ヒマラヤ山を黄金にして与えても尚、求めて止まぬのが人の欲望である、と仏陀は説いておられる様に、限りなき欲望に駆り立てられて心安らぐ事もなく、人は常に自分の心に追われる思いの中に生きている。これを仏陀は、「諸苦(しょく)の諸因(しょいん) 貪欲(とんよく)これ本(もと)なり」と説いておられる。
人間の全ての苦しみの本は、貪欲(どんよく)な心の積み重ねの結果である、という教えである。
確かに我々は求めている。国から、社会から、相手から求めるだけであって、多少なりとも役立って生きる事を考え努力している人がいるだろうか。
道元禅師(どうげん・ぜんじ)の言葉に、「仏道を習うは自己を習うことなり」とある。
己を知る悟りの智恵を育てることである。学識があって優れた人でも己を知らぬ人を智者とは言わない。世間では知識者を智恵者と言うが、智恵と知識とは違う。学問や見聞によって知り得たものが多い人を知識が有る人と言うのであって、これを一般社会では智恵のある人と言っているが、実は智恵は悟ることであり、知識は知ることである。悟る事と知る事の違いがあるのである。
知識を得ることは人間として必要な事であり大切な事であるが、日常生活に起きる種々の出来事に悟りが無ければ、心に潤いの情が無く、干からびた人間にしかなれない。自分の心が木の皮の様にカサカサでは運命は調子良く回転しないままに終わらねばならない。そんな荒れ果てた心に妙法という悟りの智恵の油を注ぐことによって、いつしか運命の歯車が幸福の音を響かせながら回転する様になっていくのである。
過去は魔神(まじん)であった鬼子母神(きしもじん)が、末法の世に法華経を自ら行い、人にも行わせる道に励む法師(ほっし)を守護することを誓って善神(ぜんじん)となったお話がある。
鬼子母神と言えば皆さんの中にはおなじみの方もあれば、聞いたことのない人もお見えになると思います。
この鬼子母神には大勢の子供がいた。その子供達を育てる為に、他人の子供をよく盗んだ。その為に不幸に泣く親が多くいた。この鬼子母の罪業(ざいごう)を正さんが為に、仏陀は弟子に言いつけて鬼子母の末っ子ビンガラを精舎(しょうじゃ)の奥深くに隠された。鬼子母は気も動転せんばかりに泣き悲しんだ。やり場の無い気持ちで精舎を尋ねた鬼子母に対して、
仏 陀「何故、そんなに泣いているのか・・・」
鬼子母「私が留守の内に末っ子のビンガラが居なくな
ったのです」
仏 陀「何故、家を留守にしていたのだ。その時、お
前は何をしていたのだ」
その時、鬼子母は他人の子を盗んでいたから、何も答えられなかった。
仏 陀「お前は自分の子を愛するのか」
鬼子母「愛しています。大勢おりましても、一人の子
も、離したくはありません」
仏 陀「他の母親もお前と同じであろう。一人か二人
しかいない子を連れ去られた母親の悲しみを
考えてみるとよい」
鬼子母「後悔しております」
仏 陀「その誠意を何で見せるか」
鬼子母「仏陀の教えの通りに従います」
この誓いによって、子供ビンガラは鬼子母のもとに返された。それからの鬼子母は罪滅ぼしの為に子供の守護神(しゅごじん)になろうと精進し、ついには誓いを立てて末法の世の法師を守護する善神となったと伝えられている。
この様に自分の事のみの満足に生きる人は、いつしか人間の美点である情の潤いを失い、醜い心によって支配されているのだが、それも気付かずに生きている。誠に哀れな事である。
鬼子母が我が子の事のみに生きていた時は、常に不安と焦燥(しょうそう)と猜疑(さいぎ)と欲の心に追われ続けて一日として安らぎは無かったと思われる。だが仏陀の説法を受けてからの鬼子母は人の為に生きる希望に燃えた。その心には不安も焦燥も迷いも欲望も無い、安らぎが与えられた。
求めて生きるだけの貧しい人生から、少しでも役立って生きて行こうとする心に切り換えて、正しく目的を定めて生きていかなければならない。その善行をなす時、真心を込めて行う事が絶対条件である。
