入信の手引
ホーム 交通のご案内 お問い合わせ先 大乗教の沿革 杉山辰子教祖 聖地臥龍山 総本山散策 大乗教インド別院 Buddhist Temple 書籍のご案内 月刊誌 百周年記念事業 大乗教青年部 国際ボランティア会 iモード リンク 2015年行事案内 被災地支援

 

 

大乗教の信仰のあり方を簡潔に説明した小冊子「大乗教入信の手引」を差し上げます。日常の信仰生活に是非お役立てください。

郵送をご希望の方は、電子メールにてお申し込み下さい。メールソフトのタイトル欄には「入信の手引」、また「コメント」欄に、

 1 郵便番号

 2 住所

 3 氏名

 4 職業

  5 必要冊数

をお書きになって、大乗教広報部までお送り下さい。

宛先 : mail@daijokyo.or.jp(広報部)

「大乗教入信の手引」は誌代・送料とも無料です。


 『大乗教入信の手引』表紙.

 

主な内容

  • 大乗のいわれ
  • 願いと現実
  • 明るい心と感謝の心
  • 合掌の心
  • 大乗教の概要(目的/経典/本尊/規範/修行/供養/お経の功徳/給仕奉行/先祖供養/法座/平易な言葉で/教祖の折々の教え)

 

『大乗教入信手引―幸福への道標― 』

(c)2002-2004 Daijokyo  不許複製.

 

大乗のいわれ

 大乗教(だいじょうきょう)の「大乗」の二字は、妙法蓮華経方便品第二(みょうほうれんげきょうほうべんぼんだいに)に、

「今正(まさ)しく是(こ)れ其(そ)の時なり 決定(けつじょう)して大乗を説く」

とありますところの″釈尊ご出世の本懐(ほんかい)のご理想″をあらわしたものであります。仏教は大乗と小乗(しょうじょう)の教えに区別することが出来ます。乗とは乗物で大きい乗物と小さい乗物であります。

 大乗は個人の幸福のみでなく、他人の幸福をも考え、人を救うことを言うのであります。そこに個人の救いが叶えられるのであります。小乗はそれにひきかえ、自己の迷いを除き修行をすることを言うのであります。ですから、小乗は功徳(くどく)も小さいので、小さい乗物と言います。

――小乗を以(も)って衆生(しゅじょう)を済度(さいど)したまわず仏は自ら大乗に住したまえり――(妙法蓮華経方便品第二より)

 

願いと現実

 世の中の誰もが平和と幸福を望んでいます。然(しか)し、幸福を望みながら平和を望みながら現実には、その願いが余りにも叶えられていない人の多いことを私達は知るべきです。大儲けをするつもりで大損をした商人。長生きを願って若死にした人。エリート社員を目指していても、何年も下積みの社員。幸せな結婚を願ったのに夫に先立たれた妻。苦労して育てた我が子に捨てられて嘆く老いた親等々。誰もが平和を叫んでいます。私達が何十年もなじんできた言葉です。然し、日本は本当に平和になったでしょうか。世界は平和になったでしょうか。争いの場は随所に見られます。なぜ人々の願いは叶えられないのでしょう。それは、

自分中心の考え

幸福になる平和になる正しい道を知らないからと言えましょう。

釈尊(しゃくそん)の教えによれば、人々の苦しみは迷いの心から生まれる、と申されています。迷いの心とは、苦を作る心と苦にする心です。苦を作る心とは、欲にとらわれる心です。つまり自分のことを中心に考える心です。自分のことを中心に考えるから他人を責めたり、だましたり怨んだり、怒ったりして罪を作るのです。これが争いです。幸福になるつもりでも罪を作ることで不幸を招いてしまうのです。相手を不幸にすること、落そうとすることは自分を不幸にし、滅ぼすことだと教えられました。喧嘩に勝っても、口論に勝っても決して得になりません。

平和平和と口に叫んでいても、どんな理屈を並べても闘争をしている内は決して平和はこないはずです。平和とは、誰もが平等に仲良くすることです。家庭の中も、国の中も自分中心の考えでは、皆の願う平和は訪れません。相手の立場になって考え、自分よりまず人のため、と考えることが―損をするような考えですが―結局自分の繁栄、幸福につながることだという思想が釈尊の教えであり法華経なのであります。

