「宝塔」第294号
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 生活の手順を正す

 信仰の心ある者は、全て『説道』の精進をしなくてはならない、
 
知道(ちどう)=道を知る、悟りを得ること
 
開道(かいどう)=目覚めさせ、導くこと
 
説道(せつどう)=自らも仏道を実践し、人にも実行させ
            
ること
 
と教えられている。だが多くの人が『得道(とくどう)の信仰』をしているのではないだろうか。得道とは自分の願い事や、頼み事のみの信仰の仕方であると言われている。
 
怒ろうと、愚痴(ぐち)を零(こぼ)そうと、人を憎もうと、欲の深い事をしようと、ただ願って祈ってそれを叶える事のみのお参りをしているのではないだろうか。だがこれでは謙虚さも、感謝も努力も無い、自分勝手で人が困ろうが人を泣かそうが、自分の欲望さえ満足させれば良い、と言う自己的なものに過ぎない。
 
人に迷惑をかけ、苦しみを与えて何の反省もない罪作りな生活を繰り返しながら、その癖、自分が困れば救いを求めて願いをかけて頼み、願いが叶えば、けろりとその苦を忘れて罪作りの生活を続けている。
 
これでは生涯同じ事の堂々巡りをするだけであって、何の進歩も発展もないままで最後は孤独地獄(こどくじごく)へ落ちて行く道を歩いているだけに過ぎない。余りにも惨(みじ)めな姿であることを悲しまれた仏陀は、これらの者を救わんが為に、法を説き残されたのが先に言った説道である。
 
説道を実践して幸福への道を精進する為には、『聞思修』を繰り返しなさいと教えられます。
 
聞(もん)=仏法を聴聞(ちょうもん)して知ること
 
思(し) =聞いた教えを思惟(しい)すること
 
修(しゅ)=仏道の実践修行
 
聞思修を繰り返し得られた智恵が本当の悟りの智慧である。これを『聞思修慧(もんししゅえ)』という。
 
人の話や姿をよく聞きよく見て、それをどうすればうまく行くか、どう受け取る事が正しいかをよく考えて、行う時は真心を込めて一心に行うことに励みなさいと説かれています。
 
ある老夫婦が畑を借りて楽しんでおられた。その家に迎えられた時、しばらく入院しておられたご主人が退院されて、お蔭様で畑仕事も出来る程、元気に成りましたと喜びの挨拶にこられました。そこで、
 
私    「最近は何を作っておられますか」
 
ご主人 「ジャガイモを植えました」
 
私    「私も少年の頃、祖母と共に一、二度手伝った
       
事がありますが、今でも半分に切って、切り
       
口に灰を付けるのですか」
 
ご主人 「今は付けていません が、そう言えば昔は付
       
けていましたね。あれは何故付けたのでしょ
       
うね」
 
ジャガイモを半分に切って、その切り口に灰を付けてから植える事は、祖母がやっていたから知ってはいたが、少年の頃だったので、どうして半分に切って灰を付けるのか、その意味は聞いていなかったので全く分からない。答えようが無いので黙っていると一緒に来た人が助け船を出してくれた。彼の実家は農家で、農業は長年の体験者であった。
 
体験者 「あれは腐り止めの為です」
 
なるほど、私も御夫婦も初めて、切り口に灰を付けたのは腐り止めだったのかと感心しておりますと、
 
体験者 「ところでお宅は切り口を上に向けて植えてい
       
ますか、下に向けて植えていますか」
 
ご主人 「下へ向けて植えています。芽が早く出ると思
       
って」
 
体験者 「芽は早く出ますが、切り口を上に向けて植え
       
た方が、芽生えは遅くても大きな実が取れま
       
すよ」
 
なるほど体験は尊いものだと思った。体験者である彼の実家は農家であるから、彼は少年時代から手伝わされて青年期を過ぎるまで聞思修を繰り返した体験が、自信を持って話をさせたのである。
 
