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弘誓の深きこと海の如し

劫を歴とも思議せじ

多千億の仏に侍えて

清浄の願を発せり

  ―普門品―

 

一、 私は世界中を平和にするものは妙法より他にないと信じ、 仏様のみ教えをそのまま実行させて頂くのです。

二、 私の働きはみな世のため、 人のための働きでなければなりません。

三、 人を教化する第一は、 まず自分が身をもって実行することです。

四、 徳の力こそ一切を解決する根本です。 お互いに人格を尊び合い、 自分の一生を生かすよう、 徳を積むことに努力しなければなりません。

五、 私達は常に心の迷い、 煩悩の除滅に心がけて、 日常生活の中に、 仏様の尊い悟りの道を歩みましょう。


               

○幸福になるには、 まず幸福に到る道を求めましょう。

○与えられた仕事に精出して働きましょう。 喜び働く中から、 必ず幸せが生まれてきます。

○何事も健康で暮らしましょう。 朝早く起き、 今日一日生かされる御仏の御恩を感謝しましょう。 健康な体に健全な悟りが出来ます。

○慈悲深く誠心誠意をもって、 よく堪忍し、 行住坐臥、 道を歩む時も、 常に妙法蓮華経と唱えましょう。


               

 人間に生を受けるということは、 まことに難しいことです。 梵網経に、

  「仏、 阿難尊者を召し給い、 大地の土と爪の上の土とどちらが多いか、 と問い給う。 人間に生を受けるは爪の上の土より難し」

 と申されてあります。 折角この受け難き人界に生を受けながら、 自らの煩悩の垢で尊いいのちを汚し、 世のためにもならずして、 地震、 火災、 水害、 殺害等のいろいろな災難を受けられるのは、 誠に残念です。

 これらの災難を受けぬためには、 どうしたなればよいかと申せば、

 第一に妙法を唱え、

 第二に慈悲心を養うこと。

 この二つを実地に行ったなれば、 いかなる災難も大難は小難、 小難は無難となるのです。

 妙法を唱えることは行住坐臥とありますので、 丁度自分の好きな書籍を、 食も忘れて読むように、 仕事の折も、 道を歩む時も常に唱えるのです。

 慈悲心を養うということは、 一軒の家は、 たとえ下男・下女に至るまで、 みな自分の体を愛するようにすべての人を愛し、 妙法によって、 大難は小難となる道を教え導くのが慈悲心です。

 法華経寿量品に、

  「衆生劫尽きて、 大火に焼かるると見る時も、 我が此の土は安穏にして、 天・人、 常に充満し、 園林諸の堂閣、 種々の宝を以て荘厳せり」

 とある通りです。 私はまことに短才無智の者ですが、 幼少の時から、 どうぞ御国のために、 人のために尽くしたいと心がけてまいりました。 それにはどういうことが一番よいことであろうと考えました。 まず世の中の人が一番苦しい思いをしておられることは、 日々清い日暮らしのできないことだと思いました。 どうか世の中の人々に、 清い日暮らしをして頂くことが、 私として御国のために尽くす本分だと考えました。 みなさんもよく考えて下さい。


               

 人生は丁度旅の空のようなものです。 生まれても旅、 死んでも旅、 どんな御殿のような立派な家に住んでいる方でも、 その家に永く住み続けることはできません。 必ず一度は死なねばならぬ時が来ます。 それであるのに、 ある立派な家に住んでおられる方に、

  「あなたは亡くなったら、 何処へ行かれますか」 と尋ねますと、

  「知らない」 と答えられました。

  「そんなら何時亡くなられますか」 と尋ねますと、 やはり 「知らない」 と答えられました。

 これを譬えて見ますと、 丁度旅をする人に、

  「あなたは何処へ行かれますか」 と問う時に、

  「私の行く先は知らない」 と答えられたら、 どんなものでしょう。

  「あなたは今晩どこに泊まられますか」 というと、

  「知らない」 といわれるのと同じです。

 こういう行く先の分からぬことを根なし草の波に漂うが如しと申します。

 こういう行く先も分からぬ根なし草のような人生を送る人が、 世の中には殆どです。 学問も教養もあり、 人から人格者だといわれる方が、 無頼の徒に殺されたり、 思いがけぬ災難に遭うなど、 みなこれです。 古人は、

