小さい時計の針が、 大宇宙の歩みを教える。 永遠の時の流れを教える。 だから時計は人間の生活になくてはならぬものとなった。宗教もそうではあるまいか。 文明の進みと共に、
宗教は人間生活の羅針盤(らしんばん)となる。
血液は血管を流れてその道を守り、 生命となる。 もし血が道を破れば脳溢血(のういっけつ)・喀血(かっけつ)・吐血(とけつ)等の症状になる。これは恐ろしい事で、 出血は死をも意味することになる。
私どもは道義を守ってこそ人の価値高く、 価値高くして尊ばれる。 大切にされる資格が出来る。
だから人間は幸福を求めるより、 道を求むべきではなかろうか。
以前ある中年の奥さんからこんな相談を受けたことがあります。
「主人は共に苦労している間は、 非常に真面目な人でしたが、 お金が少し出来て生活が豊かになりますと、 ふしだらな男と一変してしまいました。 実はある女の方に身も心も奪われたようになり、 苦労して溜めたお金を持ち出す様になり、
私は全く身を削られるような思いで毎日を過ごしております。
いっそ別れようかと何度も思いましたが、 子供の将来を考えますと、 可哀相で出来ません。
最近は主人のことはすっかり諦めておりますが、 金を持ち出されるのには困っています。
何とかならぬものでしょうか」
こんな主人を持って泣いている人は意外と多いようです。時勢の変動で思わぬ金を沢山掴んだ人の家に多いようです。 娘のような女を相手に妻子を忘れている姿は、いい歳をして何ということかと呆れることがあります。
この奥さんはまるで「
新しい女に夢中であるから主人は諦めます。 主人は死んだと思えば済む。 但し、
金が出ていくのは困る」と仰っているかのようです。金が出るのが諦めきれないということは、 主人よりも金の方が大切だと思っているようにも聞こえます。
主人よりも金の方が大切だと思う人は、 立派な奥さんとは言えない。 教えでは
『徳が本なり、 財は末なり』
で、金そのものはそれほど大切なものではない、と聞かされます。 奥さんに尋ねました。
「商売で努力されたから確かに金は貯まったでしょう。 だが、 その金を使って人の為、
世の為に徳を積まれた覚えがありますか。金は積み上げられたが、
徳を積み上げられた覚えはないでしょう」
仏は徳のある人、 徳を積まれた家を 『よき運命』
と言う名の下に護って下さいます。
あの家には金があるから護ってやろう、
財産が出来たから護ってやろう、 とは教えられていません。 仏が護って下さるのは 『金』 がその対象ではなく、 『徳』 であります。
貯めた金を人を喜ばす為に使う。
先祖・親・世の為に捧げて徳を積み上げてこそ金が尊くなり、 金が徳に変わり、 そして徳がその家を護り、 その人を護ります。 世の為、 人の為にもならず、 金だけ持っている家は護られません。 そんな家には不幸が現れます。 現実の姿として金は出来たが不幸が絶えない気の毒な家庭が出来てくることになります。 徳の無い単なるお金には何の力もありません。 無理をして貯めた金と、 無理せずに集まった金とあります。
過去の積徳(せきとく)と努力のお蔭で人の喜びと感謝の中に集まった金と、 人を泣かせ、 人を落とし、
人を突き飛ばして無理やりに集めた金とがあります。 同じ金でありながら、 その性質が非常に違います。 金の違いはその使われる時に現れます。 徳のある金と不徳な金とは、 その行方が全く違っています。 金を病気や不幸で泣いて苦しんで出して行く人は、 不徳な人です。 不倫、 おごり、 わがままの不徳となって出て行く金は徳の無い金です。 人の為、 世の為、 親先祖の為に、 喜びと感謝の対象となって出て行く金は徳のある金であります。
火鉢の中にある火と蒲団の上に落ちた火とは同じ火でありますが、 非常に尊さが違います。
火も使い道を誤れば害になります。 それと同じように、 金もまたその使い道によって害にもなれば尊くもなります。 徳にもなれば不徳にもなるのです。
