「宝塔」第276号
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 足る事を知って 迷わぬ生活を

  仏を信ずるとき、心は安らかになり
  怒りや、争いや、不満の悩みから離れる。
  信仰を忘れたとき、心は乱れ、不安と、不和と、
  禍(わざわ)いが近づく。

 人は、自分一人の力で生きているのではありませんから、他を信ずるということなしには、生活は成り立ちません。人間の結びつきの根本は、信ずるという事です。しかし人間の中には、信(まこと)を裏切る者がいますから、世の中は過ごし難いところと成りますが、自然の法則、真理というものは、常に狂いも、間違いもありません。
 仏とは、この真理の現れであります。世の中に過ちはあっても、仏の教えには一つの間違いもありません。
 それでも仏への信仰が出来ないで、あやふやな迷信などに頼っている人がいます。星占い、易占、姓名判断、印章判断、その他低級な信仰に迷う人は、一番大切な自分の心を忘れています。自分の都合のいいことばかりに欲を起こしますから、却って迷ってしまいます。

 昔、たいへん「えんぎ」をかつぐ人がいました。正月の元旦のこと、家中きれいに清めて、不吉なことは一切ないようにと思いながら、神棚を拝んでから、何気なく隅を見ますと、黒い変な物がありましたので、「何だろう、これは」と、ちょっと摘んでみますと、昨夜、女中が掃除して雑巾がけをした、その切れ端が落ちていたのです。
 「元旦早々から、雑巾を掴(つか)んだ。こんな縁起の悪い事はない。今年は少しも目出たくない」と、一変に悲観してしまいました。お寺の和尚さんにこのことを話しますと、和尚さんは、
 「それは目出たい」と言いました。
 「なにが目出たいのか」と聞き返しますと、
 「雑巾を当て字に書けば 蔵と金
          あちら福々(拭(ふ)く拭(ふ)く)こちら福々」
 「なるほど、これは目出たい、これは有り難い」
 と、一変に大喜びしたというお話があります。
 これは笑い話のようなことですが、この中には二つの教訓が含まれています。第一に、縁起(えんぎ)が悪いとか、日が悪いとか、方角が悪いとか言って、自分の努力を捨ててしまう愚かさを戒(いまし)めています。

 徳川家康は、慶長五年七月関ヶ原へ向かって出陣しようとした時、家臣の一人が、
 「当年は西塞(ふさ)がりですから、方角を避けて出陣された方が良いでしょう」
 と進言したのに対して、
 「西が塞いでいるなら、わしがこれを開いて行こう」
  と堂々と軍を進めました。
 決断して実行するときは、一切の迷いを捨ててかからねばなりません。一番大切なのは自分の信念です。この確固不動(かっこふどう)の信念は、仏への信仰から生まれて来るものであります。
 第二は、「禍福(かふく)はあざなえる縄のごとし」と言うように、誰でも人生のなかで都合の悪いことにぶつかることがあります。病気や貧乏や人に馬鹿にされたり、そんな時、自棄(やけ)を起こしたり、人を怨んだりしていたのでは、自分の墓穴を掘るようなものです。
 良い事も、悪い事も、みな自分の因縁によって起きてくるものですから、それを素直に受けて、その中から活路と希望を見出して行く力を持たねばなりません。
 その力を与えてくれるのが仏への信仰です。
 自分の心を忘れた信仰では駄目です。
 科学や経済は、生活を便利にすることには役立ちますが、その方ばかりに気をとられて、人生の本当の幸福を見失っているのが現代人ではないでしょうか。

          誰がために鐘は鳴る

      天の反響          地の叫び
      うらみの声か      なぐさめか
      過ぐるを傷む      悲しみか
      来るを招く         喜びか
      無常をさとす       いましめか
      望(のぞみ)を告ぐる  法の音か

 これは、土井晩翠(つちい・ばんすい)の詩の一節です。毎年、逝く年を送って、新しい年を迎える除夜になりますと、一年間に造った諸々の罪障(ざいしょう)、心身を悩ます百八煩悩(ぼうのう)の除滅(じょめつ)を祈って、寺々の梵鐘(ぼんしょう)が鳴り響きます。人それぞれの思いを込めて、妙なる鐘の呼ぶ声に耳を傾けることでありましょう。
 名古屋の熱田の一角から、毎日朝な夕なに澄みきった梵鐘の音が町の中を流れて行きます。大乗教総本山の梵鐘の響きです。
 この鐘は、高さ三・六メートル、直径一・九メートル重量十三トンという我が国有数の大梵鐘です。
 その音声(おんじょう)も「梵音海潮音(ぼんのんかいちょうおん) 勝彼世間音(しょうひせけんのん)」の句にふさわしい、素晴らしい名鐘で、「平和の鐘」と刻銘されています。
 この梵鐘は、昭和三十一年に「世界平和の祈念」をこめて鋳造されました。この年は、仏教でいう「如来(にょらい)滅後(めつご)二千五百年」に当たる年でした。釈尊が入滅されてから二千年過ぎました以降を「末法(まっぽう)」の時代と呼んでいます。この時代になりますと、人の心が濁ってきて、利己主義のわがまま勝手をする人が多くなり、そのため利害の対立や、考え方の相違から、争いが激しくなり、倫理観念や道徳精神が無視されるようになると言うのであります。そして「闘諍堅固(とうじょう・けんご)」と言って、睨(にら)み合い、争い合いがそこら中に拡がっていく危険な時代であるとも言われています。これは人々が正しい信仰の心を失っているからであると言われますが、今の世の中は、まさにその末法時代であります。
 こういう時代になると、思わぬ不幸や災難で苦しむことが多くなってきます。
 家の中では、嫁と姑が睨み合い、夫と妻が喧嘩し、親と子が断絶するなど、幸福の拠り所である家庭を破壊して苦しんでいます。企業の倒産やリストラにあい、ストレスが重なって病気になっている人も多いようです。また世界へ目をやれば、各地で戦争が絶え間無く起こり、天変地異に命や生活の基盤を奪われることも稀ではありません。
 今、この時代にこそ、利害や利権に捕らわれた政策や行動ではなく、まず、自らは『少欲知足(しょうよく・ちそく)』即ち、欲が少なくてどんな僅かなものにも喜びを見出す。但し、そこで満足していてはいけません。
 『少欲喜足(しょうよく・きそく)』『少欲懈怠(しょうよく・けだい)』等と教えられます。仏となることを願わず、小乗の境地(きょうち)に安んずる者を少欲と言い、それに満足したり、仏たる境地を求める精進心なく、大行を修めないことを懈怠という。     
 『大欲(だいよく)』に生きて頂きたい。
 大欲とは大きな欲望である。小欲を捨て、一切を放下(ほうげ)して『自利利他(じり・りた)』の勝れた働きをしたいという願い。また、悟りを得たいという願いです。自利利他とは、自らは悟りを求め、人々に対しては救済し、利益(りやく)を与える行為。すなわち、菩薩行の実践であります。
 正しい信仰によって、徳の備えをした後、心の平安・身体の健康・家庭の幸福を得て下さい。
                             合 掌 

宝塔第276号(平成15年1月1日発行)