ところが、世の中を見ますと、皆まず自分のこと、自分達の組織のこと、自国のことを先に考えているようです。全て反対です。

″タライの中の水は、手前にかき寄せようとすると、水は向うへ行くし、むしろ向うへ水を押すことによって、水は手前にやってくる″ものです。

世の中の多くの人は、水を手前にかき寄せようとしているのです。人のためにするように見せて、まず自分の利益のことを先に考えてしまうのです。これでは良い結果は出ません。家の中でも家族より先に、自分の都合を考える夫や妻では、良い家庭は生れません。商売も然(しか)りお得意様の立場を考えない商売は繁昌しません。欲にとらわれると、どうしても自分本位になります。誰でも自分が一番かわいいものです。その一番大切な自分をさしおいて、まず相手のことを思う心が大切なのです。その心を釈尊の教えで慈悲と言います。

 

明るい心と感謝の心

苦にする心とは、喜びのない心です。いつも不満をもち何でも悪く解釈する心です。「世の中は心一つのおきどころ、苦も楽となり楽も苦となる」と心の持ち方が大切です。

どんなに恵まれていても喜びのない人は、不幸であります。くよくよする人は、いつまでたっても幸せになれません。人生はいつもいいことばかりでもなく、悪いことばかりでもありません。自分の生かされていることに感謝して正しい人生観、正しい社会観、正しい信仰のもてる人こそ、明るく正しい生き方の出来る人で、水にも流されない、火にも焼かれない幸せを得られる方です。

まず私達は迷いの心(苦を作る心、苦にする心)を無くするよう努力することです。そのためには、仏の智慧(ちえ;真理の教え)を得るべく、教祖杉山辰子(すぎやまたつこ)先生の示された大乗の教え(法華経)を聴いて体得して頂くことであります。

私達の使命は世の中をより明るくするために貢献することであります。人のためになろう、お役に立とう、みんなの幸せを願う人になろう、即ち徳を積もうとする人が多くなれば、それだけ世の中が住み良く明るくなるのであります。人々が自分のことばかり考えていたのでは、いつまでも世の中は良くなりません。交通事故も減りません。犯罪も無くなりません。戦争も無くなりません。そして家庭の幸せもありません。文明の世の中も仏の正しい教えが広まっていかないと、人間はめいめい勝手な考えや、行いをするようになりますので、段々と悪い世の中になってしまいます。学問も教育も大切ですが、仏の教えを人々の心の中に育てることは、もっとも大切です。あなたもこの尊いご縁によって大乗のみ教えに浴され、真の幸福を得られますことを祈念致します。

 

合掌(がっしょう)の心

  • 信仰の道は、ただ合掌することだけであります。合掌することは、二つのものが一つに融け合った真心の世界、すべてのものへの感謝の心であります。自己と他人、自己と社会、自己と仕事、夫と妻、親と子、そして善と悪、美と醜、正と邪、この差別の自我の観念を捨てて、素っ裸になった心と心が一つに結び合って、大自然の恵みの前に無心に跪ひざまずく姿、これが合掌の心であり、信仰者の姿であります。

  • 打たれても、ののしられても、唯一心に相手の仏性(ぶっしょう)を念じ、合掌し続けた常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)の心が大乗教の根本精神であります。

  • すべてが今あるままの平等の姿、今の姿がそのままありのままの姿、実相(じっそう)であります。娘は娘らしく、子供は子供らしく、妻は妻らしく、夫は夫らしくすることが、差別ある平等の姿であります。

  • 人をのろい、人をうらやましがり、愚痴(ぐち)をこぼすのは、自己の真実の姿を知らない愚かな人であります。愚痴を言えば愚痴の境界(きょうがい)が生まれてきます。怒りの生活を続ける者は怒りの世界に苦しむのです。人を救えば救われますし、人を喜ばせれば人から喜ばせてもらえるのです。この解りきった道理の解らぬ人が迷いの人であります。

  • すべて努力なくして成るものは一つもありません。祈ったり、不平を言ったり、悪口を言ったりする暇に、すべてに喜びの心をもって励み、努力する人はきっと、幸福に生きる人であります。

  • 大乗の信仰とは、人を救うことであり、世の中を救う人間を造る教えが妙法です。

  • お題目(だいもく)は、人に聞かせるものではありません。私共一人一人が仏となるために下された釈尊の大慈悲の結晶であります。お題目を唱えるということは、自己の内部に眠っている仏性を呼び起こすことであり、私共自身に聞かせて下さる久遠(くおん)来の仏の慈悲の声であります。

 

