「宝塔」第345号
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尊い命を頂いて

 夏、蝉の寿命は地中を這い出て、最後の成虫となっている期間が一週間と言われます。私たちの耳に必ず聞こえてくる蝉の声は、その蝉自身が数多くの因縁をくぐり抜けてきた結果と言えます。ところが、今年こんな姿を見ました。
 筆者の教会外側、玄関横には水道の蛇口があります。そこには流れる水道水の受け皿がありませんから、代わりに発泡スチロールの受け皿が置いてあり、その中には絶えず八分目位に水が入っています。その為かこの夏、ボウフラが湧き家族を困らせたものです。
 ある朝のこと、その受け皿の中をながめると、水の底に蝉の幼虫が死んでいました。それは人の足につぶされたものでも、猫に殺られたものでもありません、溺死です。蝉は、幼虫が地中から這い出た時には登るべき木があり、その枝、あるいは葉にしがみつきながら脱皮していきますが、この溺死した蝉の幼虫は登るべき木が発泡スチロールの容器となっていたのでしょう。登りつめたと同時に水の中に落ちてしまい、今夏、その夏を知らせるために備わった天分を全うすることが出来なかったようです。蝉の短い一生を思いますと、とても寂しく、哀れを感じました。夏場、必ず聞こえてくる蝉の声は、多くの同類の苦難を眺めて生き残ったものだけが、あの一声を発することができるのです。あの鳴き声には、自らを全うできる喜びと同時に、同じように鳴けなかったものへの鎮魂の鳴き声でもあるのでしょうか。
 人がこの世に命を頂くことも稀であります。日蓮上人はこんな言葉を残されました。
  
  『人身(にんしん)受け難し、爪上(そうじょう)の土』
  『人身持ち難し、草の上の露』
  
 人間の身に生まれることはとても難しい。それは爪の上にのる土のようなものである。そして命を持っていくことは難しい。それは草の葉にのる露のようなものであると。
 私が幼い頃、一つ上の男の子が近くの川で溺れ死にました。昨日まで一緒に遊んでいた子が、今日はもう会うことも話すこともできない。次の日の新聞(事件欄)の丸く写しだされた死んだ子の顔写真が、いつまでも目に焼きついています。もしあの時、近所に川がなかったら、気候がそんなに暑くなかったら、近くに泳ぎの得意な大人がいたのなら彼は助かったかも知れません。しかし、その因縁は満たされていませんでした。彼を救えるものはなかったのです。
 毎年日本人の平均寿命が発表されますが、世界一の長寿国となっています。では私は日本人でありますから、八十歳くらいまで生きることができるかというと、それはわかりません。この平均寿命を知る簡易生命表というものは、その年の死亡状況が今後も変化しないと仮定し年齢層ごとに平均してあと何年生きられるかを計算した表です。ですから零歳時の平均余命が〔平均寿命〕となるそうです。世界の中の日本が長寿国であることは日本人としてはとても嬉しいことであり、このまま長く続いていくことを望みますが、いざ各々個人でこれを考えてみますと、自分が長生きできると自分自身に太鼓判を押せる人が何人いるでしょうか。そんな判を押せる人は誰もいません。「四十歳寿命説」もでる世相です。一人一人の寿命を知るのは仏様だけでありましょう。
 今、受け難き人身を受け、持ち難き人身を持っているこの因縁に感謝せずにはいられないのです。
 ところで、折角頂いた命を無駄に過ごすのであれば寿命が長いといっても、その人生を満足させることはできません。法句経にはこんな言葉があります。
  
 「愚かなるものは牛のごとく老ゆ
  かれの肉はませども
  かれの智をますことなし」
  
 その日その日を享楽的(欲のままに他人を顧みることなく楽しみにふける)または怠惰(なすべきこともせず気力もなくして怠ける)に過ごす者は、喰っちゃ寝、喰っちゃ寝の牛のごとく、その肉は増えていくが、人としての本来あるべき姿(智慧を得ていく姿)からは遠く離れてしまう。
 定年退職をして、家でゴロゴロしている男性を見て、世の奥さま方が粗大ゴミから濡れ葉族といって久しいが、こんな言葉を流行らせないのが定年後の男性の課題です。若い時は仕事を持ち、仕事をすることで社会に貢献できる部分を持っています。しかし、定年になると暇を持て余し、怠惰な生活を送る場合が多くなりがちです。そこで人生死ぬまで勉強と言われる通り、人生一貫した志を持ち、常に新鮮な気持ちを持つことが大切です。以前、こんな作文が載っていました。

 津市の主婦(57)「夫の洋裁」
  
 ひょんなことから定年間近のご主人が、洋裁に夢中になり、象さんやウサギさんのついた布バック、孫娘にプレゼントするワンピースなどを縫いだしました。型紙からとり、裁断、仮縫い、ミシン縫い、洋裁の先生はこの奥さんです。ご主人、先生に縫い方を教えてもらう時はとても謙虚で素直であるそうです。そして、このミシンを扱い何かを作ることが楽しくてしょうがない、とても充実した時を過ごしているようです。この充実した時を過ごすご主人をながめ、この奥さんは時間の積極的な使い方を改めて教わり、ゆとりある生活の大切さを知ったとのことです。
 家庭内の和やかさが目に写るようです。何もやらなければそれで済むことです。しかし、何か一つ小さな事でも自分の楽しみと共に、人に喜び(人生の楽しさ)を知ってもらえるような行いを持つことが、智を得る姿であり、人生を満足させる秘訣ではないかと思います。

 『時と潮の満ち引きは人を待たない』
  
 時の流れと潮の干満は人を待ってはくれません。人の都合とは関わりなく過ぎていくものです。だから、時機を逃さず積極的に行動せよとなります。
 末法万年の世の中は、起こってくる事があまりにも複雑であって、どんな智慧ある人もその最終の因縁を理解できる人はいません。これは仏典に示すところです。いくら天才的な人間が千人万人と集まったところで、この大宇宙の不可思議を説明することはできないのです。
 もっと人間一人一人が謙虚になる必要があります。ややもすると自分は病気をしない。自分は年を取らない。自分は死なないとまで考えて、わがままな行動をしている人がいます。それは愚かな事であり、決して誉められるものではありません。人というものがどうなっていくものであり、また真理に外れること(人の道に外れること)がどういう結果をもたらすかを少しでも知って、それを身近な生活に活かして楽しい人生を渡っていきたいものです。
 あなたは地位を得ることができました。あなたは財産を得ることができました。それはあなたの努力の結果であり、とても素晴らしいことです。しかし、まだこの世に生かされている限り、求めなければならないものがあります。それはお金で買うことはできません。それは何でしょうか。その目標に到達することは甚だ遠い道のりを、自らの足で一歩一歩踏んで行く道であり、他人が代わりに歩んでくれるものではありません。それは徳の道、人を喜ばす、人を幸せにしていくという、仏さまより頂いた尊い道であります。どうか、その道に少しでも興味を持ち、今までとは一味違った人生の味わいをもって頂きたいものです。

      隣で苦しむ人を見て
      見過ごしできる人はなし
      何故であろうと尋ねれば
      人には仏性(ぶっしょう)ありと
      仏のたもう

                                                             合掌

宝塔第345号(平成20年10月1日発行)