「宝塔」第295号
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 教えは身をもって知ること

 信仰は、教えを知り尽くしても、それを守る事が出来なければ、その尊さを知る事が出来ません。
 
仏教は、私たちに何時如何(いついか)なる事が起きても、外部よりの働きに捕(と)らわれず、自己の生命の内部より生まれるものを見極めていく事を教えています。
 
全ては、自己の内部より生まれた物であるという精神を生み出せば、この世に怖いものはありません。心をしっかりと養って行くには、信仰を持ち自分自身のものにする事です。それには常に教えを身に口に意に保つことが大切です。
 
この教えを長い間、聞いていた娘さんが、恋愛をしましたが、母一人子一人の生活で、なかなか母親がこの結婚を許しませんでした。もう三十一にもなるので彼と相談して母親を騙(だま)すようにして結婚をしてしまいました。母親はその事を怒り、どうしても娘の主人を許しませんでした。四年ほどしてから御夫婦で相談におみえになった折に、「長い目で見て遠くから暖かく見守って行く事です。やがて喜んで頂く時も必ず来ます。信仰とは身と口と心で教えに従う事ですから、母親の心のとけるのを待つ事も大切です」と申し上げました。
 
それから二人は折りに触れ、優しく母親に接する様にしましたが駄目の様でした。
 
信仰の心、まず、敢(あ)えて行うことから始めて、それを貫いていくこと継続することが大切です。そして、その行為が習慣として行えるような心が養われたときに陰徳が備わっていくのです。
 
今始めてすぐ出来るものではなく、長い年月をかけて自分の心を磨(みが)き高めて、教えを心と身体にたたき込んでいくものです。
 
三年程過ぎて母親が腰痛で炊事も出来なくなりました。娘さんの御主人が、それから毎朝その日一日分の食事やお味噌汁を会社に出勤する前に運ばれました。
 
半年程たってから「そこに置いといて」と少しも喜びの顔もせず有り難うの一言も言われませんでした。
 
嫌気(いやけ)がさして、もう止めようと妻に零(こぼ)した時、妻が「すみません。もうよろしいから明日から私が持って行きますので気を使わない様にして下さい」と言いました。その顔を見て、こんな事では折角(せっかく)聞いた教えも駄目になると思い、何時か一言くらい喜んで頂く事もあるだろうとまた始められたのです。これが身の施しにつながるのです。
 
心の中で、何時になるか分からないが、お母さんが少しでも喜んでくれるのはいつ頃か、これを楽しみに根比べをしようと思うこと、これが意〔心〕の施しになるのです。それからは、毎日運ぶ弁当が楽しみになり「お母さん、おはようさん、今日はこれですよ」と優しい言葉を懸けつづけること。これが口の施しになるのです。
 ご主人は、
相手が何と思ってもこれが自分の修行であると思う様になりました。
 
善いことを習慣として行える心が養われました。これが本当の徳行であり、陰徳が養われます。
 
やがて二年ほど経ちました。「長い間、有り難うね。こんなに良い婿さんを無愛想にして、すみませんでした」と敷居に頭を下げて涙を流されました。彼の方がびっくりして戸惑いました。そして母親と一緒に暮らす様になり、この母親が娘に「こんなに良い人は、日本中どこを探しても居ませんから、一生大切にしないと罰が当たりますよ」と言われる様になり、二人の孫さんにも、お父さんを大切にして、よく言う事を聞きなさいと、生まれ変わった様になられました。母親もやがて教えを聞かれ今では、信仰と言うものは尊いものだと感謝の心で暮らしてお見えになります。この言葉を聞きますと、ただお参りをしたから信心が出来たのではなく、その教えを身をもって行ったところに、喜びと感謝が生まれたのです。
 