大乗教の概要

  一九一四年(大正三年)秋、名古屋市東区清水町に、仏教感化救済会(ぶっきょうかんかきゅうさいかい)を設立された教祖杉山辰子先生は以来、孤児、貧窮(ひんきゅう)者、身心障害者等に愛の手をさしのべ、教え(精神)と医薬によるハンセン病患者の救済に挺身(ていしん)、災害があれば物資を持って現地に走り、法の実践に奔走(ほんそう)されました。一九三二年(昭和七年)六月二十八日、安立行菩薩(あんりゅうぎょうぼさつ)としての使命を生き抜かれた教祖はその六十五年の生涯を終えて、無上道(むじょうどう)へと帰られました。その最後の講話に「出(い)づる息、入る息、待たぬ世の中に、君はのどかに眺めつるかな」の古歌を引用して人生の無常、人間の生を受けて物資の奴隷となり、世のためにならずして死する酔生夢死(すいせいむし;無意味に一生を送ること)の甲斐(かい)なきを強調され、

「人身に生を受けた喜び、妙法に遭(あ)えた喜びをもって、明日死んでも後悔のないという功徳(くどく)の積める生活をして下さい」

と説き続けられました。

教祖没後、仏教樹徳修養団(ぶっきょうじゅとくしゅうようだん)、大乗修養団(だいじょうしゅうようだん)、東郷至誠会(とうごうしせいかい;故小坂井啓陽(こざかいけいよう)大乗教初代管長、故杉崎法山(すぎさきほうざん)第二代管長によって)と、満州事変、第二次世界大戦の戦乱期を官憲かんけんの弾圧にも屈せず、社会事業を中心に教祖の教えを守り、その遺志を貫いてきましたが、一九四六年(昭和二十一年)東京において大乗教会を設立、一九四八年(昭和二十三年)名古屋市熱田区外土居町四番七号に宗教法人「大乗教」を設立、ここに教祖の多年の宿願でありました一尊四士(久遠実成(くおんじつじょう)の釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)・上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)・無辺行菩薩(むへんぎょうぼさつ)・浄行菩薩(じょうぎょうぼさつ)・安立行菩薩)を本尊とし、法華経を依経(えきょう)とします実践的教団として、新しく発足するに至りました。

 

目的

本教の基本方針は、妙法蓮華経の真理を体得し、異体同心を規範として、民意の向上を図り、健全なる平和の建立を期するのでありますが、法華経を所依(しょえ)の経典とする所以(ゆえん)は、釈尊出世(しっせ)の本懐(ほんかい;真実のお心)を究め、久遠実成の本仏(ほんぶつ)と四菩薩(しぼさつ)を本尊(ほんぞん)として、末法(まっぽう)の大導師(だいどうし)安立行菩薩の再来である教祖杉山辰子先生の本旨を信奉して、法華経の菩薩行(ぼさつぎょう)実践による苦悩解決と三世(さんぜ)の安心を得、仏道による自己完成の修行精進を基とし、自行化他(じぎょうけた)をもって、衆生を度(ど)する為であります。

 

経典(きょうてん)

本教は釈尊の説かれた大真理の「法華経」の経典をもって依経としております。

 

本尊

  本教は久遠実成釈迦牟尼仏を中心に、お脇に上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩を本尊と定めて信奉(しんぽう)しております。

なお併せて、教祖杉山辰子先生の御魂(みたま)、各家の祖霊(それい)並びに有縁無縁(うえんむえん)の万霊(ばんれい)を祀まつり、その離苦得楽(りくとくらく)を祈念いたします。

 

軌範

 本教は法華経の真理に基ずく在家仏教(ざいけぶっきょう)の教団でありまして、いずれの宗旨、宗派にも属するものではありませんが、とくに教祖杉山先生が末法の時にあって法華経の真意を開き、その弘通(ぐづう)に一命をかけられた不自惜身命(ふじしゃくしんみょう)の信念を継承し、その教旨(きょうし)を信奉し、仏徒としての実践修行の在り方を現代に生かして、日々の生活の中に、仏教の真意を正しく溶しこまんとするのであります。釈尊の本懐である法華経の教理を生活の軌範として、菩薩行の実践による反省と懺悔(さんげ)、たゆみなき人格完成への精進、もって社会浄化に対する献身努力、これが本教の重要な軌範であります。

 

修行(しゅぎょう)

  修行とは、特別な荒行の意味ではなく、教祖の説かれるところは、あくまでも理論に偏(かたよ)らず中道(ちゅうどう)実践的で、因果(いんが)の理法(りほう)をふまえて、現実問題の解決に重点をおき、上求菩提(じょうぐぼだい)、下化衆生(げけしゅじょう)の菩薩の心をもって、この世に寂光土(じゃっこうど;平和境)を建設することにありました。