「行あって願い無きは、菩薩の魔事(まじ)なり」と言って、これは「きまぐれの善行は功徳も薄い」と言う意味と教えられる。どんな小さな事でもそれが人の為に役立つ善行ならば真心を込めること。特に教えを通しての行いは尊いものであることを仏説では教えられている。
仏説に「毛端(もうたん)の水滴(すいてき)」と言う教えがある。
一人の男が、自分の頭髪を一本抜いて、それを水に付けて引き上げると、頭髪の先端に小さな水滴が出来た。これを仏陀の前へ差し出して「これを仏陀にご供養いたします。この毛端の水滴を太陽の熱や砂地に落としたりして消すことなく受け取って欲しい」と申し出た。
仏陀はこれを静かに受け取られて、近くに流れる大河へ、その水滴を落とされて説かれた。「微少の善根でも、それが仏道に関する限り、久遠(くおん)の生命が宿っている」と。この様に、これとよく似た仏説に、あの有名な「貧者(ひんじゃ)の一燈(いっとう)」の話があります。
仏陀が説法に来られる事を聞いた多くの人々が、思い思いに燈明(とうみょう)の油を器に入れて供養した。貧しい老婆は供養したい心はあっても、油を買う事が出来ない。だが供養したい思いは強く、ついには自分の髪を切って、少々の油を求めて供養した。やがて大小の器に火が入り説法が始められた時、突然強い風が吹いて火は次々と消えていった。だが不思議と老婆の供養した小さな火は消えなかった。この説法だけを読めば、そんな馬鹿なことがと笑う人がお見えになるかも知れませんが、この真意もまた先に話した「毛端の水滴」と同じ様に、善行に真心を込めることの尊さと、今一つは善行も仏道に関する限りその行為の生命は永遠に消え失せないことが説かれているのです。
米のとぎ汁を植物に施す行を教えられ、施しの行為の尊さによって豊かな心が成長した。この人は益々積善の行に励んで徳を得てのちインドきっての大長者になったという須達長者(すだつ・ちょうじゃ)の説もある。また貧しい少年が仏陀に供養したい一心から仏陀の前に膝まづいて一握りの土を差し出して供養した少年の心には供養したい徳を積みたいというそれ以外何も無かった。その清らかな心の成長と行為が晩年インドきっての大地主にしたと伝えられている。
誰しも願いを叶えるまで、希望を成就(じょうじゅ)するまでは一生懸命に清らかな気持ちで真剣であるが、得てしまうとその行為もその美しい純粋な心も放って置き、いつの間にか忘れ去ってしまう。しかし本当は得るものを得て願いが叶ってから、尚それ以上のものを仕上げて行かねばならない事に気付くべきである。何故ならば先に言ったように、人の欲望には限りが無いからである。確かに、欲望は人間の悩み・苦しみ・不幸・災難の根本原因になるものだが、捨て切ることは出来ないのである。欲望を捨てるのではなく、生かして行く事を仏教は説いているのである。
自分に欲望があるように、相手にも欲望がある。だから、その相手の欲望を満足させる為に先ず己の持てる力を出して尽力する。即ち人々に何らかの形で喜びを与え役立って生きることを喜べる生活である。この報酬を求めない行為の積み重ねが、日常生活の中で貴方の心を豊かに育てて行く、それによって、いつか欠点である欲望が長所と変化して、大きな報いと成って貴方の生活を潤す幸福が出来上がって行き、しかもその豊かな心の生活が可愛い子孫への徳育(とくいく)にもなるのです。
無限の欲望を叶える力は、無限の徳行(とくぎょう)の中にある。「私は人の為に役立って生きる。だが相手は自分のことしか考えない。それでも私は人の為に役立って生きる」。この真理を得た時から、真の安らぎが生まれる。
合掌
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