今、生きているこの世は苦しい所であると言われ、事実その通り苦しい世界かもしれない。
そして、輪廻転生(りんねてんしょう;地獄・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・修羅(しゅら)・人間・天上の六道(ろくどう)を何度となく繰り返すこと)する事は、六道が苦界(くかい)であるとするところから、愚かな人間の愚かな生き方と考えられている。
しかし、この私が再びこの世に生を受け、もし再度法華経(ほけきょう)と巡り会う事が出来得るならば、喜んで六道をいつまでも輪廻し続けたいものである。
なぜなら、法華経を聞き実践する所には既に解脱(げだつ)の道が開かれており、悟りの境地(きょうち)と何ら変わる所がないからである。
すなわち、人間界に生きていながら、喜びに満ちた生活を毎日のように営めるのは、正しい悟りの境地を得ている人であり、法華経本来の教えを実践出来ている人だと私は思いたい。そして、その生活の中の悟りを一人でも多くの人に伝えて行きたいのである。
法華経とは、言うまでもなく、インドに於いて釈迦(しゃか)が説かれたものであり、それが中国へ渡り、朝鮮半島を経て、六世紀頃までに日本に伝えられた。その後、聖徳太子(しょうとくたいし)・最澄(さいちょう)・日蓮(にちれん)等の伝道活動、又大乗教の教祖である杉山辰子(すぎやまたつこ)先生などによって日本全国に広められた。
その法華経の内容とは、泥中(でいちゅう)の白蓮華(びゃくれんげ)の比喩に教えられるように、汚れた世間の中において自分だけでも白蓮華のような綺麗な花を咲かせるが如く、美しい心を保ち続けるにはどうしたらよいのか、又法華七喩(ほっけしちゆ;法華経中に説かれた七つの比喩)に示される三乗方便(さんじょうほうべん)・一乗真実(いちじょうしんじつ)、誰にでも備わっている仏性(ぶっしょう)の自覚等、書き尽くす事の出来ないほど沢山の教えが説かれているわけであるが、それらを簡単に現すと、
諸悪莫作(しょあくまくさ)
もろもろの悪を、なすことなく
衆善奉行(しゅぜんぶぎょう) もろもろの善を、実行して
自浄其意(じじょうごい) 常に、自らの心は清らかであれ
是諸仏教(ぜしょぶっきょう) これが、仏の教えである
と言う事になるのだが、これは「七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)」が示すところのことばで釈尊以前に六人の仏がみえ、釈尊も含めて七人が、いずれも実行した教えであるとして法華経の五百弟子受記品(ごひゃくでしじゅきほん)及び法句経(ほっくきょう)に説かれているのである。そして、悪いことをせず、善いことをして自分自身の心を清く美しくすることが、仏の説いた教えであるという内容は、あまりに当然すぎる表現である為、軽視してしまう事も多々あるように感じられるが、こうした単純な言葉であるからこそ実際には非常に重要で、且つ奥行きの深さを現しているのではないだろうか。
この言葉を聞く人間によって、異なったイメージを頭に描き、それぞれに自由な「悪や善」を感じ取れる幅広い戒めが、常に仏の教えとして後世に伝えられて来たのであろう。
それでは、ここでこの言葉にまつわるエピソードを紹介しよう。
昔、中国に白楽天(はくらくてん)という詩人と、道林禅師という僧がいた。ある時、この二人が対面し白楽天が、
「仏教とは、どういうものですか。その教えは何ですか 教えて下さい」
と道林禅師に尋ねると、道林禅師は、
「諸悪莫作・衆善奉行・自浄其意・是諸仏教」
と七仏通戒偈を答えにしたのである。すると、白楽天 はこの言葉を知っていたらしく、
「そんな事は、三歳の子供でも知っています」
と言って返した。そこで、道林禅師は、
「三歳の子供でも知っているが、八十歳の老人でも実行するのは難しい事である」
と答えた。
この話からもわかるように、仏教というものは、その中でも法華経においては、自らの気持ちと、自らの行いが大切であり、それが全てである。
例えば、お念仏やお題目を唱える事だけが、真の仏教の教えであると信じている人が本当に幸福な状況にあると言えるのであろうか。
念仏や題目を唱えて信仰心のある様な顔をし、その傍らで自己の満足を満たす事だけを願望とし、他人を顧みる余裕の無い生活を送っている人は、仏教を信仰しているのではなく、絵に書いた餅を食べますと毎日誓っているが如く、行いもしない事を口に出して唱えたり、立派な経だと言っているだけに過ぎないのである。
そして、そんな人が他人に対して、どんな印象を与えるだろうか。私は、悪い意味の人間臭さや、自己満足、真理に対する無知といった感情を持つのである。
善因善果・悪因悪果と言われるが、我々は行った分だけの事は必ず報いを受けなければならない。何事に関しても原因のない結果は有り得ないのである。
他人を満足させていれば、必ず自分も満足させてもらえるのであり、他人を大切にしていれば、必ず自分も大切にしてもらえるはずだ。
その反対に、他人を満足させる事なく、大切にもしなければ、今度は自分が満足出来ずに大切にもされない。「朱に交われば赤くなる」ではないが、慈悲心のある人の周りには、慈悲心の強い人が集まり、良心の無い人の周りには、良心の無い人が集まって来るものである。
そこで、考えてもらいたい事は、他人を思いやる気持ちの無い人の周りには、思いやりのない人が多く集まるので、喜びを得る機会が少なくなり、余計な他人を思いやる気持ちを喪失してしまう。すると、それ以上に思いやりのない人が集まる。という悪循環を繰り返すことになるのだ。
逆に、他人の為に何でもやり、人一倍思いやりが強く面倒見の良い人の友達は、やはり他人に対する思いやりが強く、喜びの毎日を過ごしているであろう。
一事が万事ではないが、悪は悪を友として、善は善を友として広がり続けるのである。
そして、どちらも友を持ち、どのようなグループを作るかは、本人の自由であるが、冒頭にも書いた様に、私は法華経を信仰し、出来ないながらにも実行しようと努力する過程で、多くの良き友を持つ事が出来た。
又、この苦しみが氾濫する娑婆世界(しゃばせかい)において生きる事の苦痛を感じる事なく、常に物事を喜びに変え、共に手を携えて行ける友が出来た事は、私の一生において非常に大きな収穫となった。故に、法華経と再び会えるならこのような世界である六道を輪廻したとしても有り難いのである。
最後になるが、この世に生まれて後悔している人は、必ず行いに大きな誤りがあるはずである。それは、慈悲心が少ないのか、誠を持って人に接していないか、堪忍が足らないのか。いずれにせよ、何かが欠けているのである。
どうか、これらも自分の行動を照らし合わせてみて、もし欠けている物があったなら、それを補うように精進努力していただきたい。
合掌
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