ことに法華経を『慈悲(じひ)・誠(まこと)・堪忍(かんにん)』の『三徳(さんとく)』の教えとして、日常生活の中に誰もが平易に実践出来る教えとして打ち出され、行住坐臥(ぎょうじゅうざが;四六時中)仕事をするにも、道を歩くにも、常に「妙法蓮華経 々 々」と唱えて三徳の実行をすることを勧誘されました。

 

慈悲  貧しきを 恵み つらきを いたわりてなお法(のり)の道 とき聞かせなむ

    己(おの)が身を 思うが如く いつわらぬ誠をつくせ ことのよろずに

 堪忍  うきつらき 心にそわぬ ことをみなよきに悟りて よろこびを得よ

 

三徳は我身の守・幸福の泉・極楽門(ごくらくもん)の鍵なり

 

われ閻浮提(えんぶだい)の太陽とならむ ※閻浮提(えんぶだい)=世界

われ煩悩(ぼんのう)をよく断ず                                                

われ妙法(みょうほう)をもって仏と成る

 これは教祖の立てられた三大誓願(せいがん)でありますが、教祖のこの誓願はすべての仏の心であり、私共教えにつながる者の誓願でもあります。仏のいのちに生きる者は、人間と生まれた目的を知り、自己の完成に力を尽すと共に、この地上の人々の苦悩を払い、和楽を与えるための太陽とならねばならないのです。娑婆即寂光土(しゃばそくじゃっこうど)、言いかえれば世界平和への限りない祈念と実践が、教祖の生涯の理想であり、私共教団に与えられた使命なのです。この実践が本教の修行であります。

 

供養(くよう) 

朝夕に法華経を読誦(どくじゅ)して、ご供養を励みますが、供養は、単なる礼拝の形式であってはなりません。経文(きょうもん)の空読みに止まってはなりません。お経を口で読んで、身で行って味わうこと、そして心で悟ること、どこまでもその日その日の実行実践の修行によって、自行化他の実をあげんとする点が最も大切であります。

 

お経の功徳   

法華経の経典に説き明かされてあります「如来(にょらい)の第一義(だいいちぎ)の教理」つまり久遠の本仏が、お釈迦様となって、世に出られたご本懐をもととしているのであります。「お経の功徳」これは、何にも金欄(きんらん)の衣を身につけたお坊さんに、お経をあげてもらったら功徳があるといった意味ではありません。お経は我々自身が読誦するものであります。そして、その意味を理解することであります。

法華経は「難信難解のご法」であると説かれてあります。表面に書いてある字句の理解や解釈だけにたよっていたのでは、いつになっても「信」を得ることもむずかしく「解(げ)」に至るのもむずかしいのであります。

大乗教は「実行の教え」であります。まず第一に「自分の心のきりかえ」をし、それに続いて、私達の日々の生活に教祖のお示し下さった道を信じて、素直に行なった結果「なるほど、お経に説かれてある意味はこれなのだ」と、初めて理解出来るのであります。    

 

給仕奉行(きゅうじぶぎょう)

 本教の信徒はお互いに朝夕お経を上げております。ご飯ができたら、そのお初をお供えします。これは、自分の真心なのであります。上げろと言うから上げるという気持ちで、ほんのお役目のようにやっているのではなく、生きている親に仕(つか)える以上の気持ちをもって仕えることです。これが心の底から尽せるようになれば一応満足であります。

清らかなお花・香り良きお香・お灯明(とうみょう)・お茶・ご飯等、こうした真心を捧げる給仕の意味は、私達自身の心を浄(きよ)めるための行法の一つであります。

人間はみな、欲の固りでありますから、この汚れた心にお袈裟(けさ)をかけて、念珠(ねんじゅ)で合掌し、わずかの時間でも仏様の前に跪(ひざま)ずいて、自分のような未熟な者のお経のご供養ですが、どうぞ受けて頂きたいと、浄い気持ちでお経をあげさせて頂く、尊いお経の一文一句は汚れた自分の心に聞かせる訳であります。

そして、人の喜ぶようなことを一つでも、やらせて頂きたいと常にその気持ちで行じたならば、必ず仏様はご守護をして下さるのであります。

何事も心一つのことですから、どんな運命をもち、悪い因縁をもっていても、必ず仕合(しあわ)せになれるのであります。人を憎み恨み、自分だけの都合のよしあしに捉われる気持ちでなく、それを捨てきって正しい気持ちをもち、正しい行いをさせて頂くことが、これが仏様に対する真の給仕奉行になるのであります。