  「学問は仏道の初門なり」 と申されています。 仏道とは如何なることかと申しますと、

  「仏道とは、 過去を知り、 現在を知り、 未来の結果までを見当てて候が仏道の肝心なり」

 過去・現在・未来の三世を見きわめる正しい眼を開くことです。 このかき曇った空のような世の中を立派にして、 皆さんに清い日暮らしをして頂くには、 行く先の分からぬ旅人のような無方針な人生では駄目で、 それでは次から次へと不幸、 災難の来ることは、 火を見るよりも明らかです。

               


 私はどうしたら日本が立派な国になるかということを日夜苦慮した結果、 小学校長をお招きして、 第二の国民の教育指導方法について、 私の考えをお話しました。

 妙法をもってみなさんが人間としての本心を起こして頂きますならば、 きっと世界の鏡となる日本となることができます。 全国の教職員の方々がみな清い朗らかな生活をして下さることは、 影の身に添うように教えらるる生徒へ、 知らず識らずの間に、 その清い心が写っていき、 やがてその生徒の活動する時代には必ずよい国となり、 菩薩のような立派な日本国民になることは間違いありません。

               


 人の性は本来みな善であります。 どなたでも善い道に進みたいと心がけない人はありません。 それなのに悪い行いをする者があるのは、 その境遇によるというものの、 結局善に進もうとする意志が妨げられて、 悪に引き入れられるからです。 これを煩悩といって、 この煩悩のために引き廻されなければ、 必ずその目的を達することができるのです。

 人間には過去に播いた善因も悪因も沢山あります。 善の種を多く播いてあれば、 善の結果となって結構ですが、 悪因の方が多いために、 これが煩悩となって善行を妨げられるのです。

 仏様は煩悩即菩提と申されていますが、 これは煩悩によって善行を妨げられんとする時、 直ちに自己を反省して、 悟りと変えることで、 煩悩を悟りと変えて消滅するということは、 中々容易ならぬ大問題です。 けれども常日頃の心がけで、 先祖を敬い、 多勢の人々の便利を図り、 御国のため、 社会のために陰日向なく働いているならば、 その働きによって煩悩を悟りに変えることができ、 これを功徳というのです。

 この功徳を多く積めば、 煩悩に苦しめられる時、 悪の誘惑に陥らんとする時、 これは正しいか正しくないかの判別が早くつくのです。 困難な立場に臨んだ時でも心を冷静に保って、 苦しい境遇に出会っても、 まだ小難で有り難いと悟って、 さし迫った物事を善処すべき方法を考えることができます。

 他人から悪口をいわれても、 自分の煩悩だと悟って怒らず、 言われた時の気持を思って人を悪口せず、 人の善行を見て自分の欠点を直し、 人の悪行を見て、 自分を反省して行く。 このように悟れるようになるのは、 積んだ功徳の力によるのです。 ですから薄徳の者は、 常日頃、 功徳を積むことを忘れず、 煩悩に打ち克つように努力し、 暮らさなければなりません。 そうすれば煩悩そのままの中に悟りの道が開け、 正しい人生を渡ることができます。 煩悩を転じて悟りとする用意もなく、 うかうかと世間に向かったならば、 必ず煩悩のために打ち負けて、 困り苦しむ悲境に陥り、 ついに光明の世界に出ることはできません。

               


 三十年間経文を調べても、 中々悟りは出来ません。 三十年間経文を調べるよりも、 三十年かかってよき師匠を尋ねた方がよい。 あなた達は私が三十年も四十年もかかって実行した要の教えを教えてあげますから喜んで下さい。 この会は、 天から見ると御殿のようです。 それは行う法が最第一の法だからです。 炊事をしている人たちも天から見ると、 緋の袴をはいている天女以上のことですよ。 それだから何を見ても喜んで下さい。 蒲鉾を見てもそう思って下さい。 自分も魚に生まれて蒲鉾にされる因果もあるのだから、 この因果を消滅しようと思って徳を積むのですよ。

               


 妙法を実行すれば、

一、 貧者も福者となって、 喜びの日が来ます。

一、 病者も、 平癒の喜びが来ます。

一、 愛する者に別れる苦しみに会いて泣く人も、 善処の道が得られます。

一、 己の目的の達せざる人も、 成功の域に達することができます。

一、 煩悩多き人が、 悩みを去ることも容易です。

一、 社会より嫌忌される人でも、 仏は平等に慈悲を垂れ給い、 安穏を得せしめ給うのであります。

万法の中、 抜苦与楽の真実道は、 妙法蓮華経の実行であります。

               


