「宝塔」第243号
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 徳の船

 私たちは前世からの多くの業を背負っています。悪い業を背負っている人は苦労がついてまわり、良い業を持っている人は幸せがついてまわります。
 しかし、どんな悪い業を背負っていても絶望してはいけません。それはその人のふれる縁によって運命が良くなるからであります。

 逆に、良い業を持っている人でも悪縁にふれ続けて、悪業を重ねたら運命は悪くなります。自分の背負っている良い業と悪い業をしっかりと見極めることが大切です。

 『他人の罪は見易く 己の罪は見難い
   愚者は 他人の罪を吹聴し 己の罪をかくす

 『愚を悟った愚者は 賢者なり
   自らの愚を知らない愚者こそ 真の愚者なり

 仏はこのように教えて下さいます。他人の姿を見て、己の鏡として我が振りを改めて、徳の器を大きくしていくことが寛容です。

 ある時、お釈迦様が多くのお弟子を連れて、大きな池のほとりに立ち止まられて小石を拾って、弟子に、

 「この小石を池に投げると、石は浮かぶか沈むか」

と尋ねられました。

 「お釈迦様、投げた小石は沈みます」と答えました。

 「では、こぶし大の石はどうか」と尋ねられますと、

弟子たちは、

 「お釈迦様、小石でさえ沈むのですから、それ以上大 きな石であれば当然沈みます」

と答えました。

 「そうか、ではもっと大きな人間くらいの重さの石は 沈むか浮かぶか」

と尋ねられますと、弟子たちは、

 「当然沈みます」と答えました。

 そこでお釈迦様は、弟子たちに向かって、

 「そうであろう、それが因果である。けれどもその沈む因果を持っている小石も、大きな石も、大きさに合わせてそれを浮かべる船の上に乗せれば浮かぶことが出来る。その船が縁である」

と言っておられます。

 私たちも教えを聞いて、ただ因果のみに執着して恥ずかしく思ったり、みじめに思って苦しんだり、悲観する必要もなければ、自らを責める必要もありません。

 どんなに悪業の深い人でも、法という縁にふれ、教えを信じ実行することが出来れば徳が与えられます。その徳の力によって浮かび上がることが出来るのです。ちょうど重い石も船の上に乗せることによって、沈む因果が切れるように、悪い業によって受けなければならない人間の苦しみも徳の力によって、その悪因縁を消滅することが出来るのです。

 ある日、30代の男性が相談にみえました。

 「先生、私は指の先の爪と肉の間が切れて痛くて仕事が出来ません。なぜこんなことになるのでしょうか」

と言われるのです。世の中には不思議なこともあって、左手の白い包帯も痛々しく、その指は五本とも爪が肉からはがれるように反って伸びるので、指先が割れて血がにじんでいますので痛いのも当然でありました。

 この方に、いろいろと尋ねお話しさせて頂きました。

「あなたのお父さんは現在どこにいらっしゃいますか」

 「はい、父は5年前に亡くなりました。父は若い時から仕事嫌いの大酒飲みで、とても良い父とは思えませんでした。母は15年前に亡くなりましたが、母の一生はこの世に苦しみを背負って来た女とでも言いたくなるほど可哀相な運命で、1日として楽しい日はなく苦しみの連続でした。病気になっても充分な手当ても受けることもなく死んでしまいましたが、今から思えば父が殺したようなものです。
 その後の私は父を捨てて、立派な人間になって父親を見返してやろうと決心して家を出ましたが、親の出来が悪ければ世間の目も冷たく、転々と職を変えて、今になってやっと落ち着いたと思ったら、手がこんな状態になって仕事も出来ません」

 「ご主人、あなたのお父さんはあなたが憎いからお酒を飲んだのでしょうか、誠に身勝手で乱暴な世渡りをする父ではあったが、子供は可愛かったと思います。
 仏様の教えによりますと、すべての人はその人の徳と罪の支配を受けてこの世に生かされている、と言われていますから、親を憎んで来た罪によって、あなたの指先が割れて痛み続けて仕事も出来ない手になってしまったのです。
 お父さんはわがまま放題の一生であった、その罪によって妻からも子供からも嫌われて死んで行かれたのです。そんなお父さんでも、きっと今はその手を見て悲しんでおられることでしょう。
 仏様の言葉に、親は親たらずとも子は子の道を渡れとあります。親孝行をしなければならないと知っていてもどうにもならない父親であったから親を憎んでしまったそれは親子縁の悪い自分の不徳であったと悟るのが仏教です。
 子供の出来が悪いと言って叱る親がありますが、こんな場合、叱る親に徳がないと悟るのも仏教です。大切な親です。親を憎み、親を悪く思い続けて来たことが悪かったと懺悔して、我が身の不徳を知り徳を積むことです。今日この縁にふれて罪の消滅が出来なければあなたの子供さんの将来も望めません。
 もしこのご法を信じて実行されたなら、この先何年か経って、あの時この手が痛まなかったら、この幸せは無かった、と我が子によって喜べる日が来るでしょう。
 仕事は出来なくても、その手で人様を拝ませてもらうことは出来ます。今日から縁ある人を拝ませてもらいなさい。
 父を憎み世間を悪く見て、自分の幸福だけを求めて来たから、一つも良い結果は得られなかったのです。今日から人様の喜ぶことに、この手を使ってこそ、この手の傷も癒え、喜びの生活が得られると信じて実行することです」

 「先生、よくわかりました。私は大きな考え違いをしていました。一生懸命やってみます」

 それから半年も経ったある日のこと、完全に治って喜んでお礼に来られました。

 常識では考えられない病気になって、常識では考えられない仏様の悟りを身につけたこの人は、教えの尊さを世に知らしめる為、仏のお使い役として不幸な境涯を乗り切られた方とも言えます。

 人間として生まれた限りは、食うことだけに汲々としたり、自分の欲望を満たす為だけの生活では、飼われている犬や猫より劣るのです。

 人間なればこそ久しぶりに会った人とも共に歓び合うことも出来て、色々と楽しく思い出を語り合うことも出来るのです。また、考える力を持っていますから、新しい物を創り出す喜びもあるのです。動物は破壊することはあっても創り出す力はありません。

 人間としてこの世に生を受け仏法を得て、人様のお役に立って生きようとする人は国の宝であります。

 自分以外を護ることによってのみ、自分は護られる資格が得られます。

 徳の船の上に自らを置くこと、自ら徳の船の上へ乗る道を教えてくれたのが仏法です。
 人間としてこの世に生を受け、仏法に縁を得たことに感謝すること。そして、役立って生きて行くことです。
 知恩・報恩の生活をお願いします。

合掌

宝塔第243号(平成12年4月1日発行)