然(しか)しながら、信仰の道は遠くけわしく、信仰すればする程、その信念を打ち破ろうとする煩悩(ぼんのう)が生じ、また自分自身の心魔(しんま)にまどわされ易いのであります。

そこで私達は、常に法座(ほうざ)に加わって「ご法の薬」をみずから取って服し、ゆるみがちな気持ちを、新たにさせて頂くことが大切なのであります。

 

先祖供養

 大乗教の信徒は「過去帳」を各家の先祖供養の対象として、これを仏壇(御宝前)に祀(まつ)り、朝夕の読経供養をし、お水(お茶)・ご飯・抹香(まっこう)・線香・お灯明・お花等を供えて給仕につとめます。然し、過去・現在・未来の三世を貫ぬくものは自己でありますから、教祖は「お経は自分自身に読み聞かせるものである」と教えて下さいましたから、朝から晩までお経をあげ、お題目を唱えましても、日々夜々の行いが法華経の教えに反していたのでは、ご先祖(過去世)も成仏出来ないし、自己(現世;げんぜ)の利益もありません。ましてやこれから先々(未来世)の「因縁(いんねん)解決」も望めません。大乗教では法華経の経文に説かれてある理を解し、さらに進んで深くその義を解するという「行学(ぎょうがく)」を重んじているのであります。つまり「行によって信を得、学を通じて信と解に至る道を最上の道」としているのであります。

 法華経は甚深微妙(じんじんみみょう)の法と言われ、無上菩提(むじょうぼだい)の悟りを開かれた釈迦牟尼仏(如来)が「真実の第一義」として説かれた万古不滅の尊い教えであります。

 私達は、お経(法華経)を聞いて菩提心を起すのであります。法華経を読誦して、菩提心を起すべきものは、私達自身の心でなくてはなりません。法華経の読誦とは「教えを身と口と意の三つに行ずるのである」という誓願であります。これを「身(しん)・口(く)・意(い)の三業(さんごう)に経を持つ」と申します。その行じた結果は「ご先祖に対する回向(えこう)」となり、そこに「甚大な功徳」があらわれるのであります。大乗教のご供養の意義はここにあります。

 

法座

 正しい大乗の信仰によって「反省と懺悔(さんげ)」を知ることが教えの第一歩であります。人間というものは、自惚(うぬぼれ)や自己満足がつよく「自分は正しいことをやってきた人間だ」と思いこんでいる人が多いのです。「自分は社会人としても、家庭人としても、人を困らせたり、迷惑をかけたり、人の道にはずれたことはほとんどしていない。たとえ一つ二つはあったにしても、正しいことの方がもっと多いのだから、罪の中には入らないだろう」と、そう信じている人が世間には案外多いものであります。

 大乗教の「法座」は、この思いこんでいる自己満足を粉砕し、なる程と改めて自分自身を見直さずにはいられなくなるための修行の道場であります。

壇上の説法の後、座談会をいたして、心と心との触れ合い、文字通り膝を交えて話し合い、その度ごとに親しみが増し、表情も明るくなってくるのであります。家庭的な悩み、病気の悩み、仕事上の問題、又は商売のゆきづまり等、あらゆる身辺のことがらが、一応はその原因が心の問題として取り上げられ「法華経の教理」と「因縁因果の理法」と「教祖の教え」にもとずいて、解決の方策が与えられるのであります。

「まず、何でもいいから、だまって法座を五十回聞きなさい。そこに幸福の糸口が見つかります」と言われます。

 

平易な言葉で

釈尊が教えをお説きになっていた当時は、決してそんなに解りにくいものではなかったと思います。その当時の人々にとっては、よくのみこめる教えだったに違いなかったと思います。一般の人々が平易でよくのみこめたので、当時の人々の人生を明るい、すばらしいものに一変させたのであります。

そうでなければ、わずか五十年の短い年月の間に、あれだけの人々が仏の教えに心から帰依する筈がありません。然も釈尊の教団は「来る者は拒まず、去る者は追わず」というきわめて自由なものだったのです。法華経の「方便品(ほうべんぼん)」にも出て来ます「五千起去」もその例であります。

五千人もの弟子達が一時に法座から立ち去って行っても、釈尊はそれをお止めにならなかったのであります。こうして無理に引っぱって行くことも、押し止めることも一切されなかったにもかかわらず、みるみる内に帰依(きえ)者の数が、何万何十万となって行ったことは釈尊その人の比類なき感化かんか力や、説得力にもよったことは勿論ですが、何よりも教えそのものが尊く、そして誰にもよく理解し易いものであったのであります。大乗教は釈尊直道(じきどう)ですから、誰にも解る用語を使ってこと細く生活の中からにじみ出る慈悲の言葉をもって、人々の善導(ぜんどう)に精進するものでございます。