 慈悲・誠・堪忍の三つを常に修養して、 他事なく、 妙法蓮華経、 妙法蓮華経とお唱えなさい。 そうすれば、 お互いに我が身の罪障を滅することができるのです。

 罪障を滅し、 本化の菩薩という玉を磨けば光が出るように、 我が身の光 (仏性) によって、 三世のことがよく分かるようになります。 これが大神通を得る秘訣です。 よく修行して下さい。 そうして妙法を実行するよう人達を勧誘して、 その人達の供養をし、 善根を積んで行けば、 必ず私のように神通が得られます。 一生懸命に精進なさい。

               


 みなさんはどなたでも出世がしたいでしょう。 さて出世とは何かといえば、 万人に愛され、 尊ばれ、 そして立派な家に住み、 資産も富有にして、 男子なれば八方美人の慈悲深き良妻を娶り、 賢き子供を得て、 いずれも立派に教育し、 すべてに満足し、 喜びの中に八十才、 百才までも長生し、 死しては金色と紫の無上道に到る。 これが誠の幸福であります。

 誰しも願うは極楽ですが、 この極楽へ行くには道があります。 その道中には橋もいります、 舟も入り用です、 これが一つの大問題です。

 しかるに世間の人は、 橋もなく舟もなくして、 ただちに極楽行きを願い、 宝の山を望みます。 この不用意な方法によるが故に、 位人臣をきわめたる人士にして、 刺客のために害され、 あるいは不慮の災難に遭うが如き、 有為の青年が修業半ばにして不時の災厄に遭い、 業成らずして死するが如き出来事は沢山実例があります。

 されば宝の山に到るの道を得、 橋を作り、 舟を求めるには、 どうしたらよいかというに、 この道を学び、 実行して幸福を得、 出世をして世間の人々にその範を示し、 絶大なる妙法の偉力を国内はおろか海外にまでも宣伝流布するのが、 会の目的であります。

               


 我たちは宝の山に到るに、 まず橋を造りましょう。 第一、 精出して働きましょう。 だんだん世の中が複雑になってくるに従って、 真面目さがなくなって、 怠け者が殖えてくる。 今の人間は働くということに対して苦痛のように考えるものさえあります。

 私共はそういう考えをやめて、 働くということは楽しみだということに改めましょう。 お互いの目的を忘れず、 お互いの仕事に興味を持って、 身を惜しまず働きましょう。

 第二に健康を害しないようにしましょう。 暴飲暴食を慎み、 飲酒に当たっても節酒して、 乱に及ばざるよう心がけましょう。

 次に早寝早起きをしましょう。 明快なる頭脳は早起きによって期待されます。 早朝の清爽さは全日の快活な気分を保たしめます。 早起きして無用無益の惰眠の時間を有益にすることは、 将来に富者、 智者、 健康者となるべき根源たるを忘れてはなりません。

 第三に祖先の恩を忘れてはなりません。 私共は祖先の分身です。 私共のこうして暮らすについては、 すべてこれ祖先の苦心の賜ものであります。 常に祖先のため一心に妙法蓮華経を唱えましょう。 故人がたとえ地獄・餓鬼・畜生道にあるとも、 妙法の功徳にて下界の苦悩から逃れられます。 これが祖先に対する第一の孝養です。

               


 よく世間では死んだ人々が、 草葉の陰から守って下さるというが、 草葉の陰には何がおりましょう。 虫や蛇や蛙でしょう。 このような境涯にあって、 どうして守護ができましょう。 極楽には草など一本もありません。 守護して下さる方は諸仏善神です。 まず諸仏善神に守護して頂かなくては何事もできません。

 しかしお互いに人間は罪障という悪因がある故に、 悪魔道即ち悪神に囲繞されているため、 健康を害するように夜更かしがしたい、 朝寝がしたい、 働くことが苦痛だということになります。 あるいは婬慾盛んとなり、 貪慾といって今世の蓄えしか考えないのです。 そうして悪い方へ悪い方へと導かれ、 自分さえよければ他人はどうなってもよい、 施すべきものも惜しい気がして、 善の種蒔きもせずして、 どうしてその果実を求めることができましょうか。

