年前から論議されたことで、人間の天性は善良であるという性善説と、いや人間は目を離せば、何をするか分からないから、罰を作って規制せねばならないという性悪説とがあります。
 西洋の宗教は性悪説に立っています。人間は神の命令に背いたという原罪を負っている。その救いは、神の定めた戒律に従う以外にないという考え方です。その戒律に背く者は罰せられることになります。
 西洋人は、日本人には宗教がないと言いますが、日本人の宗教の中心は、神ではなくて、人間であります。西洋のように、人間を支配したり、刑罰を与える神はおりません。日本の神は命令を出しても、人間中心の命令です。人間性を無視する信仰はありません。それは西洋と違って、性善説という基本観念があるからです。
 大乗仏教が日本で発展したのは、それが人間を中心とした教えだからです。人間とは本来、尊い仏性があるという基本的な考え方に立っているからです。西洋のようにラビ法典とか、シャリア法典とかいうような、人間の生活方法を規定する律法はありません。ただ守るべき真理の道が示され、人々はそれぞれの生活方法を持ちながら、その真理に背かないように努力してゆくだけであります。
 西洋の諸宗教が非寛容で、排他的なのは、真理とはなんら関係のない律法主義に禍(わざわい)されていると言えましょう。日本の古くからの諺に「旅は道づれ 世はなさけ」とか、「渡る世間に鬼はない」とか、人間の善意を表現したものが数多くあります。
 近頃は「渡る世間は鬼ばかり」とか「人を見たら泥棒と思え」などという悪い見方がまかり通っています。昔の日本の家は、ふすま一枚の座敷で、出入りは自由、夏は開けっ放し、田舎などは戸口に錠も掛けていません。このごろは洋式で、家の中にそれぞれ個室があって、鍵が掛かり、勝手に出入りは出来ません。昔の商店の銭箱は、今は皆レジスターで、一銭もごまかしの出来ないように仕組まれています。
 性悪説の世の中では、いつも他人を警戒していなくてはなりません。アメリカなどでは、見ず知らずの家を訪ねますと、拳銃を向けられることにもなりかねません。交通事故のときには「I am sorry」などと絶対に言ってはいけません。相手の善意を期待してはいけません。どこまでも相手を悪者にしてゆかねばならないということです。
 だんだん素直に謝らない人間がふえてきます。潔く責任を負うことはしない。検事が法律をたてに罪に落とそうとすると、被告も法律をひねくり回して罪を逃れようとする。法律があって、人間の良心が消えてしまったような世相も見られます。
 形に現わすことはなくても、自己の内部に悪心のあることは、誰も否定できないでしょう。財を見て貪欲(とんよく)の心をおこすとき、行為に現わさないけれども、心で偸盗(ちゅうとう)の罪をつくります。異性を見て色情の想いをおこすとき、心では姦淫(かんいん)の罪をつくっています。瞋恚(しんい)や憎悪のきわまるとき、殺意のひらめくこともあります。
 心の内部に入って見ますと、自己嫌悪を感ずるような悪心のあることを気づかざるを得ません。
 親鸞上人は自ら「愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して・・・」と、人間の持つ煩悩の深さを嘆じられています。「虚仮不実(こけふじつ)のわが身にて、清浄の心もさらになし。・・ 悪性さらにやめがたく、こころは蛇蝎(だかつ;”へびさそり”の意)の如くなり」
 真宗の説くところによれば、人間は罪業深重(ざいごうじんじゅう)、煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の悪人であります。
 しかし、煩悩の多きに悩み、罪障の重きに戦慄することのできるのは、自らに良き心があればこそです。仏の光に照らされて、己が心の闇を知ることは、つまり自分の心の中に、仏の光を受ける力があるからです。 釈尊は成道せられたとき「奇なるかな、一切衆生は如来の智慧徳相を具す」と仰せられたと伝えられています。
 たしかに人間は煩悩が多く、さまざまの過ちを犯し、迷妄(めいもう)の中に造罪の業を重ねています。しかし、その本心は「如来の智慧徳相を具」しているのであります。立派な仏性をもっているのです。このことは如来の知見であって、凡夫の計り知るところではありません。
 仏がこの世に出現されたのは、ひとえに人間が仏性を具えていることを開示(かいじ)して、人々を仏道に悟入(ごにゅう)せしめるためであります。
 今日、末法悪世と言われる時代は、人々の貪欲が盛んになり、優勝劣敗の争いが激しく、道義心は薄れ、不信の毒素が拡がっています。
 仏はこの末法の世を予見して、人々の苦悩を救うために、地涌の菩薩を用意されたのであります。地涌(じゆ)の菩薩は大地の中から現われて、法華経を説き広めます。これは何かと申しますと、人間の心の奥底に潜んでいる仏性(根本善)を開発するということです。
 「仏種(ぶっしゅ)は縁に従って起こる」(方便品) 
 と示されているように、今日最も大切なことは、人間が本性として等しく持っている仏性を育てて成長させることであります。
 それは法華経という尊い縁によって実現されることであり、このことが自らを含めて人間全体の幸福に通ずる道であることは疑いないところであります。

                            合 掌

宝塔第372号(平成23年1月1日発行)