 

教祖の折々の教え

一、私は世界中を平和にするものは妙法より他にないと信じ、仏様のみ教えをそのまま実行させて頂くのです。                                                          

二、私の働きはみな世のため、人のための働きでなければなりません。                            

三、人を教化する第一は、まず自分が身をもって実行することです。                              

四、徳の力こそ一切を解決する根本です。お互いに人格を尊び合い、自分の一生を生かすよう、徳を積むことに努力しなければなりません。

五、私達は常に心の迷い、煩悩の除滅に心がけて、日常生活の中に、仏様の尊い悟りの道を歩みましょう。                                                

 

●●●●●●●●

 

●幸福になるには、まず幸福に到る道を求めましょう。                                        

●与えられた仕事に精出して働きましょう。喜び働く中から、必ず幸せが生まれてきます。

何時も健康で暮らしましょう。朝早く起き、今日一日生かされる御仏の御恩を感謝しましょう。健康な体に健全な悟りが出来ます。

慈悲深く、誠心誠意をもって、よく堪忍し、行住坐臥、道を歩む時も常に妙法蓮華経と唱えましょう。

 

●●●●●●●●

                                       

人間に生を受けるということは、まことに難しいことです。梵網経(ぼんもうきょう)に、

「仏、阿難尊者(あなんそんじゃ)を召し給い、大地の土と爪の上の土とどちらが多いか、と問い給う。人間に生を受けるは爪の上の土より難(かた)し」

と申されてあります。せっかく、この受け難い人界(にんかい)に生を受けながら、自らの煩悩の垢で尊いいのちを汚し、世のためにもならずして、地震・火災・水難・殺害等のいろいろな災難を受けられるのは、誠に残念です。

これらの災難を受けぬためには、どうしたなればよいかと申せば、

第一に妙法を唱え、

第二に慈悲心を養うこと。

この二つを実地に行なったなれば、いかなる災難も大難は小難、小難は無難となるのです。妙法を唱えることは行住坐臥とありますので、丁度自分の好きな書物を、食も忘れて読むように、仕事の折も、道を歩む時も常に唱えるのです。慈悲心を養うということは、一軒の家は、たとえ下男・下女に至るまで、みな自分の体を愛するようにすべての人を愛し、妙法によって、大難は小難となる道を教え導くのが慈悲心です。

 法華経寿量品(じゅりょうほん)に、

「衆生(しゅじょう)却(こう)尽(つ)きて、大火(だいか)に焼かるると見る時も、我が此の土(ど)は安穏(あんのん)にして、天(てん)・人(にん)、常に充満し、園林(おんりん)諸(もろもろ)の堂閣(どうかく)、種々(しゅじゅ)の宝を以て荘厳(しょうごん)せり」

 とある通りです。

私はまことに短才無智の者ですが、幼少の時から、どうぞ御国のために、人のために尽したいと心がけてまいりました。それには、どういうことが一番よいことであろうと考えました。まず世の中の人が一番苦しい思いをしておられることは、日々清い日暮しのできないことだと思いました。どうか世の中の人々に、清い日暮しをして頂くことが、私として御国のために尽す本分だと考えました。みなさんもよく考えて下さい。

 

●●●●●●●●

 

人の性は本来みな善であります。どなたでも善い道に進みたいと心がけない人はありません。それなのに悪い行いをする者があるのは、その境遇(きょうぐう)によるというものの、結局善に進もうとする意思が妨げられて、悪に引き入れられるからです。これを煩悩といって、この煩悩のために引き廻されなければ、必ずその目的を達することができるのです。

人間には過去に播いた善因(ぜんいん)も悪因(あくいん)も沢山あります。善の種を多く播いてあれば、善の結果となって結構ですが、悪因の方が多いために、これが煩悩となって善行(ぜんぎょう)を妨げられるのです。仏様は″煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)″と申されていますが、これは煩悩によって善行を妨げられんとする時、直ちに自己を反省して、悟りと変えることで、煩悩を悟りと変えて消滅するということは、中々容易ならぬ大問題です。けれども常日頃の心がけで、先祖を敬い、多勢の人々の便利を図り、御国のため、社会のために陰日向(かげひなた)なく働いているならば、その働きによって煩悩を悟りに変えることができ、これを功徳というのです。