 しからば諸仏善神に守護されるには、 どうしたらよいか。

 第一に慈悲深く、 何事も至誠をもって臨み、 我は大人である、 無理をいう者は子供である、 可哀想だ気の毒だと思って、 決して腹を立てないことにします。 即ち堪忍をして行住坐臥、 道を歩む時も仕事をする時にも、 南無妙法蓮華経と唱えるのです。 その功徳によって悪魔を遠ざけることを得て、 諸仏善神の守護を受けることができます。 そうすると益々悟りがよくなり、 咄嗟の災難も逃れることができます。 大難は小難、 小難は無難ともなるのです。

 かくて自然と早起きもでき、 身体も丈夫になり、 だんだんよく働けるようになります。 物を買うにも安く買えます。 売るにも買い手の入り用な所へ持って行けるようになる故、 高く売れます。 またよく売れます。 外出して雨に遇っても、 帰宅するまで雨を降り止ませることもできます。

 諸仏善神に守護されると、 魔神に守護されるとでは大いに差があります。 幸福と栄達を期し、 未来は極楽を願う人は、 諸仏善神に守護されるように功徳を積みましょう。 お互いにこれを心がけ、 注意するならば、 今の不景気も失業問題も容易に解決ができます。 失業とか不景気を叫ぶのはお互いの不名誉です。 一層努力して功徳を積みましょう。 古人の金言にあるように 「徳は本なり、 財は末なり」 ですから、 まず徳を積まねばなりません。

               


 法華経は 「唯仏与仏乃能究尽」 と申す御経でありまして、 仏となるべき法であります。 それは法華経以外には仏と成るべき法はないのですから、 この法華経を持たぬ者は一人も仏になった者はありません。 ということを、 仏という仏はみな究め尽くして知られたという意であります。

 それ故に、 現世には安穏に暮らして、 未来には極楽、 即ち仏の境界に進もうとする人は、 法華経の実行をしなくては、 その目的を達することはできません。

 もしこの法華経を説の如く実行するなれば、 自己の思うようになり、 自由自在のことができます。 たとえば災難の来ない前に、 災難の来るということを知ることもできます。 またこれを防いで小難とすることや無難とすることもできます。 商人なれば、 商売を繁昌させることも容易にできるのです。 世の中には、 折角築きあげた巨万の財産も、 その子孫が見る影もなく使い果たしてしまう例は沢山ありますが、 妙法は実行次第で、 このような不肖な子孫ができないで、 末代までも栄ゆる徳の深い子孫を得ることもできます。

 いわゆる長生の術とは、 この経の実行に限りできるのです。 この如く万事に自由自在になれば、 常に面白く満足して、 極楽の境界で暮らすことができるのです。

               


 慈悲ということは、 困り苦しむ人を気の毒と思って、 その苦悩を取り去ってあげようと、 安楽 (幸福) を与えることに努力することであります。 むずかしい言葉で申しますと、 抜苦与楽と申します。

 この娑婆世界の一切衆生に現世は疎か、 未来までも安楽を与える慈悲を大慈大悲というのであります。 大悲は抜苦に相当する言葉でありまして、 世の中の人々が悪因縁のために悶え苦しんでおられる、 その苦悩即ち罪障を抜き去らしめることであります。

 大慈は与楽に相当する言葉で、 どうか現世は勿論、 未来永遠までも安楽にしてやりたい、 日常善因を作って、 善果を得させるようにしてやりたいという、 思いやりの所作であります。 世の中であの人は親切だ慈悲深い人だといわれる人は、 気の毒な人を見れば、 同情して心を慰めいたわり、 また物質を施して、 この困窮を救済する人をいうのです。 これは正しく慈悲の表れで、 人としてなさねばならぬ心遣いであり、 所作であります。

 このように心を慰めたり、 物質を施すことを、 仏教では無畏施、 財施と申し、 それだけでは大悲大慈と申されません。 なぜなれば、 これには限りがあるからです。 それではどうすれば大悲大慈となるかといいますと、 無畏施、 財施を行った上に、 法施といって、 この正法、 妙法蓮華経の実行方法を教え導かなければ、 真に抜苦与楽にならないのです。

