「宝塔」第283号
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 人は人として

 私どもは、人間として生まれたのであり、それ以外の何物でもない。
 即ち、人間の父と母の間に生まれ、育てられて一人前の成人として生きて行く訳である。
 しかし、人間らしき行動、人間らしき言葉遣い、人間らしき心遣い、そして人間らしき働きを為している人がどれ程いるであろうか。
 人として生まれた以上、人として守らなければならない最低の義務があるはずである。すなわち、法律以前のモラル(道徳)が、それである。そして、これが人間らしい行動・言葉遣い・心遣い・働きであると言えるかどうかは別にしても、社会における団体生活の最低必須規範であることは言うまでもない。
 つまり、この最低必須規範であるモラルは、人が人として守らなければならないものであり、逆にモラルを守らない人は、人が人として生きている事にはならないのである。
 例えば、犬が道路で小便をしたとしても、犬のモラルには反していないが、成人した人間が同様に道路で小便をしたとしたなら、これは当然人間が守るべきモラルに反している事になる。
 猫が、自分の家の魚を取って行ったからといって、自分が他人の家の台所に勝手に入って魚を持って来る事が出来るだろうか。
 犬や猫の世界と人間の世界は異なったものであり、犬や猫等は許されても、人間には許されない事が数多くある。それは、犬や猫に理性が無く、人間には行って良い事と悪い事の判断をする力と、その判断に基づいた行動をする力があるからである。
 つまり、ハムラビ法典の「目には目を、歯には歯を」といった対応の仕方は、好むと好まざるに関係なく人間社会では許されるべき行為ではないのである。
 先日も或る方が見えて、
 「私の主人の事で相談したいのですが、四年程前から薄々感づいていた主人の浮気が二年程前に発覚し、どうしても主人を許そうという気になれなかったのです。 その当時は、私も会社務めをしていた関係上、或る上司に相談をしたり、愚痴を聞いてもらったりしているうちに、妙に親近感を抱き、最終的には主人と同じ事をしていたのです。揚げ句の果てに、その事が会社の人や主人の耳に入ってしまい、恥ずかしさの余り、会社を辞めました。主人からは毎日冷たい目で見られておりました。そして半年程前から主人が離婚をしてくれと私に言うようになりました。
 私どもは結婚して十年になりますが、子供が居りませんので、その点では幸いかと思いますが、私も三十歳を過ぎ再就職も困難ではないかと思うのです。出来ることなら主人ともう一度やり直したいと思い、お尋ねに上がった次第です」
 と相談されたのであります。
 確かに、ご主人が浮気をされた事は決して良い事ではないが、それに対抗して自分まで浮気をするというのは好ましくありません。

 仏教的な観点に立てば、ご主人は当然、非道徳的な事をしたのであるから、その因による結果を生み出し、その結果によって、必ず苦しまねばならない日々が来るであろう。但し、そうした因縁を持って生まれてきた(浮気をする主人とめぐり合い結婚するという因縁)奥さんは浮気をされても堪忍をしなければ、過去世における罪障を消滅させる事は出来ないのである。もっと付け加えると、過去世において奥さん自身が最初に浮気をして、結婚相手を苦しめたからこそ今世において自分が逆に苦しめられなければならないのだという事にもなりかねない事実、仏教の因果の二法に説かれているところでもあるのだ。
 すなわち、他人が行ったから自分がしても良いというモラルはないが、自他の区別なく結んだだけの因縁は必ず諸仏が見逃すことなく、悪縁を結んだ者には苦しみという因果を与え、善という縁(良縁)を結んだ者には楽しみという結果を与えて頂けるものである。自分自身は裁判官にはなれないのである。
 言い換えると、他人が行った事に対する裁きは、仏様が決められる事であり、もし自分の罪の深さを考えることなく他人の過ちだけを責めたならば、そこには新たな罪が生じて来るであろう。
 そして、この場合においては主人だけでなく奥さん自身にも色情(しきじょう)の因縁から発する苦しみが、人間に与えられた試練のごとく現れてくることは明確である。
 只、済んでしまった事を、くよくよ考えて暗い生活をしたから良い結果が出てくる訳ではなく、やはり、そこには「懺悔(さんげ)」の道しかない。そして次回に現れてくるであろう罪による試練に対して、どのような受け止め方をするかが問題になってくるのである。特に仏教を信仰する者と、しない者の相違は、こうした苦しみに対する心構えや、幸せをいかに多くの人々に分け与えられるかと思う気持ちに大きく出てくるのである。
 懺悔(さんげ)と同時に慚愧(ざんぎ)が必要である。
 
 懺悔(さんげ)=ゆるしを請うこと。
 慚愧(ざんぎ)=罪を恥じ、二度と罪をつくらない。

 相応部(そうおうぶ)経典の中に、

 「これあるとき彼あり、これ生ずるとき彼生ず。これなきとき彼なく、これ滅することにより彼滅す」

 と書かれており、この言葉は世の中のすべてのものが時間的流れの中においては無常であることを教え、空間という条件のもとでは万物の不実体を説く訳であるが、それと同時に、苦しみや楽しみの真理とも言うべき因果関係が説かれていると思う。
 つまり、欲望や執着を断ち切る為には、その因となる気持ちを静める事が不可欠であり、それをこの言葉が説き明かしたのである。
 欲望や執着を断ち切る事によって、苦しみの境地から離脱し、真の楽しみを得る事が出来るのではないだろうか。割れてしまった花瓶を接着剤で元通りにしようとしても無理なように、結婚も一度ひびが入ってしまうと、それを修理するのは、なかなか容易ではない。元々、永遠不変の愛など存在すると考えていた事自体が間違っていたのであり、早くそれに気付いておれば、ご主人の浮気を裏切りとは感じず、自分一人が愛情を押しつけていた事を悟れたのではないだろうか。そしてその様にならない為にも、お互いが愛情を育てるのを怠らず、一瞬一瞬を大切にしなければならないのである。

 この奥さんの場合は、今までの不足の心を改め、妻としての尽くす生活に努力され、同時に、娘時代からの親不幸を徹底的に反省懺悔して、二度と同じ過ちをしないという強い決意をもって、徳を積むことに精進いたしました。幸いにして、何とか夫婦生活をしてみえます。

 冒頭にもどりますが、人間として生まれ育った以上、人間らしき行動、人間らしき言葉遣い、人間らしき心遣い、人間らしき働きをしなければなりません。なぜなら、我々人間は、地獄に落ちる為ではなく、覚者と成る為に出世したという目的を持っているからであります。
 要するに「人間らしき」という言葉の裏面に、人間で間違いを起こすことは、止むを得ないが、その間違いを何度も繰り返したり、意図的に間違いを起こし、他人を傷つけることなどは、犬や猫と変わらないどころか、遙かに劣るのである。
 苦しみに立ち向かう事を忘れず、その中にあっても、決して相手を思いやる気持ちを失わず、そして何時でも自分自身を見失わない事が、人間らしき行動をする為には必要なのではないだろうか。
                               合掌

宝塔第283号(平成15年8月1日発行)