「宝塔」第341号
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忍とは認めること

  私たちの住んでいるこの世界(娑婆(しゃば)世界)を忍土(にんど)と呼ぶことがあります。
 耐え忍ぶ世界、苦しみを受けながらも悲しみを感じても、その怒りやつらさをただじっと我慢するだけの世界忍土とは、そうした辛抱(しんぼう)なしには成り立たない世界のように思えます。
 確かに、この世界にはありとあらゆる苦しみが存在し毎日のように私たちを責めたてています。
 ときには逃げだしたくなるような、自ら好んで死んでしまいたいと思うような苦しみさえあります。
 しかも、苦悩と言われる通り、苦しみには悩みがつきもので、難しい迷路でも彷徨(さまよ)うように、先のことは何も見えない不安と恐怖が全身を身動き出来ぬようにするのです。
 病気であれ、家庭不和であれ本人にしてみればこの世で最悪の、誰でも体験したことのない苦しみに思えてならないでしょう。また、物への執着から生じる苦しみも同じことです。
 釈尊の説かれた教えの一つ『法華経』の中に「火宅の比喩(ひゆ)」があります。

 ある町に住む長者の家が突然、火事になり長者はいち早く飛び出しますが、あたり一面火の海と化した家の中では自分の愛する子供たちが、火事に気付くことなく遊びに熱中しています。
 子供たちは自分の身に迫り来る危険に気付かないので避難する気もなく、父である長者が
 「危ないから早く家を出て私のところへ来なさい」
と声を嗄(か)らして叫んでも、子供たちはいっこうに気に留めようとはしませんでした。
 それも仕方のないことでしょう。子供たちは父の注意している火事とか、家が燃えているとか、死んでしまうといった言葉の意味をまるで知らないのです。ただ家の中を走りまわり遊んでいるだけでした。
 
 これは火宅の喩(たとえ)の一部分ですが、釈尊はこの火事が私たちの直面する苦悩であり、遊びに熱中している子供が私たち自身であると教えているのです。
 遊びは欲望であり、それを求め続けるかぎり火事という苦悩から逃れるすべはありません。
 もし仮に、遊びという欲望が無ければ熱中もせず家が大変な事態であることに容易に気付き、身の危険を察知できたでしょうが、真の喜びを理解できない私たちは欲望に負け目先にとらわれてしまうのです。
 満足感と引換えに、いや満足したいと思った時すでに苦悩が始まっているのかも知れません。

  薬草の生えるところ毒草あり

 ものに限って言えば、油で汚れたものを油から作られる石鹸で洗ってきれいにしています。
 身体に害を与えるはずの麻薬を手術の際に患者の苦痛を取り除く薬として使っています。
 不思議に思えますが、これが世の中の仕組みなのでしょう。
 文明の発達は火を発見したことから出発しますが、逆に火によって人類が滅びる可能性すらあるのです。「益あるものは必ず害あり」。これが人間の知恵であり、人間の欲なのでしょう。
 満足を得る為の行動が自然の営みに逆行し害をもたらす、そして満足が満足でなく当然のこととして受け止められるようになった時、私たちには害よりも恐ろしい苦悩が襲ってくるのです。
 挙げ句の果てに、愚痴・不平・不満が家庭不和などを招き、より大きな炎となって苦悩が燃え盛ります。
 事物にかかわらず、知識や所有が人々に満足を与える物差しであるからこそ、この世のもの全てが薬の副作用による毒となってしまうのです。
 もし、自然を尊重し自然のまま生き、それに喜びを感じ満足するならば、死をも恐れずに生きていけるのかもしれません。
 ただ自然でさえ人工的に作られる今となっては、後戻りも考えものです。
 原因と結果が必ずしも一本の線で結べないほど、縁の上にさらに縁が重なりあった油絵のような現代は、もはや私たちの力ではどうすることも出来ない末期的な状態にあるのかもしれません。
 仏教とは、もともと単純な苦しみへの思いが起点となっております。それは、生まれ・老い・病み・死する、といった時間との戦いであり、愛する人との別れ、憎む者との出会い、欲するままに得られない現実、そして、満足の状態から起こる不安という人対人・人対物の簡単な図式からなるかかわり合いの不均衡がもとでありました。
 しかし、今はそれだけで片付けられない矛盾と複雑な社会的関係・家庭内の環境が現代人を異常な病人に仕立てあげようとしているのです。
 それは機械に使われる人間の反動からくるのか、多忙すぎて精神的に麻痺するのか分かりませんが、確実に人間関係を冷却化し、親子間や師弟関係ですら自分以外に信じられるものはないといった風潮が目につきます。 
 そして、誰もかれもが被害者であり同時に加害者であるといった、誠に奇妙な現象が起こりつつあるのです。まるで絡み合った糸のようで、単純な因果関係は成立しないのではないでしょうか。
 つまり、目の前にある現実を無視して通れるほど安易な状態ではなく、そこに現れる苦しみとて一つだけの原因を解決すれば、たちどころに消え失せるものではないと、私は考えるのです。
 そこで、冒頭に記した忍土という言葉を思い出して頂きたいのです。
 忍は「認」と同じだとする思想があり、この世界を耐え忍ぶのではなく、苦しみを苦として認め、その苦しみから学ぶことこそ今となっては大切なのです。
 現実を認めることによって、その時その時に必要で適切な行動をとるのが認であって忍なのです。
 忍を我慢することではなく、待つことであり、その間考える時間を作り出すことであり、次の行動に移せる機会とすることが、「煩悩即菩提」といわれるとおり、欲望が幸福をもたらす原点ではないかと考えるのです。
 幸せを願う気持ちは皆同じだと思います。しかし、得ることが幸せだと考えるのは大きな誤りです。物も寿命も永遠に無限ならば、それも良いかもしれませんが、残念ながら物は有限であり消失してしまうことさえある、寿命にしても自分が得た歳月分だけは残りが少なくなっているのです。
 私たちは、限られた中でしか生きていくことを許されていないのです。
 ならば、得ることよりも選ぶことの方が余程重大であると認識しなければなりません。
 今現在、自分の置かれている位置・立場を確認しつつ事実は事実として認め、明日の為に備えて努力を惜しまぬことが大切なのです。
                                            合掌

宝塔第341号(平成20年6月1日発行)