「宝塔」第289号
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 日常の五心

一、すみませんという 反省の心
一、はいという     素直な心
一、おかげさまという  謙譲の心
一、私がしますという  奉仕の心
一、ありがとうという  感謝の心

 すみませんという 反省の心

 ある会社の社長婦人が、
 「
私は何も言う事のない恵まれた日常生活を送っておりますが、そんな中にも一つの苦がございます。私の主人は恵まれた家庭の中に育ち、仕事も調子よく徳のある主人ですが、わがままな所があります。私は一生懸命主人の気に入る様に努めておりますが、朝食の時に、ご飯や味噌汁が煮え立ての熱いのでないと気に入らず、都合によって主人の出掛けられる前に間に合わぬ時がございますが、その時こそ大変でございまして、ご飯やお汁に湯気が立っておりませんと、急に怒ってそのご飯やお汁をぶちあけて『俺と何年一緒にいるのだ。まだ分からんのか』と怒鳴って迎えに来た車に乗って出社いたします。
 朝起きて機嫌よく冷たいご飯でも喜んで食べていただける様になれば全く幸福なのですが、こうした事は直していただけるでしょうか」
 とお尋ねになりました。
 「それはあなたが悪いのですよ。ご主人が怒られた時にあなたの心には、謝る心はなく、『朝早く起きて準備するのに、都合によって出来ない事もあるのに、私の立場も考えてほしい』と思っていませんか。そして言い訳をするのではありませんか。それがいけないのです。
 言い訳の無い生活、それが大切なのですよ。明日からは冷たいご飯の時に、ご主人に怒られたら、理由を言わないで『すみません』とあやまる事が大切です。ご主人がひと言言われる度に『すみません』と頭を下げてごらんなさい。きっとご主人は怒らないで、その冷やご飯を召し上がって行かれる事でしょう。
 幸せになるこつは、ご主人に気に入らぬ行為であった自分の至らなさを反省して、頭を下げる事ですよ、仏様の教えは、相手の気持ちになって尽くす事なのです。
 実行してみてください。きっと良い結果を生む事になりますよ」
 
と私は申し上げました。
 二〜三日たって、その奥さんが来られて、
 「先生、有り難うございました。昨日の朝、どうしても食事が間に合いませんのでお冷やを出しておきましたところ、相変わらず難しい顔をされていましたが、『おい』とひと言言われた時に、すかさず『すみません』と言って深く頭を下げました。ふた言目に『これは』と言われたから『すみません』と頭を深く下げました。何と言われようとも『すみません』を連続いたしますと、主人はついに、その冷やご飯を食べて『今日のおまえはどうかしとるなぁ、おまえがそうも、すみません、すみません、と言うと、俺が怒れんなぁ』と言って出社されました。
 この時に、主人はわがままではなかった事、私の方がわがままだった事、反省が足りなかった事、主人に対して思いやりの心がなかった事に気付き、主人に謝る心に
なって来ました。先生、どうも有り難うございました。人間の幸不幸は、自分の心の持ちようであるとしみじみ思いました」
 と喜ばれました。

  はいという 素直な心

 ある日の事でした。私がタバコを吸おうとしておりますと、そこに灰皿がありませんので孫に「ちょっと灰皿を持って来て」と頼みました。しかし孫は私と灰皿のある所を見比べて「おじいちゃんの方が近いじゃないか」と言って持って来てくれません。頼んだ私も悪いが何だか変な気分になりました。こう言う時であっても、快く「ハイ」と返事をして持って来てくれるような素直な心の持ち主でありたいと思いました。こんな小さな事ですが、大きくなって自分本位な心になって互いが和合の出来ない家庭になって来るのだなぁと思えると、自らが事に対して素直な心にならねばと心に思って、それから出来るだけ他人の立場を知って、罪を造らせない様に孫に素直な心、自分に都合が悪くとも人の喜びとなる様に努めるよう話し合いました。
 それからはよく素直に「ハイ」と聞き入れてくれるようになりました。

   おかげさまという 謙譲の心

 とても柔和な人でお会いした時「おかげんいかがですか」と挨拶しますと「はいおかげさまで」と必ず申される、いかにも謙譲な心で、どなたにも好かれている友人がいます。この人の姿にも教えられることですが、人間は一人で生きられるものではなく、皆、仏様・ご先祖様・親・多くの人々・多くの物のお蔭様で今日生かされているのであります。『おかげさま』の心こそ私たちの生活を豊かにさせて下さるのだと思います。いつもそうした心で合掌させていただく事こそ尊い姿だと思います。

  私がしますという 奉仕の心

 ある会合の会場に出席した時のこと、入口に履物が乱雑になっており足の踏み場もない状態でした。皆様が出入りするのに困ると思い、一足づつ丁寧に並べ直しておりますと。「すみませんね」と言ってそのまま上がって行く人、黙って履物を脱ぎ捨てて行く人、様々でしたが、その中の一人の青年が私の側に来て「私がやらせて頂きます。どうぞお上がり下さい」と言って人様の履物を並べて下さいました。私が続けようとしますと、「私がします」と言ってきれいに並べて下さいました。進んでする奉仕の心、私は合掌させて頂きました。『私がやらせて頂きます』何と美しい心でしょう。
 仏様は、身に口に心に、生かされている今日を感謝し少しでも人様のお役に立ってこそ報恩の姿であるとおっしゃっています。百の理屈よりも一つの実行が大事であり、実行した功徳が自らを喜びの人生へと誘ってくれるのだと思います。

  ありがとうという 感謝の心

 あるご婦人が喜んで話して下さいました。
 「私の家は道路拡張の為、立ち退きで移転させられたのですが、今まで何十年と住まわせて頂いた家を壊す時に、主人が『自分が壊す。住み慣れた家に感謝のつもりで大事に壊して使用できる物は又お役に立てるようにしまって置く』と言って、毎日取り片付けして下さいました。何日か掛かって使用できるものは畑に持って行き積んで
いつでも取り出せるようにして下さいました。主人に『長い間住まわせてもらった家の跡を見に行かんか』と誘われ行って見ますと、本当に美しく取り片付けられてゴミ一つ無くきれいになっていました。これが長い間住み慣れた自分の家の跡なのかと思い、長い間有り難うございましたと合掌させて頂きました。そして主人に『有り難うございました。こんなにきれいにして下さってお疲れさまでした。さぞかし古家も屋敷跡も喜んで下さったと思います。本当にご苦労さまでした』と心から主人に感謝しました。主人は『お前がそんな心になってくれて有り難う』と言って下さいまして、それからはお互いが”有り難う”と感謝の心で日暮らしをさせて頂いております」。
 『今日あるを親のお蔭と感謝して』と言うお言葉がございますが、本当に何もかもお蔭様にならぬものは一つもないと感謝することを教えられます。
 仏様は、「私の説いた事を素直に実行して行く人のみが幸福の近道を行く者だ」とおっしゃっています。

                               合掌

宝塔第289号(平成16年2月1日発行)