 この正しい法の妙法は、 経文にもありますように、 難解難入と申しまして、 解り難く入り難しと申されてあります。 過去に沢山の功徳を積んである人でなければ、 中々入り難いと申されます。 私が神通で調べたところ、 もし一そのような方でも、 どなたでも一たびこの有り難い法をお聞きになれば、 今世では入り難くとも、 二世もしくは三世には必ず入られますから、 どうしても正法の聞かれない人は気の毒だから、 後ろより妙法を唱えて合掌しておきます。 どうかみなさん一生懸命に正法の実行をして幸福になって下さい。

               


 窓 (車窓) から外を見ると、 点々と灯が見えるでしょう。 あの灯のある処は家ですよ。 日本中に随分沢山家がありますが、 皆お気の毒な家ばかりですよ。 皆が罪を作っていて妙法の話も聞かず、 知らずにいて死んだら、 何処へ行くという事も知られませんから、 私等が極楽へ行く道を教えなければ、 誰が教えるでしょう。 私は何にも知らぬ人に妙法を知らせるために、 人間に生まれて来たのです。 体のえらい位何でもない、 有り難い事です。

               


 花見に行って徳が積めますか、 皆さんは花見に浮かれて、 徳も積まずに、 草の上で弁当を食べて喜んでおられますが、 気の毒でたまりません。 やっぱり私共は、 徳の積める仏様の御使いをさせて頂けるから有り難いですね。

               


 今学者の中に、 この尊い法華経を指して、 この経は仏の亡くなられた後に、 大勢集まって劇化したもので、 釈迦一人の智ではない、 神通力なんか怪しいものだ、 と言って仏の教を誹謗している者がある。 無智の者ならばいざ知らず、 世の中から仏教に造詣深い人だと信用を得ている学者が、 こんな事を言って仏を傷つけている。 この説に誑かされている者も沢山あるが、 私が亡くなった後に、 どうかこういう謗法罪を作らぬように骨折って下さい。

               


 菩薩行を自らもして、 他の人々にも行わせる、 いわゆる自行化他に亘る人の唱える題目を、 九識の題目というのです。

 自分の魂が菩薩であることも知らず、 菩薩行もせず、 大きな声でお題目を唱えても、 九識の題目にはなりません。 こういう功徳も積めない、 利益もないことをしている盲人のように、 足を踏み入れないよう気をつけて下さい。 よいですか、 天爵と人爵を忘れると足を踏み入れますぞ。 いかに高官になっても、 人爵では功徳がないので、 未来は地獄へも行かねばなりません。 天爵とは功徳を積めば積む程、 諸天の擁護を受ける事になり、 仏の位に進んで行けるその位です。 天爵があれば、 不意に殺されるようなことはありません。 人爵では殺されます。 その道理をよく理解なさい。

               


 あなたは良い魂を持ちながら、 可哀想に今まで何も知らずに暮らしてこられましたね。 あなたは今ここで悟ってもらわねばなりません。 それはどういうことかと申しますと、 この娑婆に生まれて来たのは、 功徳を積んで悪い因縁を取り去り、 お父さんやお母さんの後世の難儀を救うためです。 ウカウカ暮らしておられると、 あなたは災難に遭い苦しまねばならぬことも来ます。 何はともあれ、 災難が来ても、 大難は小難あるいは無難で逃れねば、 大事な命は一つしかありませんからね。

               


 神様でも仏様にでもお参りする時、 何にも思わず頭を下げる人もありますが、 また慾深くお金を儲けさせて下さい、 命を長らえさせて下さい、 家内安全、 商売繁昌といろいろな祈願をされる人もありますが、 みなお参りの意義を知らぬ方で、 それは功徳にもならず、 ただ行ってくるだけです。 神様でも仏様でも、 お参りをする程の人は、 生前に必ず直接あるいは間接に、 我々に対して教訓を与え、 御国のために働き、 我々の模範となるべき方をお祀りしたものです。 大神宮様にお参りするのも意義があります。

 この日本の国も、 その昔は芦の原で荒れ果てた土地であって、 その国を開拓して下さった御苦労を思う時、 本当に今日は有り難いことではありませんか。 私共はご先祖として、 このよき国をなおよき国にして下さった、 その御恩に思いをめぐらすならば、 この有り難い国に生まれ、 何で不足のことがありましょう。 本当に大神宮様の御蔭です。 足ることを知って、 日々の家業に努力し、 修養をして徳を積みますと、 社前に於いて誓って下さい。 そうして我等はこの日本をよりよき国となすべく励み、 さらに諸外国をもよき国としてあげねばならぬのです。 それが日本の人々の使命です。

