「宝塔」第235号
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偏(かたよ)らないこころ

  ドリーム・ジャンボ宝くじが発売され、何と一等の賞金が二億円、一番違いが五千万円で前後合わせて三億円という馬鹿でかい賞金の宝くじは大人気である。

 今や億の時代である。

 不景気の昨今、せめて夢だけでも楽しみたいというのが庶民の願い。私の妻が、買ってみようかしら、当たったらどうしよう、と買わないうちから変な事を言う。

 でも誰かが当たるのだから、やっぱり買わないとね。

 確かに誰かが当たる。きっと当たったら宙にも登る思いだろう。日本中で何人かの人がそんな思いをするのだ。当たったら何に使おう、寄付でもしようか、兄弟に分けようか、家を建てようか、世界旅行でもしようか、と様々に思いは巡る。まさに捕らぬ狸の皮算用で面白い。

 本当にお金の魅力は凄い。お金は無いより有った方がいいに違いない。しかし本当にお金が幸運をもたらすのか。ちょっと当たった場合を想像してみよう。

 まず本当に当たるとは思っていないけれど、夢として買ってみる。その宝くじが当たったら、必ずうろたえる。

 しばらくして現実だと分かり嬉しくて仕方がなくなる。

 たいていは誰かに当たった事を伝えたくなる。

 黙っておれないのが人情。さてその噂は世間に知れる。まず兄弟、親戚などがお祝いにやって来る。お祝いなどは上辺で、内心はお裾分けが本命である。少しぐらいは飲ませたり食べさせたりで使う。でも当たった額によっては飲み食いぐらいではおさまらない。やはり何がしかの現金のおねだりが始まるのでは。これは何としても惜しい。だったら最初から秘密にしておこうかしら。さあ、夜も眠れない。

 今まで欲しくても買えなかった物を買うことにする。少しくらいならいいわ。あれもこれも、気持ちは大きくなる。知らぬうちに百万、二百万と使って消えていく。

 そのうちに、使い癖が身について生活も派手になる。仕事も段々に疎かになって、ついにやめてしまう。

 巨額の財産を一度に得て人生が狂う。世間には一家破滅の悲劇を生んだ家庭もある。

 今は情報化社会といって家に居ながらにして世間の様子が手に取るように分かる。良い事も悪い事も。

 ショッピングもわざわざ出て行かなくても出来るようになった。パソコンのインターネットなどは今や大流行だ。旅行の情報も、スポーツも、レジャーも、買い物も教えてくれ、欲しいものがあればすぐ届けてくれる。テレビからの情報、ホームメイトと言われる通販、テレホン勧誘販売、新聞の折り込み広告等数えたらきりがない。全く便利な世の中だ。欲しい物は自由に買える。今現金が無くてもローンの支払いで現物を手にすることが出来る。旅行代金もローンで支払い、マイホームもローンだ。

 ちょっと気を許したら買い過ぎて、支払いが出来なくなってしまう。そこでサラ金を利用する。すぐに返さないと金利がかさんで、恐いお兄さんに返済を迫られる羽目になる。欲しい物が手に入って、暫くは極楽だが、それも過ぎるととんでもない地獄が待っている。

 欲望も手放しで満たそうとすれば、一生も棒に振る事になる。

 町に出れば美味しい食事が食べられる。会社の帰りに一杯飲みに仲間と暖簾(のれん)をくぐる。これもほどほどにしないと身体が続かない。無茶が改まらないと病院行きだ。

 分かっていてもつい誘いの手に負けて、好きな酒は止められない。悪い癖だ。

 よく考えてみると、不幸になると落とし穴がいっぱいある。欲望にブレーキを掛ける事が出来ないと、地獄に真っ逆さまだ。取り返しが出来ない。

 心は揺れ動く。目に映るもの。耳にする言葉に惑わされ苦しみの波に飲まれる。自分が選んだ道なのだ。誰のせいでもない。自分が受けて行くより仕方がない。誰も代わってくれない。だからこそ余程心して人生を歩まないと暗い人生になってしまう。

