昔から「心、鏡の如し」と言って、人間本来、心と言うものは鏡のように清浄でなくてはならない。鏡の前に物をおけば映るが、物を取り去れば消える。たとえ鏡の前に汚れた物を置いても鏡は汚れない。と言って美しい物を置いてみても、綺麗(きれい)にはならない。重量が増しもしなければ減りもしない。香りもつかねば色も変わらない。この様に我々も物事を素直に映して、しかもそれに執着(しゅうじゃく)して染まらない無垢な心を持たねばならない。その無垢な心はまた、太陽も星も富士山も大海も全て自在に映し入れることが出来るだけの偉大さを持っているのである。
これを栄西禅師(えいさいぜんじ)と言う方が、
「大なる哉(かな)、心や。天の高き極(きわ)むべからず、而(しか)も心は天の上に出(い)ず。地の厚さ測るべからず、而も心は大千世界(だいせんせかい)の外に出ず。大いなる哉、心や」
と、人間のもつ心の自在にして偉大であることを賛嘆しておられる様に、実に人間本来の心は清浄無垢にして広大深遠なものであるのに、なぜかすぐ身近に起きる小さな出来事に捕らわれて心は汚れ曇って、その出来事に左右されて動揺するということは、欲か、心の弱さか、業のなす煩悩(ぼんのう)の姿であろうか。
東海道を旅する若い二人の僧がいた。この二人の僧が細い田舎道で道一杯に広がった水溜まりに出会った時のことである。向こう側に一人の娘さんが、その水溜まりを渡ることが出来ず当惑(とうわく)しているのを見た僧の一人が、ジャブジャブと水溜まりの中を進んで娘さんを抱いて渡してやって、何事も無かった様に先を急いで宿に着いた。
だが、治まらないのは今一人の僧である。よほど我慢がしきれなかったのか、突然「貴僧(きさま)は仏に帰依する身でありながら、女人を抱くとは何事か・・・」と言葉強く詰め寄った。女人を渡した僧の方はニコニコしながら、「貴僧(あなた)は、あれからずっと女人を心に抱いて来られたのですか、私は女人を渡すと共に女人に対する心も置いて来ました・・・」と言われて、怒った僧は深く恥じ入ったと言う。
この女人を渡した僧は名を原但山(はらたんざん)と言って、後に名僧となられて世の為に尽くされたと伝えられている。この様に何事にも動揺しない心境は尊いものである。
ある日、私は、小柄で色白なお婆さんにお会いした時いつもニコニコしておられるお婆さんが、何とその日はアゴの所が紫色に腫(は)れ上がっているので、私は驚いて、
「お婆さん、アゴはどうされましたか」
と尋ねると、
「昨夜遅く帰宅の途中、人通りの少ない路上で若い男に殴られて手提げ袋を取られました。これは、その殴られた跡です。でも、その若い人は気の毒でした。怖い思いをして袋を取って逃げたでしょうに、袋を開けて見てお金が入っていないので、がっかりしたでしょう。私は大難を小難ですませて頂き罪を取ってもらったと喜んでおりますが、若い人は本当に気の毒でした」
と、災難を受けたお婆さんが、殴って袋を取って逃げた若者を哀れに思っておられる。我が事より相手の身を思って情けを施す。この心ほど尊いものは無い。誰にでも、この心があれば争いは起こらず和合は保たれる。
人に慈悲を施し、人を救ったり人の為に尽くすことも人の幸福を願うことも、全てが結局、自分の身を護り、自分が幸せになり、その幸福を保つことになるのだが、それが出来ない所に不幸があり、争いがあり、苦しみがある。だから、一つ一つの出来事に出会った時の自己の心が事に執着せず染まらないで無垢な心で居られるか、執着して汚れた心に落ちるかによって、そこには大きな運命の差というものが現れてくるのである。
仲の悪い親子がいた、小さな町で、その親子は別居して同じ商売をして争うのだから始末が悪い。これを常に心配して何とか教えを聞いてほしいと弟さんが勧めるのだが、中々もって堪忍のいる修行である。
「兄さん,父さんにも悪い所があるだろうが、何と言っても親のお蔭で私たちはこうして成長し、社会人として生活も出来る様になったのだから、親に対する考えを悪く持つという事は人間としての道を誤っている事になる。
兄さんが親に対して道を誤っておれば、兄さんの子供がまた親である兄さんに対して道を誤った生活をする様に必ずなる。これでは誰もが不幸ではないか。親に対する道を誤った者で、そのまま最後まで栄えた者はいない。親が子供に頭を下げるよりも子供が親に頭を下げた方が徳が積めるのだから、親に対する悪感情を捨て、和解して是非親とは仲良くしてくれないか・・・」と事ある度に兄の為を思って修行の道を勧めても、兄は受け入れようとしないばかりか、むしろ反発的に、お祭りや、法事の時の様な人の集まる時に、所構わず弟さんに対して「お前は俺に親不孝者は幸せになれないとか、道を外れているとか、不幸になるとか言うが、俺は立派な家に住んで商売も調子が良く経済に恵まれて何不自由なく過ごしている。なのにお前はどうだ、古臭くて狭い社宅にくすぶって貧乏な生活をしているではないか。何が教えだ、何が修行だ・・・」と言った具合で、決して受け入れようとしない。その兄に対して、弟さんの真心には決して変わりは無かったのである。
そうしたある日、父親と兄は大喧嘩をした。父親は、兄の暴力の為に顔や頭をボコボコに腫らして弟さんの家へやって来た。弟さん夫婦はすぐ介抱したので、高ぶった気持ちも落ち着き腫れも引いて帰っていかれた。その場は事は治まったが、それから間もなくして、父親は亡くなってしまった。
月日は過ぎて父の三回忌が近づいた頃から、兄の歯が痛むようになり、数軒の歯医者へ行ったが悪い歯は一本も無いということだった。しかし、痛みは強くなるばかりで、ついには頭がわれるほど痛む様になり、大学病院での結果は、手遅れならば命も危ないと言われ、すぐ手術をすることになった。病名は頬癌だった。その日が、丁度父の三回忌の日だったのである。
兄を思う弟さんの真心が始めて通じる時が来たと言おうか、弟さんの強い説法にこの兄さんは心から父親に懺悔をされ、精神的に生まれ変わることを誓われた。
手術後の経過も良く、医者が驚いた程、早く退院する
ことが出来た兄さんは、菩提心を起こして父親の供養に
励み、母親を労(いたわ)り、弟妹にも思いやりが深くなっていかれたのである。
心、鏡の如く清浄無垢に、ひたすら親を思い、兄の為を
思って慈悲を施した弟さんの精進が、ついに兄の心を救
ったのである。
「相手に福を与える者が、徳を招いて栄えていく」
と仏法は教えている。その仏法の実践は、各人がいかなる環境の中にあっても、その事に執着しない染まらない自在の心から出来上がって行くものである。
むくわるる仏陀の教え有り難く
世の人々に恵み与えん
今日だけは 親に感謝して業に励め
今日だけは 怒るな 愚痴言うな 欲張るな
今日だけは 人の悪口を言うまい 聞くまい
語るまい
今日だけは 人の長所を誉めて 認めて
見習おう
今日だけは 威張るな 力むな 突っ張るな
今日だけは 人は誉めても自慢をするな
今日だけは 鬼もいなけりゃ 蛇もおらぬ
罪と悟れば 世の人全てが 生如来
合掌
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