よく諸行無常(しょぎょうむじょう)の風が吹くと言われる事がありますが、この言葉は、身近な人でも亡くなられたり、立木の木の葉が枯れて、ちらちらと散りはじめ、秋風が吹いて来ますと、何か心の中までその淋しさが伝わることもあります。栄えた家が落ちぶれて行く姿、幸福な家庭に突然と不幸が訪れて、泣き崩れている家の姿等、こうした事に遭遇(そうぐう)しますと、心から諸行無常と言う言葉が身に沁(し)みて思い浮かぶのですが、この意味は、この世の中の全てのもの、その行いも、人々の心も、何時までもこのままの姿で止まる事なく、常に移り変わって行くものであり、変わって行かないものは何一つ無いとの意味です。
財布の中のお金も増えたり減ったり、無敵の横綱が力尽きて角界を去ることも、しかし、その後には新しい芽が息吹き、死ぬ人があれば新しい生命が誕生する。古く傾いた家が壊されると、そこには新しい家が建ちます。
目を外に移し、長い時の流れを見ますと、現在のままで何一つとして止まらない。この移り変わりの様を仏様が諸行無常と説かれたのであります。
このありのままの姿を実相(じっそう)と言い、そしてこの移り行く姿は何処から生まれて来るのか、何処へ行くのか、この原理を説かれたのが仏の教義、所謂(いわゆる)、お経であります。仏教では、この変化の本は、全て因(いん)から生じ縁(えん)を結んで果(か)となる、と説きます。
因から生まれた縁が変化の本(もと)になる。
人も物もこの定理から逃れる事は出来ないのである。
水も熱との縁で水蒸気となって散り、冷えに合えば氷のかたまりと成って行く。樹木も、湿度のある所の木はどんどんと枝葉を張り、根も土深く大きく、大木となって育って行く。木によりその違いはありますが、乾燥した地にある木は大きくならないと同じように、木造家屋も湿気の多い土地に建てれば、早く朽ちて行き、よく乾燥した土地であれば長く保たれる。
人も湿気の多い所に住めば、病になり易く、空気の乾燥した所も同じように病が多く、程よく湿気と乾燥が入り合った所の人は健康な人が多い事が事実であります。周囲の環境により、その違いはありますが、環境とはその縁ということが言えます。
先ず良い縁を結ぶ事です。触れ合う縁により、愛情が生まれ一生を平和に暮らす人があり、一つの悪縁に結ばれると争いが起こり、恨み憎しみとなって、そこに諸々の悪事が生まれます。悪縁は悪業の本になり一生を苦悩の中から出れない人もあります。楽しみも喜びも、苦も憎しみも、その本は自分自身の心から生まれます。
教義の中に“三界(さんがい)は唯心(ゆいしん)の諸顕(しょげん)”とあります。この世の中の総ては、我が念から形と成って生まれて来るものです。分かりやすく言えば、その人の念が自分の所に返ってくるとの事です。
自分と同じような人と触れ合う事になるのです。よく不足を言う人は、常に不足を言わなければならない事が起きて、又、怒る人は次から次と怒るような縁に結ばれます。例え少しでも喜びに変えられる人は、喜ぶ事が来ると言う事です。自分の心が縁を結ぶ事になるのです。
たとえどんなに因が悪くても、常に喜びや感謝の気持ちに変えられる人は、自然に良い縁に変わって行きます。
酒癖の悪い父親を嫌い続けた娘さんが結婚して、父を嫌った因で主人に恵まれず嘆く人。恋愛をして親の反対を押し切って一緒に成った夫婦が苦労が続くと喧嘩をしたり別れたりする。病気でもしたらお金が無いと困るからと貯めたお金が病気の為に使われていく。心が造る縁によって、世の中は廻って行きます。
二年ほど前に一人の奥さんが来られて、