               


 参詣の道で子供を連れている人を見たら、 よい坊ちゃんですね、 よいお嬢ちゃんですねといって、 蜜柑でも子供さんに一つ宛あげなさい。 親さんが大変に喜ばれますよ。 功徳は人を喜ばせることによって得られます。 お菓子でもよいがお菓子をあげるとバイキンがついていないかと心配させると功徳になりません。 蜜柑やリンゴなれば皮を剥きますので、 そんなことを思われることはありません。

               


 私共は実に有り難い時期に生まれたものですね。 日蓮聖人は家もない所で、 艱難辛苦して法を説かれました。 また方々に行かれるにも、 汽車も電車もなくて、 ご難儀のことであったでしょうが、 今は本当に有り難い世の中です。 汽車や電車という便利なものが、 法を弘めるためにできたように思えます。 こうして話をしている間に、 大阪へ着くことができるが、 本当に有り難いことではありませんか。 それで行く先々には家があり、 人の家でも、 自分の家以上に使わせて下さるから有り難いことです。 お釈迦様は三界は火宅ということを仰しゃってみえますが、 それは仏とも、 法とも知らずに、 ムカムカと怒っておられる方々の家のことです。 私共は罪を作ることを止めて、 罪を取るような仕事をさせてもらえるということは、 本当に有り難いことです。

               


 姑さんとの不和で苦しんでおられる嫁さんのために、

  「それは姑さんが悪いのではない。 すべて自分の苦しみを受けることは、 自分の因果であることを悟って下さい。 あなたの罪が姑さんに乗って、 無理なことを言われるのでありますから、 自分の罪と悟って、 姑さんのお気に入るようになさい。 きっと円満になります。 困ることはみな困る人の罪障でありますから、 困る人が悟ると必ず幸福になります」

               


 私は遠くは釈尊、 近くは日蓮聖人の仰せの如く、 妙法広宣流布に努力しておりますが、 先年一度盲目となりました。 丁度盲目となる六カ月以前に、 盲目となることを洞見して、 みなさんに、

  「私はさつきの花の咲く頃盲目となります。 何故に妙法の実行者が、 盲目となるかと疑われますでしょうが、 すべては因果の二法であります。 私の過去には、 正法を誹謗した罪もあれば、 敵の目を弓で射たという因もありますから、 盲目となるのは当然であります。 これは現世の軽報でありますから止むを得ません」

 と予言致しました。 丁度さつきの花咲く頃になりますと、 案に違わず、 どちらを見ても磨り硝子を見るようで、 何も見えなくなってしまいました。 私は早くこの悪因が消滅するようにと、 なお一層妙法宣伝に努力しました。

 早速内務省、 文部省、 警視庁等に参りまして、 妙法の実行が今是非とも必要であることや、 その他予言のことなど申し上げました。 また各所で広宣流布に努力致しました。 そのお蔭で一カ年半を過ぎて、 また只今のように何でも見えるようになりました。

 これで私も妙法の実行をすれば、 その功徳によって、 盲目も目を開くという実証を得ることができました。 どんなに経文が有り難いといっても、 末の世にこれを説の如く実行して、 災難を受けても、 これを小難とし、 あるいは諸仏に護念を受ける実証が無かったなら、 有難味がないのであります。 「現在に軽く受くるは、 これ護法の功徳力によるが故なり」 とはこれであります。 かくの如く、 悪因の煩悩の消滅することのできる法は、 法華経以外にはありません。 実に妙法は妙不可思議の力があって、 自由自在のことができるのであります。

               


 私は子供の時、 手や足が特に冷たくありましたので、 また冬が来るかと思うと、 恐ろしいような気がしました。

 私は神通をもって、 これは何の因であるかと調べてみると、 私は過去の罪業のために、 五百年間も亀に生まれて、 寒さに苦しまなければならない刑罰があったのであります。 それを保釈にて人間に生まれさせて頂いたことを知りました。 その証拠には掌が横に曲がっておりました。 私はそれを自覚致しますと共に、 一層仏道に努力して功徳を積むことに邁進しました。