老夫婦や私は、手伝った時に切り口に灰を付けていた事だけは、体験の無い人よりは少々知っていたが、聞思修の繰り返しが無かったから、それ以上の事は知らなかった。私などは現在は切り口に灰を付けていない事も知らなかったのですから、何事もよく聞いて、よく考えて体験する事は尊いとよく分かります。
 
よく親が子供に対して、主人が奥さんに対して、上司が部下に対して、「何度言ったら分かるんだ」と叱る時がありますが、そうです、分からなければ何度も聞いて、よく考えて体験する事です。この体験の努力が時には、自分を叱った人よりも自分を成長させて、幸福の徳を掴(つか)んで行くことにつながるのです。
 
ある時、縁あって京都の通称鈴虫寺(すずむしでら)へ行った時、この寺の僧が現れて「この寺で年中鈴虫の声が聞ける様に成ったのは二十三年間の苦労の成果だ」と話された。
 
その二十三年間には随分と悩み苦しみ、焦燥(しょうそう)の日々が続いたと思われる。勿論ありとあらゆる文献や見聞によって得た知識を、あらゆる方法で繰り返し努力して来た成果が通称鈴虫寺としてこの寺を有名にしたのだが、では何故その様な努力をしたのか。説明によるとこの寺は京都で一番よく鈴虫の出る土地を持っていたので、誰言うとなく鈴虫寺と呼ぶように成ったと言われる。
 
クチコミによって伝え聞いた各地の人達が京都方面へ旅行に来ると尋ねて来る様に成った。やがて人々は寺の名が鈴虫寺と言うのだから、時期外れの春秋冬のいつ行っても声が聞けると思い込んでやって来て、力を落とし愚痴を零(こぼ)した。鈴虫寺だから年中鈴虫の声が聞けると思ってお参りする皆さんの期待に答えようとした熱意と努力が現在の成果を得たので、皆さんが春夏秋冬いつ来て下さっても喜んで頂ける様に成ったと言う。
 
松下幸之助さんが「人が自分を誉めたらその様な人間に成ろうと努力せよ」と言う意味のことを言っておられたが、まさにその通りであり、この寺は人が言う様な寺に成ろうと努力した。誠に素晴らしい事だと思います。
 
人に喜びを与える行為は尊い事である。これは皆さんよくご存知なことですが、人は心が弱く迷いが多い為、分かっていても出来ない事が多くあります。しかし、昨今、出来ないでは済まされない時代に成ってきています。 自分の家族の将来の為に、子孫の繁栄の為にも、今、私たちが人の、社会の役に立つことをする事が将来実を結ぶのです。
 
ある先師の先生の所へは、初めての人が多く尋ねて来られました。しかもこの人達は紹介して下さる人がいて、その紹介して下さる人の名前も顔も先生は知らないと言う。ところが先方は先生の立場をよく知っておられる様で、紹介されて来る人達に必ず「こう言う先生がお見えになるから行って相談する様に」と勧められて来るのだという事を聞かされた。先生は「何故なんだろう、名前も顔も知らない人が何の因縁で私の為に力に成って下さるのだろう」と考えた時、ふと思い付いた事があった。
 
それは先生の祖父の生前の生活にあったと言われました。先生の祖父は、非常に信仰心の深い人であったらしく常々、寺や尼僧が生活に困っておられると、惜しげもなく、僧やその家族の必要な物を援助して惜しまなかったと言われる。
 
この祖父の積善の徳が、縁あって仏道流布の道に精進されている孫に当たる先生の現在に実って来た。
 
この因縁を見た時、情けは人の為ならずと諺(ことわざ)にもある様に、先祖の情け有る生活が子孫の生活を潤したのである。
 
現在の世に生きる親と名のつく者は、現実の物質の幸福や欲望の満足も結構であるが、経済至上主義・成長期の時代は終わっていますので、積善の行に励み、子孫への徳の遺産を残してあげるべきです。その為には、知道・開道・説道の教えの実践、『聞・思・修』を繰り返せと教えられます。よく聞いて、よく考えて、正しいと理解した道を心を込めて努力精進をして下さい。
 
功徳はあとから、仏様が置いていってくれます。

合掌

宝塔第294号(平成16年7月1日発行)