努力もなく土台もなく、 まぐれ当たりに急に金を掴んだ人達が、
遊興(ゆうきょう)と不倫等の道にしか金を使えないのはその金とその人に徳のない姿を現したものであります。金を尊いことに使って金の徳を積んで行く、 その金がまたその人に良き運命と幸福を持って来る。 とにかくお金の本質についてよく考え直して下さい。
不徳な金は悪銭と申します。 「悪銭身につかず」 と
申します。 お金そのものは食べれません、 飲めません。
金を持っている間は取られはしないか、 落としはしないか、 と心配の種でもあります。 しかし、 お金が役に立つのは、 持っている時ではなくて、 その金が出て行くときだけであります。 出て行く時に一度だけ役に立ちます。役に立ったら、
その時が縁の切れ目であります。
お金が役に立ったら、 既に他人の 「ふところ」 に入って他人のお金になっています。 金は常に逃げることばかり考えているようです。 そして出掛けに一度だけしか役に立たない。 お金はあまり人間を好かないようです。 逃げだすことが金の役目ではないかと思われます。 それで人間は逃がすまいとする。 出すまいとする。 「ふところ」 に入れておきさえすればそれで安心と思いたがる。 金と人とはそんな間柄にありますが 「ふところ」 に入れるだけで、
果して安心でしょうか。 入っただけでは安心が出来ません。 入って出て行って始めてそれが役に立ったことになります。 蟹を食べて喜んでいた人が二時間後に食中毒になって死んでしまった例もあります。 食べたもの飲んだもの、 それが悪くて死ぬ人がいます。 だから、 入っただけでは安心できません。
入って時が経ちそれが出て行く。 汗となり、 精力となり、 便となって出て行く。その時に始めて役に立ったかどうかが分かります。
食べてやがて空腹となる。 入っては出て行く。 また入ってまた出て行く。 無限に繰り返されて行く、 そのうちに入ったものとは全く別なもの、 「生命と力」 が出来てくる。 よく食べよく減る、 よく飲みよく出る。
この二つが鮮かに行われる人が元気の良い人であり、 健康な人であり、 幸福な人でありましょう。 入れる方だけは実によく入れるが、 さっぱり出さない人、 汗も便も力も出さない人は、 身はやつれ生命は縮まります。 入れること出すこと、 食べることと腹の空くこと。 この相反する二つが合わされ一つの道が成り立ちます。 どちらも一方だけでは仏様の護りはありません。 お金もよく集めて正しいことに使われて行く。 そこにその家の運命が伸びます。 徳が積まれ幸福が恵まれます。 入った金そのものが大切ではないのです。 入って正しいことに出て行く。 その後に徳が残る。 その徳を仏様が守護される。 この守護が大切です。
金を沢山取り入れるとその人の財産は殖(ふ)える。
境遇(きょうぐう)は良くなったように思われましょう。 しかし、 金を持ったから 「運命」 が良くなるのではありません。 これをよく悟って下さい。 その金が 「徳」 に変わっただけが良き運命となり、 仏様の守護となることを考えて頂きたいと思います。
人の世の姿は常に変わって行きます。
無常の世は如何(いか)に変わっても仏法は永久に変わりません。
人間には尊い勤めの道― 「徳」 が沢山あります。 道に捧げきる人が尊い人であります。
いつかは無くなる金ならば何か尊いことに使う。 それを見つけて捧げきって金を 「徳」
に変えることだと思います。
徳の高い正しい家には徳のある子供が育っている事を教えられます。
教祖の御教えに、 こう教えられます。
徳積めばものは自由になるものを、 徳も積まずに、
嘆く世の人
本当の財産とは 『徳』 であることを教えられます。
合 掌
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