「宝塔」第281号
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 鬼心仏心

  昔インドに一古城があった。主なき城門は高くそびえ昔の栄華の跡を物語る広大な廃園には夏草のみが徒(いたずら)に茂る。人々はこの城をお化け屋敷と言い、城の中には鬼が住むと信じられ、恐れて近づく者もなかった。
 時に、自ら勇者と名乗る者があって、我こそ彼の鬼の正体を見届けんと、人々が止めるのも聞かないである夜城門を越えて一室の中に入った。そこで彼は鬼の来るのを待った。この町にまた一人の若者がいて、自己の力量を自慢し、鬼を退治して人々の患いを取り除こうと思い同じ夜のうちに城内に乗り込み、一室の前に立って戸を叩いた。この時先に入っていた勇者は、これは必ず鬼の仕業であろうと思い込んで、中から戸を押さえてさえぎった。後から来た若者は、これも一室の中に鬼がいると思い込み、無理に戸を押し開けて入ろうとした。内と外とで二人は互いに、自分の心に生じた疑心の鬼と戦いながら一生懸命に争っているうちに、朝が来てあたりが明るくなってから顔を見合わせた二人は、共に鬼でないことを知ったと言う。
 
 これは一つの寓話(ぐうわ)であるが、一切の世の人々もまたこのように、我もなく他もないものを、みだりに我を張り合って自己の心が鬼に成っている事にも気付かず、ただ徒に相手を鬼のように見て、互いに怒り、争い、憎しみを生じているのである。
 誰が悪い、彼が悪いの疑心によって生じる心の鬼を自ら取り去らぬ限り、我々が常に願っている心の安らぎは生涯来るものではないと教えられる。
 大宝積経(だいほうじゃくきょう)に、
 
