「宝塔」第363号
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無 心 の 行

 よく『無心』と書いた色紙を見ることがある。無心とは何も考えない心かと思っていた頃もあったが、無心とは、一つの事に心を打ち込んで、その時は他の事に心を迷わさないことであると知った。人間はその時々にやらねばならない事に接した時、無心に成り切ることが最も役立って生きる事になるからだと解った。やらねばならない仕事はしていても、愚痴をこぼしたり、怒っていたのでは、仏つくって魂入れずで、身は入っていないから徳にはならない、その成した事が生きてないから、骨折り損のくたびれ儲けの結果で終わるのである。
 ここにこんな少年少女がいた。親に逆らい、家を飛び出し、人の迷惑も考えず、やりたい事を勝手にやり、髪は染める、シンナー等の遊びはやる。書いて行けばどこまでも原稿用紙が字で埋まって行くほど、ありとあらゆる世を拗(す)ねた生活をして来た若者たちがいた。
 この若者たちがふとした縁で結ばれたのが太鼓だった。この太鼓を打つ若者たちが世間の人々の眼に止まり、各方面で注目されている。それは彼らが無心で太鼓に心を打ち込んだからである。だから人の心を呼び起こし人の為に役立つ事が出来る様になったのである。
 覇気(はき)に満ちて存在感の強い、迫力のある人を、生命力の強い人と言う。彼らはまさにこの言葉通りの人生を今脇目もふらず進んでいる。やる気を出せばどの様な生活であっても出来る事である。幸福に溺れて、目的もなくぷくぷくと浮いたようで足も地についていない様な生活から少しでも早く抜け出して、大いに与えられた生命を強化してほしいものである。

 数々の華を集めて、美しき華鬘(はなかざり)を作るが如く、人はその生涯を多くの善行にて飾るべし

と教えられる。

 ある夫婦に子供が無かった。縁有って生まれてすぐの子を我が子として育てた。この夫婦の生活には色々な夢の花が咲いたことだろう。時には笑い、時には感謝し、時には泣き、子供の事で夫婦喧嘩があったかも知れない。それも皆生きる喜びであり、希望でもあっただろう。そうして二十余年、息子もお嫁さんを迎える事に成った時には早くもかわいい孫の顔も浮かんだことと思う。ところが息子たちは結婚と同時に別居した。しかも全然両親の所へは出入りをしない、親を無視した生活だと言うことだった。私はこの話をテレビで知った時、人ごととは思えないこの息子夫婦に対する怒りの様なものとやり切れない様な気持ちになった、その時この年老いた母親が、「それでも主人が言いました。二十余年間の長い年月、私達に育てる喜びと、夢を持たせてくれたのだから、これからは二人で、その夢を大切に生きて行こうよと言われて私たちは生きております」と語っていた。
 私はこの言葉を聞いた時、涙が出そうになった。何という美しい心だろう、素晴らしい、これこそ悟りの智慧である。私は何か自分が救われた様な気がしたのである。そうだ、どんな問題に接しても、常にこの様な考えで生きて行くことによって、心は安らかなのだと教えられたのである。
 人のお世話をした。不幸だった相手が幸福になって、始めは喜び感謝していたが、月日が過ぎるにしたがってその素直な心も薄れて、結果は裏切られる様なことになったとしても、お世話していた数年間は、役立つことが出来たのだから、それを自らが喜び感謝すれば宜しいのであって、裏切られたとか、感謝がないとか、そんなことはくだらんことである。くだらんことは持っていても利にはならないのだから早々に捨てることだ。だが人間はなかなかそれが出来ないで怒ったり、恨んだりするから先にお世話して積んだ徳まで消えてしまうことになるのである。
 私はこの老夫婦が今後も心安らかに過ごされる事を念じてやまない。

 言葉は言霊(ことだま)と言って、暗い言葉や毒のある言葉は、出せば出すほど地獄の世界をつくると言われているから、悪い言葉は心から捨てて、良い心の声を言葉にして生きて行こう。感謝や喜びの言葉は、幸運な世界を他の人にまで分け与えることが出来ると教えられているから頑張ろう。

 智力=事を善意に見る悟りの力
 行力=人の為に役立つ行動の力
 徳力=信頼と心豊かな生活の力

 本仏である大自然の生命は、常に我々を守護していて下さるのだから、守護されているうちに、智力・行力・徳力を養っておかねばならない。
             『見放されたら、おしまいだよ』

 人間には迷いがあり、欲がある。それは少々のものではない。だから時にふれて、善行に励まねばならない。それでこそ人間なのだ。目先の利害損得にとらわれて自己中心に事を図る。これを仏法では煩悩濁(ぼんのうじょく)と言って、最も汚い愚か者のする事だと言う。

 船水陽子ちゃん(当時十三歳の中学生)が、ベトナム・ホーチミン市の広場で、幼い男の子に出会った時の話である。
 服はボロボロだったが、笑顔が良かったと言う。
 メモ帳と鉛筆を出して、やろうとすると、この子の父親が言った。「 働かないと物は手に入らないと教えているから、気持ちだけは有り難う」と・・・。日本の親たちとはどこか何かが違うね。

 七五三のお祝いを料理屋さんでやった親がいた。子供はお色直しまでさせられたそうだ。親の曰(いわ)く、結婚式は何度も出来るが、七五三は一度だからと、何を考えているんだ、平和だ、幸福だ、恵まれている日本だと言う前に空恐ろしいものを感じるね。愚かな親に育つ子供が可哀相だよ。これは私の僻(ひが)みだろうか。

 一切の万物は無想(むそう)の働きによって存在している。無想とは大自然の本仏である。仏法を説き、仏法を流布しなければならない者が、無想の働きを知らず、お陰様を忘れて、欲望に迷いがちで、仏法を説くとは言語道断である。金だけが全てと貪(むさぼ)る愚かな親に育つ子供の様に、欲だけの仏法者に導かれる信徒は哀れである。

 人は皆・聡明なれど、無明にして不完全なるが故に外道に落ちると説かれる。
 聡明=知識 
 無明=悟りがない
 不完全=徳が積めず役立たず
 外道=己の知識に溺れて邪見に落ちて迷いが多い、 だがそれを正しいと思い込んでいるのだから始末が悪い。

 悟りの智恵を養い、無心に役立つ事に精を出せば常に心は安らかに、大福を得べしとある。

 嫌なことを聞いたら、すぐ人に話すと良いそうだ。言葉で話すという行為は、”離す”という意味も含まれているからだと言う。口で話して心の執着を離せということである。 一人でやる善行は小さい、だがやらねば小さな善行すら出来ない。一人の力は弱くても仲間を増やせば強い力になるように、善行も仲間を増やせば増やすほど、大きくなって、社会に役立つ幸せの仲間も増える。

 

                            合 掌

宝塔第363号(平成22年4月1日発行)