今、まさに私達は世紀末を迎えようとしています。仏教では、現代のこうした時代を末法悪世と言っています。末法とは世の中が不安定で激動の時を意味しています。
世の中のモラルが低下し、最近では多くの毒物混入事件が世間を騒がせ、その上、教育界や子供の世界まで、いじめや、殺人事件が出現する時代になってまいりました。また、経済界においても、世界は大変な時代に突入してまいりました。人々は何を頼りに生きていったらよいか分からない状況になっています。
さて、私達は、こうした時代をいかに生きていけばよいのでしょうか?今こそ、人間の心の重要性を考えなければならない時期に来ていると思います。心のあり方が問われているのではないのでしょうか?
貪欲の心とグローバル経済
人間の貪欲(限りない欲望)と今日のグローバル経済との関係について考えてみたいと思います。
グローバル経済は世界規準の経済と言われています。世界規準というと立派に聞こえますが、実際はマネーゲーム化したバクチ的要素が強いのです。
そこには、人間の倫理的な心はありません。ただあるのは、儲かればよいという貪欲の心があるだけです。
1997年夏、東南アジア(タイ、インドネシア、マレーシア、シンガポール)の経済は外国のヘッジファンド(投機会社)によって通貨、株価が暴落し、経済危機に追い込まれました。
昨年、来日したマレーシアの首相マハティールはそうしたヘッジファンドを激しく非難しています。
『ヘッジファンドに金を盗まれた。彼等の存在は価値なく経済にも不要である。・・・暴利を貪って何とも思わない連中から、社会や国家を防衛しなければならない。・・・通貨の売買、為替取引は不必要なものであって、非生産的なものであり、倫理にももとるものである。』
これは、グローバル経済の花形であるヘッジファンドの本質をよく見抜いた鋭い批判であります。
何もモノを作らなくて、手に汗して労働もしなくて通貨や株を売買するだけで利益を得ようとするヘッジファンド。ただ儲かればよい、その国が経済的に崩壊しようとしまいと、そんなことはどうでもよい。
こうした身勝手な考え方がグローバル経済の根底にあるように思われてなりません。
ドイツの蔵相ラフォンテーヌもやはりグローバル経済を次のように批判しています。
『為替市場はグローバル・カジノになった。』
今や、市場はマネーゲーム化したバクチ場にすぎないのです。
今日のグローバル経済こそ、末法悪世、凡夫の貪欲の心の現れにすぎないのではないでしょうか?
モノの世界から心の世界に
仏教の開祖釈尊は、人間にとってもっとも大切なのはモノではなく、心であると説いておられます。
仏教教典には、到る所で、心の重要性が説かれています。
心の重要性が説かれた一つの逸話を紹介いたします。
釈尊は、悟りを開いて教えを伝道します。
それから、数年経ったある時、釈尊の父親である浄飯王よりの依頼があり、釈尊は自分の国に説法のために出向かれます。
国王である父親浄飯王はたいへん喜びました。自分の子が仏陀(悟りを開いた覚者)に成ったからです。当時のインドにおいては、仏陀とは宗教者の最上の名称でした。
釈尊、故郷にかえる
釈尊は弟子をたくさん連れて、故郷に帰りました。そして、その時の服装はたくさんの弟子と同じ黄色い衣を着ておられました。
浄飯王 『おお、皆、同じ姿で、誰が釈尊であるか、遠くからでは見分けがつかない。』
・・・やっと、我が子、釈尊と再会した父浄飯王は釈尊の着ている衣のことについて次ぎのように語りかける。
浄飯王 『釈尊よ、私はおまえが、もっと立派な身なりで帰ってくると思っていたのに・・・弟子たちと同じではないか?』
・・・この父浄飯王の問いに対して、釈尊は、
釈尊 『私は自分の心をみがいてまいりました。美しい着物も城もやがては汚れてしまいます。でも、ブッダの心は汚れることがないのです。心さえ立派ならば、それが本当の幸せです。』
ここで、はっきりと人間にとって最も大切なものは心であると説いておられます。
なぜならば、モノや城および形あるものは、諸行無常であって、かならず変化し、生滅する定めをもっているからです。
しかし、仏の心は永遠に変化いたしません。
今日の人々は、モノやお金が人間を幸せにしてくれると思っています。
しかし、釈尊は、人間にとって大切なものは仏の教えに基づいた心であると説いておられます。
『まことに世は夢のようであり、財宝もまた幻のようなものである。絵に見える遠近と同じく、見えるけれども、あるのではない。すべては陽炎(かげろう)のようなものである。』
モノやお金に執着している迷いの心が生まれ、苦しみの世界を作り出すことになるのです。
わが教団の教祖杉山辰子先生はいろいろな社会事業すなわち、福祉の事業を行われました。
数年前、中日新聞では『ボランティアの先駆者』として教祖先生の紹介がありました。
教祖は病人を治すには、精神療法(仏教の教え)と医学の両面が大切であるとして、明治40年、信天病院を名古屋で開設されました。教祖は、お金のない人には無料で奉仕的に、医療活動を行われました。
東京、静岡、九州において、ハンセン氏病患者救済も積極的に参加されました。ハンセン氏病患者と一緒に入浴されたこともあったと言われます。
災害等にも、すすんで援助活動もなさいました。
まさに、ボランティアの先駆者と呼ばれるにふさわしい行いをされました。
なぜ、教祖先生は、こうした奉仕活動をされたのでしょうか?教祖先生は法華経の精神に基づいて、菩薩行としてこれらの奉仕活動をされたのであります。
それでは、なぜ、菩薩行をしなければならないのでしょうか?
菩薩行の目的は、自分の心を磨くためです。自分の心を磨くことが、釈尊の教えの根本であるのです。
菩薩行が煩悩の心を救う
釈尊は、人々が、苦しみ悩む原因はむさぼりの心にあると説いておられます。地位、名誉、財産をむさぼり、一度、自分のものにすると、それらのものに執着する。
そうした、執着の心が苦しみの世界をつくるのです。菩薩行をすることによって、苦しみのもとである執着の心、すなわち煩悩の心が消滅していくのです。
悟りの眼(まなこ)を持った釈尊は説かれます。
『高位高官を、私は旅人のように見ています。金銀宝石を、私は砂利のように見ています。白絹の衣を、私は雑巾のように見ています。』
合掌
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