     諸法は因縁より生ず。
     主宰なく、作者なく、
     愛者あることなし。
     因縁より転ず。

 とあるように、自分の身辺に生じる一切の出来事、即ち、悩み・苦しみ・不幸・災難・病気に至るまで、誰も段取りしたものではない、筋書きを書いた訳ではない。自分から出たものが、自分の所へ帰って来たのであってその因縁は誰も自分に代わって受けてくれる者はいないのである。自分が受けて自分で善処し消滅して行かねばならないのである。間違っても自分の心を鬼にして相手を鬼のように責めまくっていたのでは、集団生活をしている人間社会に和合も安らぎも生まれては来ないのである。家庭や、一つのグループ、または団体の中にも、必ず『いない方がいい人』または『いてもいなくてもいい人』そうして『いた方がいい人』この三つのうちのどれかに、お互いが当てはまるものである。
  さて『いない方がいい人』即ち嫌われている人とはどんな人であろうか。先ずは「よく怒る人」である。特に仕事はよく出来るのだが、相手が仕事に手間取ると怒って責めたり、罵(ののし)ったりする。または怒りながら当てつけがましく仕事をする人。次は「愚痴の多い人」なかでもご婦人が子供の前でご主人の事をぐずぐずと愚痴をこぼすと、男の子は母親を嫌う様になり、女の子は父親の欠点を不足に思う様になって、結果的には男の子は女性に女の子は男性に恵まれる運を失う事にも成りかねないので、世の母親は宜(よろ)しく注意すべきである。
 または、「自分本位に生きる人」こう言う人は得てして自由主義(人々の幸福と安全を願うこと)と自己主義(自分の事ばかり考えて、他人の迷惑や損害などは考えないやり方・利己主義・エゴイズム・個人主義)とを間違えている人であって、特にご婦人で夫がありながら子供本位に生きる人は、やがて子供に裏切られて行く場合が多いと言われているから要注意である。妻として夫に尽くすべきは尽くして、子として親に孝行すべきは孝行して頂きたい。それが我が子に対する最も深い愛情を持った母親に成る為の道である。
 その他を拾ってみると、「理屈をこねる人・怠け者・強情な人・欲の深い人」特に女性に多いのが「在所を自慢する人・夫の在所を悪く言う人」なども嫌われる人の中に入るようである。
 もし自分自身の欠点に気付いた人は、速やかにそれを改める事に努力していただく事は尊いことであるが、 自分の周囲にこの中のどれかに当てはまる欠点を持っている人がいたとしても、それを軽視したり責めてはならない。なぜならば我々にはそれを責める価値は無いからである。
 親鸞上人(しんらんしょうにん)の弟子の唯円(ゆいえん:後年に関東地方の布教に活躍した人)がまだ若い頃のことである。一人の女性との問題を取り上げられ、先輩の兄弟子達がこれを責めて追放をせまった時、上人が「人は許されて生きているのだから、責めないで許してやらねばならない。例えばお前たちの目の前でお前たちの子が、悪人に殺されても憎んではならない。憎めばその因縁が後の世までも及ぶから」と説かれたと言う。責めれば責められる。憎めば憎まれる、まさに血に汚れた手を血で洗うのと同じであって悪因縁は果てし無く続くのである。
 我々人間は、牛肉・豚肉・鶏肉から魚介類に至るまで生あるものを食して生かされて来た。だが彼等は人間に食べられる為に生まれて来たのでもなければ、食べられることを意識して成長しているのでもない。人間が勝手に食べることにして飼育し犠牲にしているのであるが考えてみれば、彼等の犠牲は大いに人間の生活に役立っていると言うことになる。
 人によっては畜生どもは我々人間に食べられて成仏出来るのだと言うだろうが、彼等を成仏させるだけの価値ある生活を人間として行っているだろうか、と言うことになるといささか疑問である。身は人間であってもその生きざまは畜生道(ちくしょうどう)に落ちていることにも気付かずにいるのではなかろうか。いたずらに心に鬼を作って血を濁(にご)しているようでは、他人は勿論(もちろん)、家族の者からまで、いない方がいい人の仲間に追いやられて、ついには虚しく無意味な人生を終えることにも成りかねないのである。
 人として生まれたならば、何らかの意味で周囲の人々の為に役立って生きねばならないことすら気付かぬままに生きている人の多い事実に、やり切れない淋しさを感じないではおられない。そうした世の中で損得ぬきに、人の為に役立って生きようとしておられる方々の努力は尊いものであり、そこには人間としての救いがある。こうした人達が是非いてほしい人である。
 だが現代人は、人のことどころか血肉を分けた親のことすら忘れて自己主義に生きているのではないだろうか。これは人間として悲しいことである。
 日蓮聖人(にちれんしょうにん)の所へ貧しい生活をしている若者が訪ねて、一日三度の食事を二度することも出来ないほど貧しい日々にどうしたら親に安らぎを与える事が出来るかと問うた。聖人は「一日に二度朝夕、親に笑顔を示せ、それだけでも親は安心して喜ぶであろう。逆にお前が一日中考え込んでいたり、憂い顔をしていたならば親はきっと心配するだろう。どこか悪いのではないか。何が気に入らないのだろうかと親は心を痛めるからだ」と諭された。一日二度の笑顔の施しを説かれたのである。
 親と言うものは有り難いもので、息子夫婦や孫達のちょっとした優しい仕草や言葉で喜んでくれる。また家族なればこそ、些細(ささい)な事でも親に安らぎを与えることが出来るのである。
 我々がいくつに成っても、この肉体がこの世に有る限り、親は自分の体内に生きている。たとえ親の肉体は滅していても、体内に血が流れている限り、親は生きて我々を護っていてくれるのだから、護られて生かされている我々も一日一度は、親に思いを寄せて心に生かすことを忘れてはならない。これは人間であれば誰でも出来る。 人々の願う幸福は、心が疑心の鬼であったり、畜生道に有ってはならない。
 常に親を心に生かし、縁有る人々の為に生きる心の運びの中から幸福は生まれて来るものである。

合掌

宝塔第281号(平成15年6月1日発行)