人は誰もが幸福を望んでいます。幸福になるにはどうしたらよいのでしょうか?これは人間の永遠のテーマです。
仏教の教えに基づいて、こうした幾つかの問題を考えてみたいと思います。
モノの見方が大切・・・正見
釈尊は、菩提樹下で、真理の法を悟られました。その悟りに基づいて、我々に幸福になれる道をお説きになりました。
その教えの中に八正道(八つの正しい道)という修行方法があります。その八正道の第一に、正見(正しく見ること)が説かれています。
物事を正しく見るということは、簡単なようですが、難しいことであります。
釈尊によれば、人は幸福になるには、まず第一に宇宙の真理(森羅万象を支配している法)を正しく見ることが大切であると説かれます。物事を正しく見ることが出来なければ、人はなかなか幸福になることが出来ません。
正見とは、ただ、私たちの世界を自然科学的に見るということではありません。すなわち、自然科学的なモノの見方ではありません。
人間の心の働きも考えなければなりません。
なぜ、私たちは苦悩(四苦八苦)の人生を生きなければならないのか?なぜ、人生は苦であるのか?こうしたことをも、正しく見ることが大切であります。
心は自然科学では救えない
現代人の私たちは、物事を眺める時、何時の間にか、自然科学的な立場から眺めるようになっています。それはなぜなのでしょうか。まず、考えられることの一つは私たちは日常生活で、到る所、自然科学の恩恵を受けています。(例えば、携帯電話、テレビ、パソコン)
医学の方面でも、CT、MRI等の画期的な機械ができ病気診断で威力を発揮して、私たちは、さらに進んだ医療を受けることが出来るようになってまいりました。
自然科学は私たちの日常生活を豊かにし、医療も高度になりました。しかし、だからと言って、自然科学は万能ではありません。すべての人間の問題を解決することは不可能です。自然科学では人間の心を百パーセント救うことは出来ません。
例えばもし、不治の病になった時、お医者さんは病気の治療はしてくださいますが、患者や、その家族の心の苦しみや悩みまでは救ってくれません。
病気に対する不安の心。限られた人生をいかに生きるか。人は何のために生きるのか。死の恐怖をいかにして乗り越えるのか。こうした問題は宗教でしか解決することができません。人の力では変えることの出来ない老・病・死の問題。これはまさに、宗教の領域です。
それにもかかわらず、現代人は、自然科学が万能で、人間の悩める心をも救ってくれるかのように思ってしまいます。しかし、実際にはそうではありません。自然科学には限界があります。
人間が生きていく上には、心の支えとなる宗教が必要になります。分かりやすく言いますと、宗教を持たない人は、明かりなく暗闇を歩くようなものです。
宗教は過去の遺物ではありません。私たちの人生を照らす大切な灯火でもあります。
偏ったモノの見方・・・物質世界
釈尊が、晩年に説かれた法華経(釈尊の本懐が説かれている経典)、如来寿量品第十六の中に、凡夫顛倒という言葉があります。
凡夫とは、煩悩にとらわれている人をいいます。顛倒とは逆さまという意味です。
凡夫顛倒とは、教えの無い愚かな人々は、物事を逆さまに眺めているという事です。すなわち、凡夫は物事を眺める時(認識)、偏った見方をして正しく眺めていません。物事の真実を正しく認識していないということです。この結果、偏った価値観を持つことになります。
どうでもよいものを大切であると思ったり、大切なものをどうでもよいと思ったりしてしまいます。
少し違った角度から言えば、物事を見る時、今日の人々は物質的なもの、自分の目に見える世界のみを大切にしているように思われます。
しかし、この世に存在するのは、モノ(物質)の世界のみではありません。心の世界も存在するのです。このことを、特に若い人は忘れてしまっているのです。
心の世界・・・・・仏の世界
心の世界の存在について、お話し致します。法華経如来寿量品第十六の自我偈(じがげ)の中にハッキリと心の世界のことが説かれています。
『我がこの土は安穏にして天・人常に充満せり・・・我が浄土はやぶれざるに、しかも衆は焼け尽きて、憂怖(うふ)、諸々の苦悩、是の如く悉く充満すると見る・・・・・』
この経文は、仏の世界を説明しています。
すなわち、仏の世界(浄土)は、物質の世界を離れたところにあります。ですから、焼けたり、壊れたりすることがありません。
もう少しわかりやすく言えば、仏の世界は心の世界(精神の世界)です。物質の世界ではありません。
しかし、今日の人々は自然科学の影響のせいか、物質の世界だけに執らわれています。
人間は肉体と心を持っています。
確かに、モノ(物質)も大切ですが、モノだけでは、真の心の安らぎを得られません。
法華経のこの経文によりますと、明快に、人間にとって、最も大切なものは心であると説いておられます。
心の財 第一なり・・・お金・健康・心の豊かさ
法華経の行者である日蓮聖人は、人間にとって、最も大切なものは、心の財であると言っておられます。
『蔵の財より、身の財すぐれたり、
身の財より、心の財第一なり』
この場合、蔵の財とはモノとかお金を意味しています。身の財とは身体の健康を意味しています。すなわち、人間はモノやお金よりも健康が大切であるということです。
そして、さらに、人間にとって大切なものは、身の財より、心の財であると説いておられます。確かに、身体の健康も大切ですが、命には限りがあります。身体は時間的束縛を受けなければなりません。
それに対して心の財は何者にも制約されません。こうした考え方は、今日の私たちにとって、必要であると思います。
自然の美しさを心で味わう世界
江戸時代のお坊さんで俳句等で有名な良寛さまの生きざまを眺めてみたいと思います。良寛さまは生涯において自分の財産というものは何もありませんでした。
生涯のほとんどを、越後(新潟県)の五合庵という簡素な庵で暮らしました。大人である良寛さまが、子供たちとかくれんぼをしたりしたことは大変有名な話です。
晩年、ご信徒たちより、何か形見をくださいと依頼を受けました。その要請に良寛さまは俳句で答えました。
『形見とて、何か残さんぬ 春は花
山ほととぎす 秋はもみじ葉』
この俳句の意味は、日本では春になると、色々な美しい花が咲き誇ります。山にはほととぎすが鳴きます。
秋になると、もみじが美しく紅葉いたします。こうした、自然の美しさを心で味わう世界。こうしたことが、良寛さまの形見でした。
良寛さまは、無一物(むいちもつ)です。大変貧しい貧乏僧でした。しかし、これほど心豊かな人はありません。心を大切にした良寛さまに学ぶことは多いと思います。幸福への道は、モノの見方を変え、心の立て直しをする事です。
人生、大切なのは心の世界ではないでしょうか。
合掌
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