仏様は、全ての人に仏性(ぶっしょう)有りと説かれました。それを信じなくても、その心で暮らせば必ず、なるほどと知る事が出来ます。どんな人にも仏性有りです。
 
ある高校二年生の担任の教師が、クラスの中に何人かの出来の悪い生徒がいて、授業の妨げをするので、困っているとの話でした。
 
「どんな悪い事をする生徒でも仏性が有ります。今だけの姿を見ると信じられないかもしれませんが、社会に出て立派になり、世の中の為になっている人も沢山おりますよ。視野を広げて、今が全てではなく、その人の心の持ち方でどんなにでも変わる事を知り、一人一人の人格を見て、信じて接する様に努力して下さい」とその教師に話しました。
 
ちょうどその教師の所へ、一人の生徒の母親が相談に来ました。その方は、ご主人を亡くされて八年、一人の子供の為に汗水流して働いていました。ご主人がいなくてもせめて大学だけでも出したいと思っていましたが、子供は学校には行くけれど勉強はほったらかしで、家に帰るとすぐバイクを乗り回して、好きなことばかりしています。この先どうなることかと心配されていました。
 
教師はその時、仏様の心である所の仏性がある事を思い「お母さん、今そんなことをしても心配ありませんから信じてあげなさい。私はあなたの子供さんを信じていますよ」と言いました。その言葉にお母さんは涙を流し、疲れ果てた心に勇気を奮い起こし、たとえ子供が何をしていても努力されたのです。バイクで転んで足を折った時に、先生が見舞いに行かれ「君のお母さんは偉いね、お父さんがいなくても自分の一生を君に懸けているから、お母さんも君なんかほっておいて、良い人でも見つけて結婚でもされると良かったのに、君の為に君が何をしていても、頑張って働いて見えるのだ。どうだ君もお母さんの為に、一つでもよいから何かをしてみる気はないか。先生なら何かお母さんに喜んで頂ける様な事を一生懸命やってみるが考えてみろよ」と、そんなことを言って帰りました。
 
足が治って学校に出て来た時、先生に話があるからと生徒がやって来て「こんな僕でも今から頑張ったら大学へ行けるか」と言い出しました。
 
「それは君の努力次第だ、やってみるか、先生も手伝ってあげるから」と約束をしました。
 
それからの彼は、脇目も振らずに勉強をして、国立の大学に見事合格されました。先生の所へもよく遊びに来て「先生、誰かの為に努力をする事が、こんなにも楽しく生き甲斐があるとは知りませんでした。本当に有り難うございました。僕は自分の一生を少しでも役に立つ人になるように頑張ります」と言っていたとの事です。
 
この事で、この教師は自分自身、信仰とは神様や仏様に願いをかけて拝む事ではなく、すべての人に仏性ありとの心で生活をする事に仏の心(教え)があるのだと確信し、張り切っておられました。
 
自分の心によって苦も悩みも生まれるものです。人生の幸福とは、求めて得られるものではありません。身体が弱くいつも病んで嘆いていた人が、丈夫になられたらそれはそれなりに大きな喜びとはなりますが、また他の事で、例えば夫婦の中で意見の違いから、いつも気難しい生活をして、やがては主人が外でお酒を呑んで家に帰れば悪酔いをして家の者を困らせる事になったり、子供の出来が悪く、勉強もせずに遊んでいると少しは勉強しろと心を傷め、高校・大学と進んで卒業はするが、なかなか就職も出来ず、家でごろごろしていればまた苦しみ、好きな人でも出来て、結婚をすればしたで、あの嫁は口ばかり達者で、何をしても駄目で困ったと嘆きます。
 
この世で、人と人との付き合いは思うようにならないのが常なのです。この原理を知って、本当に仏様の心に少しでも近づく事が出来れば、先に書きましたお二人の方の様に、忙しくてお参りもあまり出来なくても、この行は常に仏の心に叶うものです。そこに仏の守護があります。
 
利益とは、仏様から守られる様な生活をする事です。この方々の家では、いつも朗(ほが)らかな楽しい暮らしがあります。信仰とは、これでなければなりません。
 
信仰とは求めるものではなく、常に心を与えていく事です。

                  合掌

宝塔第295号(平成16年8月1日発行)