「主人の事で困り果てています。主人は働きもせずに毎日お酒ばかり飲んで、その上、二人の娘をいじめるのです。娘たちも父親を嫌い、主人がいるとオロオロするばかりで、お父さんなんか居ない方がいいと泣くのです。主人がお酒を飲んで夜遅く帰った時は、私も子供も起こされて『お帰りなさいの一言ぐらい言え』と叩くのです。子供が痛いと言って泣きますと、その泣き声が大きいと『近所に聞こえるだろう』と言ってまた暴力に訴えます。家庭裁判所に相談に行きますと、『今は男女同権ですから、主人が働かない時は、奥さんが働かなければなりませんよ』と言われ私は夜十二時頃まで働いています。また、『暴力を振るわれて怪我をしたら、医師の診断書を持って来られたなら、離婚の対象になります・・・』と言われましたが、主人には別れる気は無いし、今では一日も早く死んでくれるか、別れてくれたらと、そればかり考えて暮らしています。こんな私たちでも楽しく明るい生活が出来るように成るのでしょうか」
と泣かれました。
確かに、このご主人が悪いのです。しかし因の無い所に縁は結ばれないと説かれています。聞いて見ますと、 この奥さんの両親は今も健在で歩いて十分程の所に二人で暮らしているとの事。年老いた今でも左官屋の下請けで壁土を練って泥だらけになっているのです。その仕事が恥ずかしくて、六年程も会っていません。幼いころ友達と一緒の時、両親が泥だらけになって、左官屋さんに怒られている所を見てから、その仕事を軽蔑し、その後は「お父さん、お母さん」と呼んだ事が無く、今でも両親を恨んでいるとの事。この奥さんは大学まで親のお蔭で行かせて貰ったのに、親を軽蔑し、親の心が少しも分かっていない。
「貴女の両親は無知かも知れない。不器用かも知れない。それでも子供たちの為、一生懸命泥まみれに成って働き貴女を大学まで出してくれた。その心が全く分かっていない」。
主人の親について奥さんの思いを聞いてみた。
「親は土地と家を持っているから、死ねば、それを売り楽をさせてやるから、今は働けと主人が言っている」。
この話で苦労の本が何処にあるか分かります。恋愛で結婚しても、親を軽蔑している人と、親の死ぬのを待つ人が一緒になったのです。親に対しての考えが間違っておれば当然の結果です。それどころか、二人の娘さんまでも同じように父親を恨んで育っていますから、母と同じ道を歩む事になります。
この奥さんは大乗の教えを聞き、仏様と信仰の縁に遭い、この時から変わられました。
両親に対して、毎夜就寝前に懺悔(さんげ)をすると共に、親と行き来するようになり、会った時は優しい言葉で「これからは親孝行のまねでもしたいから長生きをしてね」と言えるようになりました。この奥さんの顔つきも変わり自分を不幸と思わなくなり、明るさが戻って来ました。ある時、両親が来てお金を下さったそうです。「貴方が苦労をしているのは知っていました。服の一枚でも買いなさい。子供に好きな本でも買ってやりなさい」と言われ、親の心の有り難さをしみじみ知りました、と泣かれたのです。このお金は年老いた両親が娘の為に、泥にまみれて稼いだもので、同じお金でも受ける人の心が変わりますと、どんなにか尊いものである事が分かります。
この奥さんは主人が憎いからと言って、主人の両親をも憎むという事はありませんでした。子供を連れて行く様になり、可愛い孫娘と話したり、抱いたりして、本当に喜ばれる姿を見て、今まで、親が死ねば家や土地を売って楽になる等と思ってきた自分が恥ずかしく思われたのです。今では主人の事より、両方の親が喜んでくれるのが何よりの喜びとの事です。こんな生活をしていますと、主人までもが優しく変わって、子供たちもお父さんお父さんと慕うようになってまいりました。自分の心が変われば人の心も変わります。心が変われば、その縁も良くなって行きます。
諸行無常とは、不幸な言葉ではなくて、縁というもので変わって行くということです。
それは自分の心が造って行きます。仏縁とは、すべての人に光を与えていくものです。
合掌
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