この功徳を多く積めば、煩悩に苦しめられる時、悪の誘惑に陥らんとする時、これは正しいか、正しくないかの判別が早くつくのです。困難な立場に臨んだ時でも心を冷静に保って、苦しい境遇に出会っても、まだ小難で有り難いと悟って、さし迫った物事を善処(ぜんしょ)すべき方法を考えることができます。

他人から悪口をいわれても、自分の煩悩だと悟って怒らず、言われた時の気持を思って人を悪口せず、人の善行を見て自分の欠点を直し、人の悪行を見て、自分を反省して行く。このように悟れるようになるのは、積んだ功徳の力によるのです。ですから薄徳の者は、常日頃、功徳を積むことを忘れず、煩悩に打ち克つように努力し、暮さなければなりません。そうすれば煩悩そのままの中に悟りの道が開け、正しい人生を渡ることができます。煩悩を転じて悟りとする用意もなく、うかうかと世間に向ったならば、必ず煩悩のために打ち負けて、困り苦しむ悲境に陥り、ついに光明の世界に出ることはできません。

 

●●●●●●●

                                                 

三十年間経文を調べても、中々悟りはできません。三十年間経文を調べるよりも、三十年かかってよき師匠を尋ねた方がよい。あなた達は私が三十年も四十年もかかって実行した要の教えを教えてあげますから喜んで下さい。この会は、天から見ると御殿のようです。それは行う法が最第一の法だからです。炊事をしている人達も天から見ると、緋(ひ)の袴をはいている天女以上のことですよ。それだから何を見ても喜んで下さい。蒲鉾(かまぼこ)を見てもそう思って下さい。自分も魚に生まれて蒲鉾にされる因果もあるのだから、この因果を消滅しようと思って徳を積むのです。

                                     

●●●●●●●●

 

妙法を実行すれば、

一、貧者も福者となって、喜びの日が来ます。

一、病者も平癒(へいゆ)の喜びが来ます。

、愛する者に別れる苦しみに会いて泣く人も、善処の道が得られます。

一、己の目的の達せざる人も、成功域に達することができます。

一、煩悩多き人が、悩みを去ることも容易です。

一、社会より嫌忌(けんき)される人でも、仏は平等に慈悲を垂(た)れ給たまい、安穏を得せしめ給うのであります。

万法(ばんぽう)の中、抜苦与楽(ばっくよらく)の真実道は、妙法蓮華経の実行であります。

 

●●●●●●●

 

慈悲・誠・堪忍の三つを常に修養して、他事なく、妙法蓮華経、妙法蓮華経とお唱えなさい。そうすれば、お互いに我が身の罪障(ざいしょう)を滅することができるのです。

 罪障を滅し、本化(ほんげ)の菩薩という玉を磨けば光が出るように、我が身の光(仏性)によって、三世のことがよく分かるようになります。これが大神通(だいじんづう)を得る秘訣です。よく修行して下さい。そうして妙法を実行する人達を勧誘して、その人達の供養をし、善根(ぜんこん)を積んで行けば、必ず私のように神通が得られます。一生懸命に精進なさい。

 

●●●●●●●

 

私たちは宝の山に到るに、まず橋を造りましょう。第一、精出して働きましょう。だんだん世の中が複雑になってくるに従って、真面目さがなくなって、怠け者が殖えてくる。今の人間は働くということに対して苦痛のように考える者さえあります。私共はそういう考えをやめて、働くということは楽しみだということに改めましょう。お互いの目的を忘れず、お互いの仕事に興味を持って、身を惜まず働きましょう。

第二に健康を害しないようにしましょう。暴飲暴食を慎み、飲酒に当っても節酒して、乱に及ばざるよう心がけましょう。次に早寝早起きをしましょう。明快なる頭脳は早起きによって期待されます。早朝の清爽さは全日の快活な気分を保(たも)たしめます。早起きして無用無益の惰眠の時間を有益にすることは、将来に富者、智者、健康者となるべき根源たるを忘れてはなりません。第三に祖先の恩を忘れてはなりません。

 私共は祖先の分身です。私共のこうして暮らすについては、すべてこれ祖先の苦心の賜(たま)ものであります。常に祖先のために一心に妙法蓮華経を唱えましょう。故人がたとえ地獄・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)道(どう)にあるとも、妙法の功徳にて下界の苦悩から逃れられます。これが祖先に対する第一の孝養です。

 

●●●●●●●

 

よく世間では死んだ人々が、草葉の陰から守って下さるというが、草葉の陰には何がおりましょう。虫や蛇や蛙でしょう。このような境界にあって、どうして守護ができましょう。極楽には草など一本もありません。守護して下さる方は諸仏善神(しょぶつぜんじん)です。まず諸仏善神に守護して頂かなくては何事もできません。

