「宝塔」第374号
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生かして生きて生かされる

 「人間は、この宇宙の全てのものが生きているお陰で自分が生かされている事を忘却してはならない」と私は思う者である。
 人類・動物・魚貝類・昆虫類・山川草木(釈尊は山川草木ことごとく仏性ありと説いておられる)それら全てが息づいているお陰で自分個人も生きておれるのだから確かに大きな歓喜であり、無限の感謝をしても決して過ぎることはない。いやこの事実が分かれば分かるほど仏法に説かれている徳行、即ち人の為に役立って生きることの絶対性がよく理解して頂けると思う。
 いつだったか朝日新聞の「天声人語」に教えられる記事が出ていた。他の原稿に書いたかも知れないがもう一度書かしてもらうと、その書き出しは次の様である。

 秋晴れの一日、着古した白いワイシャツを染めることにした。食べる度に剥(む)いたタマネギの皮が山とある。鍋に入れた。赤く光る皮を煮出す。三十分もすると濃い紅茶さながらの色が出た。ざるでこす。澄みきっている。水に漬けておいたシャツを入れ、染めむらが出来ぬように、ゆっくりかき回す。どんな色になるかなと心おどる時だ。いつの間にか液体の色が薄くなる。色が引っ越しているのだ、やがて出来上がり。乾かして色名辞典で調べた。何と、ネーブルスイエロー。別名クチナシ色、明るくていい。中身は食べた。皮の色を着る。結構な気分である。自然の色と言えば染織の専門家、赤坂尚子さんから時々届く手紙が楽しみだ。「わたしの長崎自然色」と題して、羊毛がひとつまみ張ってある。毎回その色が違う。 「クサギ」 の水色。赤い核に包まれた青い実から採るという。 「ザボン」は薄いオレンジ色。「ビワ」の葉や小枝から赤茶色。「ムギ」の淡い黄色。ふかぶかと落ち着いた焦げ茶は「クスノキ」である。鮮やかさ、軽さ、柔らかさ、深さなどが、それぞれ大自然の豊かさを思い出させる。手紙の魅力はそれだけではない。
 尚子さんの短い文章が印刷されていて心を打つ。染織の仲間や友人たちにあてた随筆だ。尚子さんは原子爆弾の爆心地から一キロの所に住んでいた。九歳だった。祖母母親、妹が死に、父親ともう一人の妹と残された。被爆の後遺症に悩んだが取り立てて口にしなかった。二年前三十年ぶりに長崎に戻る往時の思い出がよみがえった。最後の日、出かける母を送ったのはザボンの木の下だった。ムギの粒をむいてほうばり、くちゃくちゃと一緒にかんだ友、かなちゃんも、あの日死んだ。「記憶のあるうちに自分の為にも話すべきことは話そうと思った」の手紙。焦土を新しい力でおおった自然の力を借りて、染め、紡ぎ、織る、紅葉の秋、こういう自然の色もあるという。