 人は自分の不幸を他人のせいにするが、その人に出会った事も自分の責任。騙(だま)されたというが騙(だま)された自分が悪い。この世に生まれたのも自分の責任。良い親に恵まれた人、良くない親を持った人。みんな自分の責任なのだ。これをお与えといわれる。そのお与えの中で自分の生き方を判断しなければならない。

 人との出会い、会社との出会い、その中で嫌なことにとらわれて自分を見失う人。苦しみは自分が作る、苦にする、取り越し苦労と言う。

 私たちはお金があればお金にとらわれ、お金に苦しめられる。無くすまいと欲をかく、無ければ無いで寂しい思いで暗い心で日々を過ごす。いずれにせよ心が揺れる。

 いつも他人が妬ましく、ちょっとも自分が喜べない。生活が楽でも、苦しくても人は不平を言いたい。楽しい生活も慣れればそれ以上のものを求め、もっと何か良いことは無いかと望み、苦しい事があれば人に会うことも嫌になり、世間から逃避したくなる。

 人間は自縄自縛(じじょうじばく)と言って、自分で自分をがんじがらめにして苦しむ。

 これを仏教では執着という。物にとらわれ、金にとらわれ、人の姿や言葉にとらわれ、名誉に、そして好きなもの(道楽、趣味、酒、ギャンブル)にとらわれ、自分を見失って人生を駄目にしてしまうこともあります。

 どうしたら執着から離れる事が出来るか。

 それは中道の実践だと教えられます。

 お彼岸は春や秋に二回ありますが、暑くもなく寒くもない時期です。仏教の中道から来たもので人生の幸せは春や秋の気候のようにのどかな状態を現わします。

 私たちは自分の思いどおりにならないと、怒ったり愚痴を言ったり争ったりして病気、災難、不和の基を作ります。これは自分の考え違いやエゴからくる小さな了見だといわれます。

 常に自己を反省して、他人から自分を眺めた場合の事を考え、寛大で優しい心であるよう努める修養が、迷いの世界(此岸―しがん)から悟りの世界(彼岸―ひがん)へ入る(到彼岸―とうひがん)と申します。

 こんな佛話があります。お釈迦様が山の中での修行中の事でした。その修行はとても厳しく、ある時は燃え盛る焚き木の側に身を横たえて身を焦がす難行をしたり、またある時は、いばらの木の上で寝て身体から血を流す苦行などでそれはすさまじく、断食も何百回と繰り返されました。バラモンの行者の指導による難行苦行が六年も続きました。ある時、山の近くを楽器(シターン)を奏でながら歌って通る男の声が聞こえました。

 その歌は、修行中の太子(お釈迦様が仏陀になる前)に聞こえ心をとらえました。

 ♪弦の糸が強ければ 良い音は出ない 弦の糸が弱ければ良い音は出ない 強からず弱からず 糸はほどよく張るが良い 糸はほどよく張るが良い♪

 太子はこの歌声を聞きながら、自分の行っている修行を振り返った。死ぬほどの苦行が自分にとって果たしてどれだけ悟りにつながるのか。ただ身を痛めるだけではないのか。清浄で安らかな境地こそ、正しい悟りを得る事が出来る。その事が分かり、下山され尼蓮禅河(にれんぜんが)の流れに苦行で汚れた身体を清め、菩提樹下にて瞑想に入られ十二月八日の朝、暁の明星が光るとき正覚(さとり)を得られました。

 人間は身を苦しめ過ぎても、楽をし過ぎても良い生き方とは言えません。

 仕事をするのも、身体を壊すほどしては正しいと言えません。また、楽を好んで努力をしない人も間違っています。仏教ではこの心のコントロールが大切と教えられます。

 何事にもとらわれない心。辛いことも、楽しいこともそれにとらわれてしまうと自分を見失うのです。

『晴れてよし 曇りてもよし 富士の山 元の姿は 変わらざりけり』

合掌

宝塔第235号(平成11年8月1日発行)