しかし、お互いに人間は、罪障という悪因がある故に、悪魔道即ち悪神に囲繞(いにょう)されているため、健康を害するように夜更かしがしたい、朝寝がしたい、働くことが苦痛だということになります。あるいは婬慾盛んとなり、貪慾(とんよく)と言って今世(こんぜ)の蓄えしか考えないのです。そうして悪い方へ悪い方へと導かれ、自分さえよければ他人はどうなってもよい、施すべきものも惜しい気がして、善の種蒔きもせずして、どうしてその果実を求めることができましょうか。

しからば諸仏善神に守護されるには、どうしたらよいか。

第一に慈悲深く、何事も至誠(しせい)をもって臨み、我は大人である、無理を言う者は子供である。可愛相だ気の毒だと思って、決して腹を立てないことにします。即ち堪忍をして行住坐臥、道を歩む時も仕事をする時にも、南無妙法蓮華経と唱えるのです。その功徳によって悪魔を遠ざけることを得て、諸仏善神の守護を受けることができます。そうすると益々悟りがよくなり、とっさの災難も逃れることができます。大難は小難、小難は無難ともなるのです。

かくて自然と早起きもでき、身体も丈夫になり、だんだんよく働けるようになります。物を買うにも安く買えます。売るにも買い手の入り用な所へ持って行けるようになる故、高く売れます。またよく売れます。外出して雨に遇っても、帰宅するまで雨を降り止ませることもできます。

諸仏善神に守護されると、魔神に守護されるとでは大いに差があります。幸福と栄達(えいたつ)を期し、未来は極楽を願う人は、諸仏善神に守護されるように功徳を積みましょう。お互いにこれを心がけ、注意するならば、今の不景気も失業問題も容易に解決ができます。失業とか不景気を叫ぶのはお互いの不名誉です。一層努力して功徳を積みましょう。

古人の金言にあるように「徳は本なり、財は末なり」ですから、まず徳を積まねばなりません。

 

●●●●●●●

 

慈悲ということは、困り苦しむ人を気の毒と思って、その苦悩を取り去ってあげようと、安楽(幸福)を与えることに努力することであります。むずかしい言葉で申しますと、抜苦与楽と申します。

この娑婆世界(しゃばせかい)の一切衆生に現世は疎か、未来までも安楽を与える慈悲を大慈大悲(だいじだいひ)と言うのであります。大悲は抜苦に相当する言葉でありまして、世の中の人々が悪因縁のために悶え苦しんでおられる、その苦悩即ち罪障を抜き去らしめることであります。大慈は与楽に相当する言葉で、どうか現世は勿論、未来永遠までも安楽にしてやりたい、日常善因を作って、善果を得させるようにしてやりたいという、思いやりの所作であります。世の中であの人は親切だ慈悲深い人だと言われる人は、気の毒な人を見れば、同情して心を慰めいたわり、また物質を施して、その困窮(こんきゅう)を救済する人を言うのです。これは正しく慈悲の表れで、人としてなさねばならぬ心遣いであり、所作であります。

このように心を慰めたり、物質を施すことを、仏教では無畏施(むいせ)、財施(ざいせ)と申し、それだけでは大慈大悲と申されません。なぜならば、これには限りがあるからです。それでは、どうすれば大慈大悲となるかといいますと、無畏施、財施を行った上に、法施(ほうせ)と言って、この正法(しょうぼう)、妙法蓮華経の実行方法を教え導かなければ、真に抜苦与楽にならないのです。

この正しい法の妙法は、経文にありますように、難解難入(なんげなんにゅう)と申しまして、解り難く入り難しと申されてあります。過去に沢山の功徳を積んである人でなければ、中々入り難いと申されます。私が神通で調べたところ、もし一そのような方でも、どなたでも一たびこの有り難い法をお聞きになれば、今世では入り難くとも、二世もしくは三世には必ず入られますから、どうしても正法の聞かれない人は気の毒だから、後ろより妙法を唱えて合掌しておきます。どうかみなさん、一生懸命に正法の実行をして幸福になって下さい。

 

大乗教の三大原則

 

顔は心の看板なり

わずかな心の働きも顔に現れるものです。優しい心の人は人相も柔和になり、人に良い感じを与えます。

 

病気は心の現れなり

人間は肉体と精神によって生きています。健全なる精神と規則正しい生活が健康な体にします。

 

子供は親の心の鏡なり

子供は親の分身とも言われます。親は針の如く子供は糸の如しと言われ、良い子供は良い親によって育ちます。