 このような自然色のことが出ていた。普通なら捨ててしまう様な物でも、その物は役に立つ力を持っていて、役に立とうとしているのだが、我々人間の側にその素質を生かす智慧が無く、行動力も無い為、時を無駄にし、運命も無駄にし、物の持つ力までも無駄にしているのではないだろうか。大自然から見れば愚かな姿である。
 その智慧を体験をもって教えて下さる方に私は心より敬意と喜びを抱くものであり、自らもこの様に多少にかかわらず、人の為に役立って生きて行きたいと念ずるものである。
 人が幸福に成りたいと思うならば、生活に気迫を込め生きよと教えられる。気迫を込めれば何事も学び取ろうとする意欲が充満する、そのやろうとする気迫がその人を成長させて行くのである。
 気迫も無く、意欲を燃やすことの出来ない人ほど、生活に愚痴不足が多いようである。こんな性の人は、幸福の方から遠のいて行くから、幸福の実りを知ることが出来ない。このような人も、実は恵まれているのだが、先の染め物の話ではないが、自分の現在の運命に存在している幸福を見つけ出す智慧が不足していて、時を無駄に過ごしているのである。
 “人生は網の目の如し”であると私は思う。一つの網の目は周囲との繋がりがあって、はじめてその存在がある。周囲との繋がりを切り離すと、一つの網の目の存在はない。
 .人もまた、周囲との繋がりがあって自分の存在がある、周囲を無視する者は自らを失うのであり、老後は孤独になるとも言われている。これに反して周囲を大切にする者は、自らの存在を明らかにして平穏無事な生活を過ごすことが出来るのである。
 現在のように自分さえ幸せならばと我まま勝手に理屈をつけて生活をする社会が出来上って行くと、近い将来において、必ず大自然の怒りを受けて、葬り去られなければならない時が来ると思えてならない。
 今こそ、釈尊の説かれた教えの心が人類に絶対必要な時であると確信して、心清らかに精進に励んでほしいと願わずにはおれない。

   病は気から、健康は無欲から

 子供は両親の人間性を正しくする為に生まれて来たのだ。父母が正しい考え方に戻れば、子供は自然に善くなっていく。子供は親の心の鏡である。このように教えられています。
 息子の暴力で家庭は地獄の恐怖を受けており助けてほしいと言う相談があった。子供の暴力は、親の人間性の改善によって治ると教えられているので、この話を持って来た婦人(暴力をふるう息子の父親の妹、息子から言えば叔母である)に言った。
 「この場合の私は先方へ行って強い説法をしますよ、その時あなたは黙っていて下さいよ」
 と注意して、この叔母である婦人の案内で先方の家に行った。
 玄関に立った時、髪を長く肩に届くほど伸ばして顔の色は青白く痩せていて眼ばかり異様に光っている男性に出会った。この人が問題の息子さんだとすぐ分かったので、部屋に通されるとさっそく息子さんの父親である御主人に来て頂いて、
 「頼りとする息子さんに期待をうらぎられた様な結果が来たという事は、貴方ご自身が親の期待を裏切る様な運命を歩いて来たのではありませんか」
 と過去を振り返ってみる事を勧めると、このご主人は不幸な運命の中に育っていた。亡き父親が自慢で期待された息子だったのだが、母に死なれ家族は離散して、このご主人も転々と親類の家をたらい回しに預けられて成長した。
 貧しい生活の惨(みじ)めさを身に沁みて知った者が誰しも望むものは出世であり経済に恵まれることである。このご主人も人々がたどる道を懸命に努力されたのである。父が淋しく北陸の寒村で息子(ご主人)の名を呼びながら(これは後年妹さんによって知らされた)亡くなった。その父に後年も心を寄せることもせず、ただ財の成長による幸福を追い求めて来たのである。その結果は先にも書いたように功成り名遂げることは出来たのだが、親に対する心を忘れていた為に、その空白が自分が何よりも心を寄せる息子さんによって現われたのである。
 次に奥さんに来て頂いて、「何か男性(父親かご主人)に対して不足な思いはありませんか」と尋ねてみると、六十歳を過ぎているこの奥さんが、私は主人に対して、結婚以来いまでも不足に思っています。変われるものなら変わりたいと言われた。仏法では、先ず己を知れと説かれているのだが、この御夫人の余りにも己を知らぬ言葉に、私はこの人が哀れに思えてならなかったので、その心得違いを諭(さと)した。
 父に対する心の疎遠と夫に対する不足な思いの間に生まれ育った息子さんである。私はこの息子さんの父親が亡き父に対する心の疎通がとけて、感謝、敬いに至った時、また母親が夫に対して素直に夫の生活力に喜びを見出した時に、息子さんの病気は治ると確信して、その様に説かせて頂いた。その結果ご両親の心のリズムが順調になった。

                            合 掌

宝塔第374号(平成23年3月1日発行)