 功徳を積めば有り難いものです。 今は”冬でも暖かく、 夏は涼しく”とありますことを、 実際に体験してなお更有り難く、 妙法の尊さをいやが上にも偲ばれて、 釈尊の御慈悲に唯感涙にむせぶのです。

               


 いかなる修行をしたら大神通が得られますか、 「それには、 慈悲・誠・堪忍の三つを常に修養して他事なく、 妙法蓮華経、 妙法蓮華経とお唱えなさい。 そうすれば、 お互いに我が身の罪障を滅することができます。

 罪障を滅し、 本化の菩薩という玉を磨けば光が出るように、 我が身の光 (仏性) によって、 三世のことがよく分かるようになります。 これが大神通を得る秘訣です。 よく修行して下さい。 その人達の供養をし、 善根を積んで行けば、 必ず私のように神通力が得られます。 一生懸命に精進して下さい」

               


一、 生死とて、 生まれる苦あり。

二、 老苦とて、 年老いる苦あり。

三、 病苦とて、 病気になる苦あり。

四、 死苦とて、 死する苦あり。

五、 求不得苦とて、 苦を追い求むる、 即ち取り越し苦あり。

六、 五陰盛苦とて、 色受想行識によって求める苦あり。

七、 愛別離苦とて、 愛する者には別れ離れる苦あり。

八、 怨憎会苦とて、 怨み憎む者に度々会う苦あり。

 以上八つの苦痛を、 妙法の功徳によって消滅するなり、 これを解脱という。

 大光明を放つとは、 一実の智光、 諸々の愚暗を照破することを表す。

 頸の真珠等とは、 国君の頸に懸かりたる飾りものなり。 妙法の因、 一切の法門具足するを、 真珠の瓔珞を供養するというなり。

 大乗とは、 妙法蓮華経なり。

 平等大慧とは、 十界の衆生、 ひとしく成仏せしめ給う仏の智なり。

 教菩薩法とは菩薩を教化する勝れたる法なり。

 仏所護念とは、 人の名宝を大事にする如く、 仏の妙法を念じ給うをいう。

    


   

生苦― 在胎十カ月、 漸く月満ちて母の胎内より出る時を 「生苦」 という。
老苦―

この間生まれたと聞きし赤子も、 いつやら白髪、 老顔の人となり、 目はかすみ、 耳は鳴り、 歯は抜け、 腰は曲がるが如きを 「老苦」 という。

病苦― その間に種々の病気、 身と心と二つの上に発するを 「病苦」 という。
死苦― 最後には、 定命尽き果て、 断末魔の折息絶え、 身冷えたるを 「死苦」 という。

 


  願は時にとは、 速時に往詣し給えとすすむるなり。

 時にもとは、

 一には、 法華の説時に遇うこと難し。

 二には、 因縁和合して障りなき時に遇い難し。

 諸難とは、

 得人身難、 諸根具足難、 聞法難、 信解難等なり。 意は幸にすでに諸難を脱す。 願わくは出家して大願を満じ、 一切の患難を脱し尽くさんと求むるなり。


               

 三千年に一度花咲く優曇華とは、 輪王出世の時咲ける霊華ゆえ、 義をもって霊瑞華と翻す。 海中に生ずる青蓮華なり。 この華希有にして値い難し、 ゆえに仏に値うことの難きに喩うなり。

 


 善知識とは、 よく物を知って人の師となるべき人をいう。 この善知識に三通あり、 仏法の深理に教え導くを教授の善知識といい、 共に同和して修行するを同行の善知識という。 衣服財資等、 身外の用事を弁じ、 保護する人を外護の善知識という。 この三種の善知識は、 みな仏道修行を満足し成就せしむる良縁なり。


               

 一眼の亀とは、 海中に盲亀あり、 三千年に一度海上に浮かんで出て、 腹に一眼あり。 浮木ありて流れ来たり、 それに孔あれば、 眼を孔にあてて浮木に上り甲を干す。 風吹いて浮木を翻せば、 月を見ることを得る。 これは仏に値い奉ること難きに喩うるなり。

               


法華三昧とは、 一切の法を摂して、 一実相に帰するをいう。

               


示教利喜とは、 説き示し教え授け、 利益し歓喜せしむるなり。

               


天衣とは、 寂忍の理にかなうことを表す、 忍辱の衣なり。

               


我閻浮提の太陽とならむ。

我煩悩をよく断ず。

我妙法を以て仏と成る。